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人人生  作者: うにたこ
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第二章 黄梁の街に灯る影

 駅を出ると、黄梁の夕暮れは一段と冷え込んでいた。山々に囲まれた盆地の町は、太陽が山の端に沈むだけで、まるで誰かが急に世界の温度を絞ったかのように空気が冷たくなる。さっきまで列車の中でまとわりついていた人いきれの熱が、今では嘘のようだった。


 吐く息がうっすらと白くなり、鼻の奥がつんとする。総悟は肩から提げた荷物を持ち直し、薄いコートの襟をぐいと立てた。布越しに感じる自分の呼気が、妙に頼りなく思える。


 駅前には、小さなロータリーと、その周りを囲むようにして木造二階建ての店が並んでいた。古い看板に手書きの文字で「大衆食堂」「黄梁館旅店」「酒場」といった言葉が掲げられている。どの看板もくすんだ色をしているが、灯された裸電球や赤い提灯の光を受けて、そこだけ暖かそうな雰囲気を醸し出していた。


 油にまみれた匂いと、醤油の焦げる匂いと、豚の脂が煮える匂いと、香辛料の鼻を刺す匂いが、ごちゃまぜになって漂ってくる。腹の虫が、ぐうと情けない声を上げた。


「……腹、減ったな」


 自分でも聞き取れるかどうかというほど小さくつぶやき、総悟は苦笑した。ここ数日、まともな飯らしい飯を食べていない。父の二郎が作る、塩加減のいい味噌汁や、焦げかけた焼き魚を、ふと恋しく思った。


 その父親の顔が脳裏に浮かんだ。


 つるつるに光った頭。妙に楽しげな笑い皺。酒に弱いくせに晩酌だけは欠かさず、ろくでもない昔話を延々と聞かせてくる舌の回り方。


(……今ごろ、ひとりで飲んでんのかね、あのハゲ)


 心の中でそう毒づいてみせるが、胸の奥の温度は少しだけ和らいだ。親父は「行きたきゃ行け」と言って、背中を押すみたいに旅費を握らせてくれた。渋い顔をしていたくせに、最後にはどこか誇らしげな表情まで見せていた。


 ろくでもないところも多いが、結局、いい親父なのだろう。


 そう認めるのが、少しだけ気恥ずかしかった。


 黄梁駅前の通りは、遠くから眺めると寂れた地方都市にしか見えなかったが、実際に足を踏み入れてみると意外なほど活気があった。行商人が荷車を押し、子どもが駆け回り、仕事帰りの男たちが暖簾をくぐって酒場へ吸い込まれていく。和服と洋服、軍服と作業着、さまざまな姿が入り混じっている。


 その雑多な喧噪の底を、冷たい何かがかすめた。


 皮膚の表面を、氷の針でなぞられたような感覚。


 総悟は足を止めた。


(……今の、なんだ)


 駅のホームで感じた霊の気配とは違う。あれは目に見えるほど濃く、生々しいものだった。今、ここで感じたのは、もっと細く、静かで、しかし確かにそこにある“ひび割れ”のようなものだった。


 目を閉じれば、まぶたの裏で黒い筋が伸びていくのが見えそうな感覚。


 通りを行き交う人々は、誰もそんなものに気づいていない。屋台の兄ちゃんが大声で焼き餅を売り、女たちが井戸端会議の続きをしながら歩いていく。笑い声と、怒鳴り声と、ラジオから流れるニュースの音とが、夕暮れの空気に混ざっていた。


 その喧噪の中に、ぽっかりと浮いた冷たい空白。


「……妙な町だな」


 そうつぶやいた総悟の耳に、別の声が飛び込んできた。


「おや、おや。見慣れない顔だと思ったら、ずいぶんといい男じゃないか」


 振り返ると、中折れ帽をかぶった小柄な男が立っていた。コートの裾は少し擦り切れ、だが襟元だけはきちんとアイロンがかかっている。片手には金属製のランタンをぶら下げていた。中で揺れる小さな炎が、男の頬と髭に黄金色の光を落としている。


