閑話 月宮・十五
月の眩しい夜。あの子たちを部屋に送り出して、私はひとり閉店後の店を見やる。
照明をひとつずつ落としながら、静かな音に耳を澄ませた。
コーヒーミルの余韻、湯気の名残、カウンターに残る淡い香り。
この時間がいちばん好きだ。誰も喋らない店ほど落ち着くものはない。
こんな夜は久しぶりに紅茶でも飲もうか、と思い立つ。折角だし、魔法の紅茶の残りを飲んでしまおう。
魔力を込めて注いでみると、紅茶は深い藍色に染まっていった。
「…まだ忘れられてないんだな」
思わずつぶやいてしまう。
藍色は、深い、哀しみと後悔の色。
未だにあの頃の傷を忘れられていない。私の──苦味と酸味が強すぎる思い出。
─
『新進気鋭の天才バリスタが、いよいよ独立か。大したもんね』
『よしてくださいよ。でも、やるからには完璧な店を作ってみせます』
『あまり気負いすぎるんじゃないよ』
開店祝いに訪れた師匠は、そう言って笑っていた。
私が28のときに王都で開いた喫茶店『fleur』は、師匠のネームバリューもあってそこそこに繁盛していた。
部下として雇った男、ディミトリオ・サーズもいい仕事をしてくれて、プライベートでも友人として仲良くしてくれている。
そのうち店員も増え、「私のコーヒーだから」と来てくれる客も増えた。
そんな楽しい日々が、続くと思っていた。同期から、あの手紙を手渡されるまでは。
『…葬式?誰の?』
『師匠のだよ。聞いてなかったのか?』
世界から色が消えたような心地だった。「癌だってさ。まだ40もそこらなのに」という声がやけに遠く感じた。
葬儀には多くの人が訪れ、彼女の早逝を悼んでいた。…私は、涙すら流せなかった。
師匠は、私には病気だなんて一切言わなかった。きっと、店で忙しい私を気遣わせたくなかったのだろう。
私に自分の仕事をしっかりやってほしいと願っていたんだ。彼女はそういう人だ。
…なら、店をもっと良い場所にしなければ。師匠に誇れるように。
やるからには、完璧に。
─
焼きすぎた豆を全部捨てて、もう一度、もう一度。寝る時間を削って、配合を調べ直して、分量を変えて、抽出の秒数を変えて。
ミスがあってはいけない。そんなのは、お客に失礼だ。もう一度、今度は言葉を変えて。
『十五、最近ちょっと厳しすぎない?新人の子泣いてたよ』
サーズが言う。完璧じゃないのだから仕方ないじゃないか。完璧にこなさなくては。
ミスの多い店員を叱り飛ばして、もう一度、もう一度、もう一度。
しかし、そんな体制では長くは続かなかった。
『店長には付き合っていられません。私たち、今日限りで全員辞めます』
そんな言葉を吐き捨て、彼らは出ていってしまった。
『最近のあなたのコーヒー、なんだか"心"がないわ』
そう言い残し、常連さんはぱたりと来なくなった。
完璧を追い求めているだけなのに。私の『完璧』は、誰にも届かない。
…あれ。私は、何のために頑張っているんだったか。
やがて店には、私とサーズ以外誰もいなくなってしまった。
『サーズ、私は…どこから間違ってた?』
『わからない。でも、殴ってでも止められなかった僕も悪い』
茫然自失の頭で、久しぶりに"他人の味"が恋しい、という話になった。どちらが言い出したかは、もう覚えていない。
名前も見ずに入ったその店は、決して完璧とは言いがたかったけれど、笑顔に溢れていた。
…完璧を求めるあまり忘れていたものが、その店のコーヒーには詰まっていた。
『…決めた。私は、王都を出るよ。一度この国を回って、一からやり直す』
『…そうか。なら僕は、王都に残ろう。ここで僕なりの答えを見つける』
─
その後私は、アリアデル王国の町を旅し、ウィストに腰を据えることになる。
師匠の墓参りにも行った。「もう一度やり直す」と墓前に呟くと、少しだけ風が柔らかくなった気がした。
…まさかサーズの奴が、『fleur』の名前を持っていくとは思わなかったけど。
まあ、あいつは私よりうまくやる。花を咲かせるのは、私じゃなかったということだ。
私は咲かせなくてもいい。花は、見るに限る。ただ…その香りまでは、忘れたくないというだけ。




