009.姉妹
珍しい客は続くもので
姉妹の目的はある男を探すことだが
昼の喧騒がようやく静まりを見せ始めた、午後の穏やかなひととき。
「選択の羊」の扉が、からん――と軽い音を立てて開いた。
現れたのは、揃いの修道衣に身を包んだふたり。
目深なフード被った一人は体つきから女であろう、金糸の縁取りが施された聖布を肩に垂らし、立ち居振る舞いには一分の隙もない。
もうひとりは、十歳ほどのあどけなさが残る侍徒――教会で最も低い階級の少女だった。簡素な服装が、彼女の立場を静かに物語っていた。
帳簿に指を置いたままのノルンは、その姿を見て思わず眉をひそめる。
この店に聖環公会の者が現れるのは、開業以来初めてのことだった。
王都において聖環公会は国教を担う巨大な組織。
その本部は王国にも属さぬ独立聖域にあり、表立って政治や軍事に干渉することは少ないが、慈善事業や教育、治癒の分野で国と密接に関わっている。
信仰と現実が手を取り合い、互いに干渉しない――それが原則だった。
ゆえに、このような小さな私店に教会の人間が足を運ぶのは極めて珍しい。
見たところ「姉妹」と呼ばれる独自の教育制度の一対だろう。
姉となる上位聖職者が見初めたひとりの妹を生涯導くという、精神と修養の絆によって結ばれた“教会の家族”だ。
孤児院や教会、炊き出しなど神の使徒としてその姿は王都の至る所で見かけるが、それでも俗世とは隔絶した別世界の住人という印象は強い。
そんな彼女たちが一商店を訪れるとなれば、何事かと身構えることになる――。
「姉妹とは……これはまた、珍しい客が続く」
ノルンが小さく呟く。
店内を物色し始めたのは幼い侍徒の少女だった。瞳を輝かせ、手にした品をぐるりと見まわしては元の場所に戻していく。
なにか目的の品でもあるのだろう。矢継ぎ早に品々を確認していく。
やがて少女は保存食の棚で足を止め、一つの包みを手に取った。
そして目当ての宝物でも見つけたかのように目を輝かせ、入り口に控えていた姉と思われる女に差し出した。
姉の方は包みを受け取ると、注意深くしばらくそれを見つめ、やがて懐から一枚の紙を取り出す。
その紙と商品を見比べたのち、ゆっくりと静かにフードを下ろした。
金色の髪がさらりとこぼれ、澄んだ碧眼が姿を現す。
その顔立ちは、彫刻か絵画の中の聖女のようで、見る者を言葉もなく圧倒する神々しさすらあった。
ノルンは目を細める。自分も都では美人と呼ばれる類だと自覚しているが、目の前の修道女は、その“人の美しさ”の範疇を超えていた。
まるで神の御人形――嫉妬すら湧かない、ただただ別格の存在だ。
故に人としての存在を疑い掛けたのだ。
姉は妹の頬を撫で、なにやら祈りの言葉を発する。
聖言で放たれるそれの意味するところはノルンにはわからないが、姉妹にとってはとても大切なことなのだろう。
満面の笑みで、妹の方も祈りを繰り返す。
それが終わると二人はカウンターに歩み寄り、姉の方が手にした紙片をノルンに差し出して話しかけた。
細く陶磁器のように白い指が無意識に織りなす、しなやかで落ち着いた所作。粗野な客ばかり相手にしているノルンには、些か持て余す。
「この包み紙、こちらのもので間違いないでしょうか?」
ノルンは差し出された紙片を受け取り、そこに押された刻印を確認する。
「沈黙の羊」の印に間違いはない。
丹精込めて包み込む保存食の紙に、日付の筆跡から確かに自分の手で巻いたものだった。
無意識に匂いをかぎ、不備がなかったかどうかを念のため確かめる――職業病のようなものだ。
「……うちのですね。ちょっと油滲んでますけど、印も合ってます」
「なにか問題がありました? お腹でも壊しました?」
下手に出て尋ねる。
普段なら冒険者相手に適当に笑って済ませられる話も、聖職者が相手となると慎重になる。
だが修道女は首を横に振り、静かに名乗った。
「聖環公会・王都支部所属。第四階格《律動》、ファリス・シオンリードと申します」
続いて、隣に立つ少女も慌てて口を開く。
「同じく聖環公会、侍徒のミューズ・クラームですっ!」
《律動》といえば教義の実務を担い、王都支部では行政的な実権を持つ要職だ。