「観光かい?それとも、仕事で?」


「……さあな。どっちでもいいだろ」


 総悟は少し肩をすくめ、面倒くさそうに答えた。


「そうかいそうかい。だが、そんな顔でこの町を歩かれちゃ、町の女どもが落ち着かんね。いや、あっちの客もこっちの客も、目線を持っていかれちまう」


「知らねぇよ、そんなの」


 男の軽口に、総悟は鼻で笑った。こういう手合いには慣れている。ハーフの顔立ちは、よそ者の目を引き、商売人はそれを見逃さない。


「で、兄ちゃん。寝る場所は決まってんのかい?」


「一応、紹介された店がある」


「へえ。どこだい?」


「……黄梁館ってとこだ。知り合いのツテだ」


 男の目が、少しだけ丸くなった。


「ほう、黄梁館か。あそこは悪くない。飯もそこそこうまいし、主人もまあ、ハゲてはいるが腕は悪くない。ちょっと口は悪いけどね」


 ハゲ、という単語に、親父の顔がよぎった。


(ハゲ率高ぇな、この世界)


 内心でぼやきながらも、総悟は肩の力を抜いた。


「なら、迷う必要はないな」


「だが、その前に一つ忠告しといてやるよ」


 男はランタンを持つ手をわずかに持ち上げた。炎がふっと揺れる。


「この町はな、夜になると少しばかり“霧が濃くなる”」


「濃くなる?」


「見なくていいものが、見えやすくなる。聞かなくていい声が、耳に入りやすくなる。そういう土地柄ってやつさ。霊災の傷が、まだ地面の下でくすぶってるんだろうよ」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ランタンの炎が再び小さく揺れた。


 今度は、さっきよりもはっきりと。


 風が吹いたわけではない。

 周囲の暖簾や紙が揺れている気配もない。

 それなのに、炎だけが、何かに怯えるようにちろちろと震えている。


「……今の、分かるか?」


 総悟が思わず問いかけると、男はきょとんと目を瞬かせた。


「何がだ?」


「いや、なんでもねぇ」


 ごまかすように言って、総悟は男に軽く会釈した。


「忠告、ありがとよ」


「どういたしまして。黄梁館は、この通りをまっすぐ行って二つ目の角を右さ。変なものに捕まらないように気をつけな」


 男はニヤリと笑い、ランタンをぶら下げたまま人混みの中へ消えていった。小さな炎の揺れだけが、しばらくのあいだ総悟の視界に焼きついていた。


 霊の気配は、まだ消えていない。


 むしろ、さっきよりもはっきりとしてきた。


 駅前の雑踏から離れ、通りを少し奥へと入る。人通りは少しずつ減り、代わりに古い石垣や寺院の門が目につくようになった。遠くで梵鐘の音が鈍く響く。


 足元の石畳に、黒い筋が一本走っているように感じた。


 実際には何も見えない。

 だが、感覚としてそこにある。


 その黒い筋は、駅のホームで見たものよりずっと細く、だがしつこく続いている。地面の奥深くへと潜った亀裂が、じわじわと地表を侵食しているような、不快なイメージだった。


