1話 嫌な予感
十五人の魔王には、それぞれ城が設けられている。
このラクシア大陸には現在十六の領土が存在していて、中心に位置する巨大な人間界。それを囲む様に魔王の領土が存在する。
魔王サーフィラの領土は、人間界の南に位置していた。
国としては、人間界とあまり変わらないその場所の名は、『魔王国カルト』。
今は亡き勇者も暮らしていたと言われているこの国は、魔王国の中でも人間界との交流が盛んで、多くの種族が暮らしている。
その中で圧倒的な存在感を誇るのが魔王サーフィラの住城である『カルト城』だ。
そして今、その城内になかなか聞く事のない、魔王の呻き声が響いていた。
「あが⋯⋯ううう⋯⋯うううう!」
「サーフィラ様! お心を強く持ってください! もうすぐです⋯⋯もうすぐ、く⋯⋯」
ベットで横たわり、発狂しないように口元に布が当てられているサーフィラ。
そんな彼女を宥めるように従者であるミナが寄り添っている。
そう、サーフィラの体から、新しい命が芽吹こうとしていたのだ。
ミナが息苦しくなっているのは、燃えたぎりそうな空気の熱さに焼かれているからだ。
勿論、その表現は、大袈裟でもなければ、比喩でも無い。
本来、魔王にとって妊娠の際の痛みは悶える程のものでは無いのだ。
だが、サーフィラは悶えている。絶叫している。それは何故か。
子宮が燃えているのだ。
比喩でも何でもなく、頭まで出てきている子の体は、禍々しい色を纏った炎に包めれている。
その熱さは、従来の炎に比べ四倍程の猛熱で、サーフィラは今、その痛みと熱さに必死に耐えているのだ。
「もう少しです⋯⋯あと、少し⋯⋯」
子を取り出そうとミナが手を当てるが、あまりの熱さに手が焦げてしまう。
それでも、手は離さない。
そして遂に、子の体は、母であるサーフィラから離された。
臍の緒はもう切れてしまっていた。燃えて消えてしまったのだ。
ミナが赤ん坊を抱き上げる。
先程まで燃えていたその体からは、もう炎は消えていて、その炎は丸ごと赤ん坊の気配の中に隠れてしまった。
ミナは魔力に変換されたのだとすぐに分かった。
証拠に、赤ん坊から、とんでもない程の魔力量を感じる。
「お疲れ様でした」
そう言って、疲れ果てた主人へと赤ん坊を手渡す。
ここまで魔力を削られた主人を見るのは何年ぶりだろうか。そんなことを思いながらも、ミナは感動していた。
「魔王様、無事に生まれられて良かったです」
隣で医者の様な男がお祝いの言葉をサーフィラに告げる。
「あなたのおかげよ⋯⋯本当にありがとう」
「滅相もありませぬ。それにしても、ここまで力を持った赤子が生まれるとは、他の魔王も黙っていますまい⋯⋯」
医者が可笑げに笑うと、ミナの顔色が急激に変わる。
「力を貸してくれた事には感謝するが、口を慎め。今回はお前の功績に免じて許すが、次は無い⋯⋯」
「も、申し訳ありませんでした⋯⋯」
「分かったならもういい。報酬はもう送ってある。今日はもう去れ」
「ありがたき⋯⋯それでは失礼します」
そう言って寝室から出て行く医者を、サーフィラは少し不便そうに見つめる。
「あそこまで言わなくていいのに⋯⋯」
「いけません。貴方様は魔王なのですから、舐められては困るのです」
ミナの説教臭い言い方に、サーフィラは両頬をぷっくりと膨らませる。
「そんな顔させてもダメです」
魔王に対して少し失礼に聞こえるが、これが二人の距離感だ。
人間のまま魔王に進化したサーフィラをずっと見てきたミナは、彼女に敬意を抱いていると同時に、危なっかしさも感じていた。
「それより、もう名前は決めているのですか?」
「⋯⋯まだ、決めてないの。だって、この子は⋯⋯」
サーフィラが頬を指で撫でると、赤ん坊は嬉しそうにその手を取ろうとする。
よく考えれば、この子は生まれてすぐなのに泣かずにいる。
これも、力を持って産まれた所以なのだろうか。
「早くお決めになられた方がよろしいかと」
「そうね。産まれたばかりの子は、名前を与えられて初めて魔力と精神が適合する。でも、怖いの⋯⋯名前を与えられればその瞬間から運命は決まると言われているでしょ? 力を持って産まれたこの子がこれからの人生で背負うものを考えると⋯⋯」
