6 麻婆豆腐の謎
次に、羽黒祐介と日向刑事が向かったのは、中華街であった。
横浜駅から、みなとみらい線に乗り、地下にある元町・中華街駅で降りた。そして地上に出て、中華街に歩きで向かった。
あれからあまり変わった様子はなかった。若干、人気が減った気がするのは平日だからだろう。祐介は、何度も通った道を歩き、青島飯店に入店した。
この突然の訪問に、店員たちの多くは喜び、店長を呼びに行ってくれた。ところが、奥から出てきた孫店長は、若干げっそりとしていた。
「大丈夫ですか?」
「羽黒さん。私にはどうしたらよいか分からないのです。これから、妻とどう話し合うべきなのか……」
「まあ、あまり考えすぎない方がいいですよ」
と思い切り、無責任なアドバイスをしてしまってから、祐介は内心、しまった、と思った。
「この前のように、こちらのお店に被害者が来た時のことをもう一度、この羽黒さんに話していただきたいのです」
と日向刑事は言った。
「そのお客様については、わたし自身はよく覚えていません。警察に提供した防犯カメラの映像をよくご確認ください」
その映像を後で見せてくれるということだった。祐介は、頷いて、
「彼女は本当に被害者本人だったのでしょうか、他人の空似だったのではないか、と少し気になっているのですが……」
「それについては、警察も疑っていました。しかし、映像を確認したところ、被害者と瓜二つの顔だったので……。それと、テーブルと椅子から彼女の指紋が検出され、間違いなく、入店したのが彼女だったことが証明されたのです」
本当だろうか、と祐介は思う。もし、青島飯店に午後二時までいた女性が、被害者ではなく、他人の空似であれば、本当の殺害現場は、喫茶店er02の付近であっても良いということになるのだ。
そうすれば、土屋は二十五分以内に現場に行って帰って来れるので、アリバイが崩れるのでは、と祐介は思っている。
「では、その映像を見せていただけませんか?」
祐介がそう言うと、店の奥にあるパソコンで、その日の映像を見せてくれることになった。
時刻は午後一時二十分、黒いコートを着て、ハンチング帽を被った黒髪ロングヘアの女性が一人で店内に入ってくる。これが被害者だという。これを見たら、女子のハンチングも良いものだな、と思わない男子は、この世にひとりもいないだろう。
そして店員に案内される前に、この女性は、防犯カメラの前のテーブル席に座ってしまった。防犯カメラに背を向けている。しばらくして、焼き餃子が届いたので、それを食べ始めた。その間も、黒いコートは着たまま、ハンチングも外さなかった。何故だろうか。
しばらくして、女性は立ち上がり、トイレに向かった。帰ってきた女性は、同じように黒いコートを羽織っていて、白いマスクを着用していた。
マスクは先ほどまでつけてなかった。
その後、女性はまた防犯カメラに背を向け、マスクを外して、食事を開始した。しばらくして追加注文の麻婆豆腐が届いた。女性はそれを平らげ、ゆっくりしてから、支払いを済ませ、店外に出て行った。その時刻は、二時である。
「不思議なことがひとつありまして」
と日向刑事が言う。
「なんですか?」
「被害者は、この映像の中では麻婆豆腐を食べているんですよね。ところが、司法解剖の結果、胃の中には餃子の具材だけが残り、麻婆豆腐の具材はまったく入っていなかったんです」
「どういうことですか?」
「どこかで嘔吐したのだと思うんです。それが何故かは分かりませんが……」
「嘔吐した……」
そうなのだろうか。祐介は首を傾げる。不自然な点が多すぎる。
「この映像には、不自然な点がありますね。なぜ被害者はトイレに行く時にわざわざマスクを着用したのでしょう。それに暖かいはずの店内でも、黒いコートと帽子をまったく脱がなかった。一体、何故」
この事件は、いわゆるコロナ禍前の出来事であったので、祐介はこのような発言をしている。
「きっと寒がりだったのでしょう」
そういうものだろうか、と祐介は納得がいかずにいる。
もう一度、映像を巻き戻し、今度は他の客に不審な行動がないかを調べることにした。
「あっ……」
祐介は小さく声を上げた。
「どうしました?」
「この女性客、不自然です」
祐介は、カメラから遠くのテーブル席にひとりで座っている赤いジャンパー姿の女性を指差した。彼女は、被害者と同じくらいの小柄な体型で、やはり目深にニット帽を被り、白いマスクをつけていた。
そして彼女は、被害者がトイレに入る少し前にトイレに入ってしまった。そして、被害者よりも先に出てきた。羽黒祐介がトイレに向かっている。二人はぶつかりそうになり、彼女は焦った様子で席に戻ると、すぐに荷物をまとめると、支払いを行なって、さっさと出て行ってしまったのだった。
「あの時の女性か……」
祐介たちは映像を見終わると、お礼を言って、外に出ることにした。
孫店長は「あっ、くれぐれも、お忘れ物のないように」と言った。それが祐介は若干、脳裏に残った。なぜ、忘れ物がないようになどと強調したのだろう。それは不自然な言葉ではないか、なにか含みがあるように感じられた。
この頃、この店では忘れものが多いのだろうか。
ふたりは事件の話に夢中になりながら、三国志の英雄、関羽を祀る極彩色の関帝廟を参拝し、賑わいのある通りからだんだん離れていった。
そこに、小さな町工場があった。製造業のようだった。軽トラックが駐車している。
祐介はそれが何故かひどく気になった。
「そうか……」
祐介は、その工場で働いている七十代くらいの職人風の男性が外に出てきて、渋い目つきで宙を睨んでいた。祐介は、煙草を吸い始めた彼に話しかけた。
「すみません」
「あいよ」
「少々、お尋ねしたいのですが、先週の日曜日、このあたりでおかしなことはありませんでしたか?」
「えっ、おかしなこと。というと……」
「ささいなことでいいんです」
「先週の日曜日ね。うん……。そうだな。うちのトラックの荷台にかけてあったビニールシートがなくなっちまったんだよ」
「ビニールシートが?」
祐介は、驚きが隠せない。まさか、こんなところでビニールシートの手がかりが得られるなんて、思ってもみなかった。
「その時のことを詳しく教えていただけませんか?」
「うちはね、もう一箇所、事務所を持っていてね。そこは横浜駅近くのビルにあるんだけど、あの日、そこの駐車場にこのトラックをとめておいたんだよ。この軽トラの荷台には荷物とビニールシートを敷いておいたんだよ。それで、この工場に戻ってきたわけ。そうしたら、しばらくしたら、ビニールシートがなくなっていることに気づいたんだよ。なんか、あんた、知っているのかい?」
「その事務所があるところですが、もしかして、喫茶店er02の近くですか?」
「ああ、そんな店があるね……」
「その時刻は、もしや二時頃ですか?」
「よく知っているね。まさか、あんたがビニールシートを盗んだんじゃないだろうね」
祐介は、笑ってごまかした。そしてこの町工場から離れると、日向刑事の方を向き、
「事件の真相が分かりました」
と言った。