「……ほんとに、面倒な町だな」


 そうつぶやいたときだった。


 前方から、ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。


 石畳を駆ける音。

 息を切らす気配。

 何かから逃げているような、焦りの混じった足音だった。


 総悟が顔を上げた瞬間――


「きゃっ!」


 軽い悲鳴と同時に、小さな影が勢いよく飛び込んできた。


 咄嗟に腕を伸ばす。

 細い肩を抱きとめた感触が、胸元にずしりと伝わってくる。思ったよりも軽い身体。だが、緊張でこわばっていた。


「っと……おい、大丈夫か」


 腕の中で顔を上げたその人物を見て、総悟は目を見開いた。


 白い着物。

 淡い藤色の帯。

 紺の外套。

 黒い瞳。


 駅のホームで目を合わせた、あの少女だった。


 橋本あゆみ。


 まだその名を知らぬ総悟にとっては、“さっきの女”でしかなかったが、その目だけは忘れようとしても忘れられるものではなかった。


「……あんた」


 思わず言葉が漏れた。


「さっきの駅で、いたよな」


 あゆみは一瞬呆然と総悟を見つめ、それから慌てて身を離した。頬に薄く赤みが差している。


「ご、ごめんなさい。前をよく見ていなかったの」


「見てなくてもぶつかる相手は選べよ」


「選べるわけないでしょ、走っているときに」


 ぴしゃりと言い返すあゆみの口調には、あのときホームで感じた芯の強さがそのままににじんでいた。気の弱い娘なら、そのまま謝り倒して逃げていただろう。だが彼女は、謝りながらも自分の足で立とうとしている。


「そんなに慌ててどこへ行くんだよ」


「あなたに関係ないわ」


 即座に跳ね返ってくる返事。


 総悟は、口の端だけをわずかに持ち上げた。


「陰陽寮か?」


 その一言で、あゆみの目が大きく揺れた。


「……どうして、そう思うの」


「さっき駅で見た。あの黒外套の連中と一緒にいただろ。それに、この辺り、さっきから霊の気配がうるせぇ」


 あゆみの喉が、かすかに上下した。

 普通の人間なら、霊の気配に気づくことすらない。この町に長く住んでいる者でさえ、せいぜい“なんとなく嫌な感じがする”程度だろう。


「あなた、霊の気配が分かるの?」


「分かるってほど大したもんじゃねぇよ。ただ、昔から……こういうのには縁があるだけだ」


 避難民として逃げ惑ったあの夜。

 焼け落ちる街。

 崩れた屋根の下から伸びてきた、冷たい指のようなもの。

 それらの記憶を、総悟は胸の奥に押し込めた。


 あゆみは、しばし総悟の顔を見つめていた。

 男の顔としては整いすぎているほど整った輪郭。

 だが、その目は妙に冷めている。何度も何度も人の視線や噂に晒されてきた者だけが持つ、諦めと皮肉の混ざった色。


 その中に、ほんの少しだけ、今の言葉だけは嘘じゃないという真剣さが宿っていた。


「……そう。なら、なおさらよ」


 あゆみは静かに言った。


「ここから先は、陰陽師の仕事の場なの。一般人が首を突っ込むところじゃないわ」


「一般人、ね」


 総悟は苦笑した。


「そういう区切りが、霊のほうに通じりゃ楽なんだけどな」


「霊にとって、人間の身分や職業なんてどうでもいいことよ。だからこそ、陰陽師が必要なの」


 言葉だけ聞けば、教科書に載っていそうな正論だった。

 だが、その声音には、どこか自分に言い聞かせているような響きも混じっている。


「……そんな顔で言われてもな」


「どんな顔よ」


「無茶する気まんまんの顔だ」


 あゆみの眉がぴくりと動いた。


「あなた、本当に失礼ね」


「よく言われる」


「誇らしげに言わないでちょうだい」


 ぴしゃり、とした口調の裏で、あゆみの視線が再び寺の方角へ向いた。石段の上に、古い寺院の屋根が影のように浮かび上がっている。鐘楼のシルエット。その背後に立ち上る山の稜線。薄闇がゆっくりと街を飲み込もうとしていた。