珍しく弱気な主人をミナは見つめると、その視線を赤子へと落とし、僅かな笑みを溢す。
「だからこそです。この子がこれから生きて行く中で、産まれ持った力を何に使うか⋯⋯それが運命に定められた事なのだとしたら、私たちにはそれを咎める権利も、否定する権利もありません。
それでも、名前だけは、この子が生きた証になる大切なものだから⋯⋯」
先程医師に向けていた辛辣な声音ではなく、今にも消えてしまいそうな優しい声音で囁く様に言いながら、赤子の頬を指で撫でる。
「私には、それができなかったから⋯⋯」
「ミナ⋯⋯」
そして切なげになった彼女の表情。サーフィラは、その理由を知っている。
「ごめんね。私が間違っていた。そうよね⋯⋯私はこの子のお母さんだものね」
多くは語らず、暫しの間目を閉じる。
「貴方の名前は、マルス」
サーフィラがそう呟いた刹那、その呟きに応える様に赤子の体から青とも赤とも取れない、紫とはまた少し違う禍々しい気配が込み上げてきた。
サーフィラは驚きのあまり、ついマルスと名付けた自分の子から手を離してしまう。
咄嗟に拾い上げようとしたが、その行動が不要なものであると言わんばかりの状況に二人は言葉を失う。
マルスが浮いているのだ。一瞬の出来事などではなく、明らかに空中で浮遊している。挙句には誰か透明な者に抱えられるかの様にサーフィラ達から少し離れた広い場所まで旋回を初めたのだ。
「一体、どうなってるの⋯⋯」
魔王であるサーフィラは、常人に比べ遥かに肝がすわっている。そんな彼女でも、今の状況には不安を感じずにはいられない。
自分が産んだのは、許容出来る生物ではないのかもしれない。所謂、化け物を産んでしまったのかもしれない⋯⋯
魔王と言う飛び抜けた力を持つ彼女すらそう思う。
それは、ただ単にマルスの今の状況から読み取れるものではなく、彼から溢れ出す、既に魔王の何人かを凌駕した魔力量が彼女にその予感を与えてしまっているのだ。
「こんな事が⋯⋯まさか!」
何か思いついた様にミナが瞳を見開いたその瞬間。
『ごきげんよう。諸君。魔王マオウだ』
突然二人の頭上に映し出された映像に映るのは、魔王の一人であるマオウだった。
まるで機を測ったかの様なタイミングの良さに、二人は苦苦しく顔を見合わせる。
両者相手の表情に想いを馳せる。
その頭に浮かんだのは少し前にマオウがこの城に訪れた時の出来事だった。
およそ一ヶ月前、サーフィラの領土である魔王国カルトに、突然として魔王マオウが訪問してきた。
予想外の事態にサーフィラもミナも困惑を隠さなかった。
「貴方が他国に顔を出すなんて⋯⋯珍しいこともあるのね」
困惑しながらも、ミナが出したお茶を啜り、サーフィラは落ち着きを取り戻しつつあった。
「珍しいか⋯⋯それは違うぞ。私が起こす行動には全て意味が存在する。これまで私が世に顔を出さなかったのは、出す必要がなかったからだ。そんな私がここに訪れた理由⋯⋯まあ、言わなくてもわかるとは思うが⋯⋯」
マオウは冷静を通り越し、ただ無感情に言葉を並べている様に淡々と話す。
お茶を人啜りすると言うだけで慄いてしまいそうな威圧感。
少し離れた位置で二人を見つめるミナは思ってしまう。お茶を啜ると言う何の意味もない行動でさえ、彼は意味を見出しているのかと⋯⋯
勿論、飲食と言う行為には劣化とした意味、理由が含まれる。
お腹が空けば食べるし、喉が乾けば飲む。
だが、彼においてはそんな簡単な話ではないのかもしれない。それ程までに、この男の考えている事を汲み取るのは至難だ。
そして、危惧するべきは、そんな何を考えているか分からないこの男が、今、前例のない状況にあると言う事。
タイミングも最悪だ。何を考えているか分からない筈のこの男が、何のためにここに来たのか、それだけは確信と言っても良いほどわかってしまう。
マオウに問われたサーフィラの表情が歪む。
主人とて、彼の行動の意味は重々理解している。
「貴方は気づいているのね。私の子の事を」
「お前の魔力量がここ最近になって増大しているのは、他の魔王も気づいて居ると思うぞ」