ただ単に置物として美しいだけで辿り着けるような階層ではない。
この年端もいかぬ少女には人知を超えた美しさの他にも、何らかの特別な力や後ろ盾があるのだろう。
そんな大物が何の用がと、当たり前の疑問を投げかける。
「司祭様がこんな店になにを?」
司祭と呼ぶのは慣習のようなものだ。そもそも細かい階級にこだわるのは内部の人間の話にすぎない。
ノルンのような外部から見れば「偉い=司祭」「偉くない=修道女」で十分。
無論、言われる側もそれは承知の上で、気にする様子もない。
「この包み紙は、同胞の命を救った方の持ち物でした」
「先日、閉門に間に合わず、十数名の巡礼者が城外に取り残されました。
あいにくの雨で、女子供ばかり。身を守る力はおろか、暖を取るすべもなく……
そのまま野宿していれば、命を落としていた者もいたかもしれません」
「ですが旅の途中だという男性が現れ、皆を救ってくださったのだと。
雨除けの布、毛布、暖の用意から食料まで。さらには一晩中、見張りまで引き受けてくださったと聞きました」
ノルンの表情がわずかに動いた。思い当たる男が一人――。
(ジノか……)
ファリスは包み紙をもう一度見つめ、静かに続けた。
「あのような雨の夜でありながら、無事に誰一人欠けることなく朝を迎えることができたそうです」
「しかし残念ながら夜明けとともに、その方は名も告げず立ち去ってしまわれました。
残された手がかりが、施してくださった品にあるこの文様。
出所を辿ればその方の素性がわかるかと――そう考えて、ここへ伺ったのです」
ノルンはしばし黙り、やがて小さくため息を漏らす。
「それで、そいつを見つけてどうしようっての?」
「ご存知なのですか?」
「ではお名前を、この店にはよく来るのでしょうか?」
矢継ぎ早に質問するファリスの瞳の輝きが増したようにすら見える。
天使の笑顔とはこういうのだろうか。善行に対して前向きで純粋、穢れという存在が欠如している。
「確信はないけど、心当たりはある。
だけどね、本人が名乗らなかったってことは――そういうことよ。勝手に教えるわけにはいかない」
ファリスの問いを遮るノルンの声には、静かな決意があった。
彼女たちに悪意がないことは分かる。恐らくは感謝を伝えたい、それだけのことだろう。だが――
冒険者にとっては、ほんの些細な出来事が命取りになることもある。
名乗らなかったのは、ジノ自身の選択だ。ならば、その意志を尊重するのが筋というものだった。
「失礼いたしました……。
確かに貴女の信頼に関わることです。不躾な質問でした」
ファリスは己の都合ばかりであったことを謝罪し、更に話を続ける。
内容はそれほど実のあるものではない。運命、奇跡、導き、すべては神の御業といった手合いのもの。
いちいち討論するほどの内容でもなく、双方が納得するための儀式のようなものだ。
そして本題に入る。
「もしも、その方がもう一度現れた時、これをお渡しいただけますか?」
ファリスは一つの革袋を懐から取り出し、カウンターの上に置く。
金貨の音が、鈍く袋の中で転がる。
ノルンは目を細めた。どう考えても対価としては過剰すぎる。
そもそも初対面の人間に預けていいような額ではない。
「保証はできないわよ? あたしが懐に入れちゃうかもしれないじゃない」
揶揄とも皮肉とも取れる言葉に、しかしファリスは穏やかに微笑む。
「それは、神が定めること。もしあなたが奪ったとしても……その方が、この店の商品で救われたのだという証です」
あまりに真っ直ぐで、あまりに別の世界の理だ。ノルンは思わず黙り込む。
断ることはできるだろう。だが断れば彼女たちはこれを手放すまで同じようなことを繰り返すのだろう。
善人ならよい。だが悪人に出くわしたならば碌なことにはならない。
今もカウンター横の硝子瓶の中の蜜菓子を物欲しそうに見つめている幼い少女――ミューズのことを思えば、
こんな茶番は早々に終わらせてやる方がマシなのでは、とノルンは思った。
しばしの沈黙ののち、ノルンは口を開く。
「神様が定めてんなら、従うしかないわね」