 霊の気配は――確かに、あの方向から伸びていた。


「本当に、行くのか」


「行かないわけにはいかないでしょう。呼ばれているもの」


 あゆみは、袖口から白符の束を取り出し、指先で軽く整えた。その仕草はゆっくりとしているが、迷いはない。何度も同じ動作を繰り返してきた者の手つきだ。


「……じゃあ、ついてく」


「は?」


 あゆみがきょとんと目を瞬いた。


「何を言っているの」


「見てらんねぇんだよ。あんたみたいなやつが、一人で危ないところに突っ込んでくの」


「陰陽師の仕事に素人がついてきて、どうするつもり?」


「さあな。必要になったら、走って逃げるぐらいはしてやるよ」


「逃げること前提なのね」


「当たり前だろ。死にたくねぇし」


 平然と言い切る総悟に、あゆみは言葉を失ったようだった。

 陰陽師という存在に憧れの目を向ける者は多い。霊を祓う姿を見て、「かっこいい」と囁く声も少なくない。


 だが、この少年は違う。

 陰陽師の力に惚れ込んでいるわけでも、霊を相手に腕試しがしたいわけでもない。

 ただ――目の前の誰かが無茶をするのが気に入らないだけだ。


「……本当に、変な人ね」


「よく言われる」


「褒めてないわよ」


「褒められたいわけでもねぇよ」


 ふたりの言い合いは、外から見れば喧嘩腰にすら見えたかもしれない。

 しかし、その言葉のぶつかり合いの中で、妙な温度が生まれつつあることに、当人たちはまだ気づいていなかった。


 あゆみはやがて小さくため息をついた。


「……勝手にしなさい。ただし、私の邪魔はしないで」


「邪魔する気はないさ」


「本当かしらね」


「本当かどうかは、見てりゃ分かるだろ」


 あゆみは総悟を一瞥し、くるりと背を向けた。

石段へ向かって歩き出す。


 白い着物の裾が、夕闇の中でぼんやりと浮かび上がる。

 その後ろ姿を、総悟は半歩ほど距離を置いてついていった。


 寺への石段は、それほど長くはない。

 だが、上るごとに空気の温度が変わっていくのが分かった。


 一段、一段、霊の気配が濃くなる。

 街の喧噪が遠ざかり、代わりに静寂が耳を満たしていく。


 風が吹いた。


 松の枝がざわめき、どこからともなく鈴の音のようなものが聞こえた気がした。


 石段の途中で、あゆみがふと足を止めた。


 総悟も同じ段の手前で立ち止まる。


「……ここから先は、本当に危ないわ」


「さっきも似たようなこと言ってただろ」


「さっきより、ずっとよ」


 あゆみの声は、さっきまでの強気な調子より少し低く、固かった。

 その横顔を見て、総悟はほんの少しだけ胸が痛んだ。


「怖くねぇのか」


「怖いわよ」


 即答だった。


「怖いし、できることなら行きたくない。でも、行かなきゃいけないの。陰陽師だから」


 それは、自分に課した呪文のような言葉だった。


 総悟は、ふっと笑った。

 莫迦にするような笑いではない。

 どこか、羨望と苛立ちが混じった笑い。


「……かっこつけてんじゃねぇよ」


「かっこなんてつけてないわ。本当に、ただそれだけなの」


「だとしても、言い方がそれっぽいんだよ」


「あなた、本当に……」


 あゆみはそこで言葉を切り、かすかに笑ったようにも見えた。その笑みがわざとなのか、それとも思わず零れたものなのか、総悟には分からなかった。


 寺の境内が、石段の上に広がっている。


 古びた本堂。

 苔むした灯篭。

 軒先からぶら下がる風鈴。

 夕暮れの光はほとんど失われ、境内には薄い闇が落ちていた。


 その闇の中に、ひときわ濃い影がひとつ、じっと佇んでいた。


 人の形をしているようでいて、違う。

 輪郭はあいまいで、ところどころが欠けている。

 だが、その中心だけは、ぎゅっと何かに縛られているように凝縮していた。


 霊。


 駅のホームで見たものよりも、ずっとおとなしく、しかし深い。


 あゆみは一歩前に出た。


 白符を一本、指先に挟む。


 その背中を見つめながら、総悟は無意識に息を呑んだ。


 ――陰陽師ってやつは、やっぱり、かっこいいのかもしれない。


 そんな言葉が、心の奥のどこかで、小さく生まれかけていた。


 あゆみはゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。吐息が白くほどけ、霊の影と自分とのあいだに、薄い幕のように広がっていく。


「橋本あゆみ。陰陽寮所属の陰陽師よ。ここにて、さまようものに問うわ」


 静かな声が境内に落ちた。


 その横顔を見ながら、総悟はふと、自分の旅が本当に始まったのだと実感していた。この町で、何が起きるのか。目の前の少女が、これから自分の世界をどう変えていくのか。


 胸の内で、説明のつかない期待と不安とが、同じくらいの重さで揺れていた。

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