「それで? この子を奪いたいって訳?」
「奪うのは容易いだろうが、悲しくも私はその赤子事態に興味はない。お前には悪いが、利用と言う形を取らせてもらう」
一瞬肩を落としたサーフィラの安堵を無きものにしたマオウの言葉。
その言葉に、ずっと我慢をしていたミナの感情が抑えられないものとなった。
「お前!」
飛びかかるミナをマオウが人睨み。途端、まるでだれかに体を押さえつけられたかの様にミナの動きが止まった。
「く⋯⋯」
「勿論。この事態も想定済みだ。だがどうする? この行為は我らが誓いを踏み潰す行為だぞ? 今はまだ健在であるアダム達に知られればどうなるか⋯⋯」
今はまだと言うのがどう言う意味か、その時のサーフィラは深く考えていなかった。いや、考える余裕がなかったとも言える。
前回の魔王戦線でアダムとイヴが提示した、魔王達との間で交わされた誓い。それは人間に手出しをしないと言うものと、魔王間での争いを禁じる事だった。
それを破ったとなれば、あの二人は黙っていないだろう。力であの二人に敵うなどサーフィラは少しも思っていなかったのだ。
「この件を不問にする代わりに、私の話を聞け。なに、強制はしない。話を聞いた上でお前がどうするかは、お前自身で決めれば良い」
まるで誘導されるかの様に、ここまではマオウの思う壺になっている。それを分かっていたミナはサーフィラに叫び声を浴びせる。
「ダメです! 頷いてはいけない! 全て彼の思う壺です!」
しかし、その声は無念にも届かない。
「分かったわ。話を聞くだけなら⋯⋯」
「サーフィラ様⋯⋯」
自分の歯痒さに唇を噛み締めるミナ。力強く噛み締めた為、唇からは出血が起きている。
「もう良いでしょ。ミナを自由にしてあげて⋯⋯」
サーフィラに促されると、マオウはあっさりとミナの呪縛を解いた。
体の自由を取り戻したミナは、まだ留まる様子を忘れているかの様に食らいつこうとする。その瞬間だった。
「やめて! ミナ!」
体の底から緊張感が伝わってくる。そんな主人の呼び掛けにミナはようやく冷静さを取り戻した。冷戦になった事で、自分の後先を考えない行動を思い返し、唖然としてしまう。
「私、なんてことを⋯⋯」
「ミナと言ったか? お前の行動は間違っていない。主人を守るのが従者の勤めだ。それに、本来、魔王と言うのはそうでなければならない。私は今の魔王の在り方が心底気に入らない。仲良しこよしな関係性も、弱者に崇められヒーロー扱いされているのも⋯⋯」
「なら、貴方の魔王の在り方って何なの」
「逆に聞くが、お前は前回の魔王戦線が起きる前の魔王を覚えているか?」
「忘れるわけがない⋯⋯あの頃はまだ私が魔王に覚醒する前だったから、恐ろしかったし、嫌いだったし、憎かった」
「憎かったか⋯⋯そうだ。魔王とはそうでなければならない。虐殺、占領、それらが許される圧倒的な恐怖。私の主人のように⋯⋯だが、今はどうだ?人間を守るなどと言うくだらない理由で本来あるべき姿を無くしている。無責任な人間どもは都合のいい時だけ私たちを崇め、都合が悪くなれば罵り、落胆する。勝手に期待して、勝手に見限る。よくない。とても良くないと思わないか?」
「思うところがないわけじゃない。でも、それで世界の平和が保たれるなら、いいことでしょ。争いなんて、何も生まない。失う事しかない」
サーフィラの言葉に、マオウの目の色が変わる。そのたった人睨みで、場はとてつもない緊張感に襲われる。
「平和な世界など、存在しない。種族間でのいざこざ、差別、優劣。それらは全て人間が仕掛けていることだ。その世界は、そいつらにとっては平和で気持ちい世界かもしれないが、魔族やエルフ達にとっては反吐がでる世界」
「じゃあ貴方は、人間はいない方がいいと言うの?」
「存在自体を否定するつもりはない。だが、長い間忘れている感情を呼び起こすだけだ」
明確な答えではないが、その意味の孕む事が何かは大体予想がつく。つまり、人間を支配すると言う事だ。
「そんな事が許されると思ってるの?」
「許す許さないの問題ではない。魔王に善悪など存在しないのだ。何故なら、恐怖こそが魔王を魔王たらしめる」
「そんなの、アダム達が許さない⋯⋯」