私が懐に入れるのか、ジノに渡すのか――
ノルン自身も今のところ分かっていない。そもそもジノがこれを受け取るとは到底思えなかった。
それでも、姉妹を解放する方が神様も喜ぶような気がしたのだ。
「ありがとうございます。
そのお方が許すなら、公会のファリスを訪ねていただけるようお伝えください。
決して悪いようには致しません」
ファリスの言葉が終わると、ノルンはそっと袋を引き寄せ、わずかに眉を寄せたまま黙り込んだ。
「……で、それだけじゃないだろ?」
軽く投げるようなノルンの言葉には、僅かばかりの揶揄が込められていた。
だが、姉妹の反応は意外なほど静かだった。
ファリスは一瞬きょとんと目を瞬かせ、すぐに柔らかな笑みに戻る。
その態度が、言葉の意味を本当に理解していないのか、それとも“そういった感情”に対する感受性そのものが欠けているのか――ノルンには判断がつかなかった。
代わりに、横に立っていたミューズがそっと顔を上げる。
「……あの、お姉さま……何か、お買い物があったのでは……」
小さい方が、よっぽど世間を分かってる。
客でもない人間の頼みを聞くわけにはいかないのだ。
ノルンはその言葉に、皮肉まじりの笑みで応じた。
「ここは便利屋じゃないからね。ま、あんたたち“きれいな人たち”が欲しい物なんて、うちには置いてないかもしれないけど」
ノルンが顎をしゃくって促すと、ファリスはようやくミューズへ視線を向けた。
その視線の先で、ミューズは棚に並ぶ瓶を見上げながら、蜜色の飴玉を遠慮がちに指差していた。
「……お姉さま、あの……あの飴玉……ひとつだけでも、いいですか?」
小声でそう囁くと、ファリスはしばし彼女の顔を見つめた。
その瞳には、一瞬の迷い――いや、逡巡とも、葛藤とも言えぬ、“静かなためらい”が浮かんでいた。
彼女にとって「買い物」とは、意味ある施し、奉仕の延長線にあるべきもの。
必要のない物に金を費やすことは、私欲に通じるとすら感じていたのだろう。
善行のためなら金貨の袋すら惜しまぬ彼女が、それでもたった一粒の飴玉には躊躇を見せる――それが、彼女の価値観だった。
けれど、ミューズの願いとノルンの一般的な常識という“この場の空気”が、信仰の剣をそっと下ろさせた。
「……ええ。選んでいいわ」
ぱっと花が開いたようにミューズの顔が輝き、彼女は小走りで瓶の前へ駆け寄る。
いくつか迷った末に、琥珀色の飴を一粒、指差した。
ファリスが差し出した銅貨を受け取りながら、ノルンは思わず口元をほころばせる。
袋に三粒の飴玉を詰め、ミューズの手に渡した。
「……革袋の金貨一枚ありゃ、棚ごと買ってもお釣りがくるのにねぇ」
冗談まじりの言葉に、ファリスはふっと目を伏せて静かに笑った。
「ですが――これはこの子が望んだものです。必要以上は……神の御心に反します」
「……飴玉のまとめ買いは神様に怒られるってわけ?」
ノルンが思わず口を尖らせて返すと、ファリスはわずかに首を傾げたまま、静かに微笑みを浮かべた。
その表情には、言葉以上の強い肯定がにじんでいた。
ミューズは飴玉の袋を胸元でぎゅっと握りしめ、目を輝かせるている。
ファリスはそれを確認し、一礼すると、それ以上の商品に目を向けることなく店を後にした。
――彼女にとって、果たすべき役割はすでに終わっていたのだ。
それ以上の“世俗的な関与”を望んでいないという明確な意思も、そこにはあった。
ノルンは、瓶を棚の奥へ戻しながら、ぽつりと呟く。
「……ほんと、別格の世界の住人だわ」
同じ王都の空の下にいても、見ている景色がまるで違う。
あれは“善意”なんかじゃない――“信仰”という名の、完結した秩序の生き物だ。
その清さに、畏れではなく――ただ、距離を感じた。
ミューズセレクト
飴玉:1銅貨
瓶の中に並べられていた琥珀色に透き通った蜜菓子、光を受けるときらきらと輝く。
素朴な砂糖と蜂蜜の甘さが詰まった、小粒ながらどこか懐かしい味わいのする品。
ミューズにとっては、甘味そのものよりも「自由に何かを選んで買う」という行為が特別
宗教悪者しやすい問題
善行には惜しみないが私欲には厳しいという典型ではある