「そうだろうな。私は彼らを尊敬している。魔王と言う存在を抑制しているのは、アダム達への恐怖心だ。実に魔王らしい。だが、だからこそ惜しい。それだけの力を持ちながら、人間を守るなどと言う戯言を⋯⋯」
淡々と言葉を並べるマオウだが、次第にその言葉達に怒りが滲み出てくる。
「私は、魔王は増えすぎたと思っている。勿論、二千年前のまがいもの達に比べれば幾らかましだが、それでも相応しくない。相応しいのは、精々五、六人と言ったとこか⋯⋯」
そこまで言うと、ようやくと言えるくらいに長い前置きが終わり、マオウは本題に入った。
「そこで、魔王の数を減らそうと思っている」
「冗談でしょ?⋯⋯」
「私が、冗談を言いにわざわざ足を運ぶとでも?」
まさかとは思いつつも、彼は本気なのだろうと分かってしまう。
サーフィラの身体中に鳥肌が駆け巡る。足がすくんでいるのが分かる。マオウの言っている事は、二千年続いた平和を壊すと言う意思表示にほかならなかった。
「魔王戦線⋯⋯」
無意識にそう呟く。すると目前の男はにまりと片頬を上げた。
「出来るわけがない! 魔王戦線には少なくとも半数以上、魔王の賛成が必要な筈でしょ! それに、もしそんな事をしようとすれば⋯⋯」
「アダムとイヴが黙ってない⋯⋯と?」
まるで自分の心を見透かされた様な言葉に、サーフィラの表情が歪んだ。それを分かった上で彼は実現しようとしているのだ。禁忌とも言われる大戦を。
「私は、認めない。それに、他の魔王だって⋯⋯」
「本当に、そう思うか?」
サーフィラの望みを否定する声が響く。そして言葉を続ける。信じたくないが、あり得なくない言葉を。
「本当に、魔王達が何の不満もなく今の態勢を受け入れていると? 魔王に覚醒した者の中には、少なからず人間に憎しみを抱えている奴もいる。そいつらが何も言わずに従っているのは、アダムとイヴに逆らえないからだ。逆らうのが怖いから、アダムとイヴの仲良しごっこに仕方なく付き合っている。お前もそうではないか?」
「違う! 私は⋯⋯」
否定しようとしたが、そこから先の言葉が見当たらなかった。
「まあ良い。お前がどう思っていようと、魔王戦線は実現する。それは決定事項だ」
最後にそう言ってマオウは立ち上がった。交渉は決裂。だがマオウにとってそれは許容範囲の事らしい。
「待って」
部屋を出て行こうと踵を返したマオウにサーフィラは最後に言った。
「私は、みんなを信じてる⋯⋯」
足掻きの叫声と捉えたのか、ただの戯言と捉えたのか。マオウはフンと鼻で笑うと部屋から出ていった。
マオウが居なくなり、サーフィラは肩を大きく落とした。それは途轍もない緊張感からの解放と同時に、大きな不安を表すものでもあった。
「ごめんね。でも、堪えてくれてありがとう」
「いえ。サーフィラ様こそ、懸命なご判断です。今の貴方ではマオウ様には⋯⋯」
「分かってるわ。本当だったらぶん殴ってあげたかったけど⋯⋯」
悔しさで、拳に力が入った。マオウがやろうとしている事を認める訳にはいかない。
とはいえ、サーフィラ自身、不安はあるものの、あまり心配はしていなかった。
それは、仲間への信頼と言うよりも、アダムイヴの存在によるものからくる安心感だった。
魔王達の中でも力の差は少なからずある訳だが、アダムとイヴは、他の魔王を遥か凌駕する力を持っている。マオウであろうと彼らに敵意を示すことは難しいのだ。
サーフィラはそれを十分理解している。アダムとイヴが居るうちは大丈夫だと、そう考えている筈なのだ。だが⋯⋯
「マオウ様は本当にあんな恐ろしい事をなさるおつもりなのでしょうか⋯⋯」
「多分、少なくとも本人は出来ると確信しているのね。でも、大丈夫。絶対に出来ない。出来る筈がないのよ⋯⋯」
ミナは主人のその言葉に、迷いがある事をすぐに悟った。言葉とは裏腹に、額からはいつまでも冷や汗が流れていた。
サーフィラ自身、安心しきれていない。安心する中に、凄く小さいが、嫌な予感を感じるのだ。この予感の正体を、サーフィラは分からずに居るが、一ヶ月後にその予感の正体を思い知らされ、その予感が間違いではなかったと突きつけられることになる。