3 土屋直弥のアリバイ
土屋直弥は、自宅のアパートにいた。彼は、ちゃんこ鍋を前に、煙草を吸いながら、熱燗を一口ずつ呑み、窓の外を眺めていた。夜の闇に包まれた街は、恐ろしい化け物のように思えた。
「ねえ、美味しい?」
とエプロン姿の女性が尋ねてきた。
「ああ、美味しいよ」
「昼間の警察の人は何て言っているの?」
「俺にはアリバイがあるから、まったく大丈夫らしい。なにしろ俺がいたのは、横浜駅のあたり、あの女が殺されたのは山下公園のあたりだったんだ……」
「そうなのね、よかった」
その女性は安心したようだった。
しかし、土屋直弥は、熱燗を一口呑むと俯いた。
(こうするしかなかったんだ……)
しかし、その自己正当化は、あまりにも事実とかけ離れていた。自分の罪の積み重ねが、どうしようもなく、我が身を滅ぼしてゆくことがひしひしと感じられていた。
土屋の手の平には不気味な感触が残っていた。
(ワイヤーで首を絞めた時か)
*
それから十日ばかりして、神奈川県警の日向刑事から羽黒探偵事務所に連絡があった。事件の相談をしたいということだった。祐介は、断ることができずに、その日の午後に日向刑事を事務所で受け入れることにした。祐介は、仕事を早めに終わらせて、準備を整えると、助手の英治とふたりで待っていた。
日向刑事は、少し遅れ気味に到着した。
「すみません。お待たせしました。こちら、つまらないものですが……」
と言いながら、月餅の入った白い紙袋を渡してきた。中華街で買ったものかもしれない。祐介はありがたく受け取った。
後で、お茶を煎れて助手とふたりで食べよう、と思った。
「それで、どうですか。犯人の目星はつきましたか」
「ええ。ついたにはついたのですが、どうにも弱ったことに彼にはアリバイがあるんですよ」
祐介は頷きながら、日向刑事をソファーに誘導した。そこに、助手の英治が熱いコーヒーを持ってきた。もう一度述べる。熱いコーヒーである。
日向刑事はそれがキリマンジャロだと聞いて、砂糖もミルクも入れず、嬉しそうに一口啜った。
「美味しいですね」
「それで……」
「実は、被害者の元交際相手の男性が、どうやら数日前から被害者とかなり激しく揉めていたらしく、動機の観点から言って一番怪しいんです」
「なら、彼が犯人なのではないですか」
「ところが、彼には、犯行時刻に横浜駅付近の喫茶店にいたというアリバイがあったんです」
「横浜駅と山下公園なら比較的、近いじゃありませんか」
どうにでもなりそうなものだけど、と思っているせいか、祐介は一瞬、月餅の入った紙袋に目移りした。
「ええ。たしかに、その喫茶店から山下公園に向かうと、車でも十分弱でたどり着くようです。それはそうなのですが、彼にはたったの二十五分しか空き時間がなかったんです。喫茶店を出てから、戻ってくるまでの時間です。その短時間に、殺人を行なって、喫茶店に戻ってくるのは難しいようです。そして、その前後の時間は、横浜駅近くの喫茶店にいる彼の様子が防犯カメラにはっきり映っているんです」
「なら、彼は犯人ではないのじゃないですか」
と祐介は突き放すように言った。月餅が気になる。
「いや、そうも思ったのですが、その喫茶店の防犯カメラの映像を見る限り、彼は誰かと待ち合わせていたようなんです。腕時計なんかしきりに気にしちゃってね。それで、彼は携帯電話の着信に出ると、急いでいる様子で、喫茶店から出ているんですよ。それで再び、同じ喫茶店に入店している。この行動も疑問なのですが……。ところが、彼は当日、横浜には観光に訪れただけで、誰とも待ち合わせていなかったと言ってるんです。彼の証言にははっきりしない点が多いんです」
「それじゃ、彼が犯人じゃないですか。だって、明らかに嘘をついているわけでしょう」
と祐介は、いつになく不親切な対応をしていると自分でも思った。実は、他の仕事が溜まっているので、あまり深く関わりたくない気持ちがあるのだ。
「それはまだわかりませんよ。しかし彼の犯行の可能性は確かに依然としてあります。それで、是非、羽黒さんの知恵を拝借したいのですが……」
「それは構いませんが、お力になれるかは正直、分かりませんね」
と祐介は、まだ乗り気になれないでいた。他の仕事も山積みであったし、心の中では孫店長が奥さんの関係がどうなったか、ということが一番気になっていた。
「お願いします。被害者の名前は、内村麻美、都内の会社員です。これは前回、お伝えした通りです。彼女の死亡推定時刻は午後二時頃と推定されています。ところが彼女は、その日の午後二時まで、中華街の青島飯店にいて、食事を取っていたんです」
「なんですって?」
祐介はぎくりとした。被害者が青島飯店にいた、まさか、そんな偶然があるだろうか。
「中華街の青島飯店ですよ。そういうお店があるんです。それで、彼女は食事を終えてから、どこへ向かったのか、はっきりしないのですが……」
「ちょっと待ってください。被害者は、青島飯店にいたのですか? あの日の何時ごろから?」
「防犯カメラの映像によれば、彼女が入店したのは一時二十分頃のことです。店を出たのが、午後二時。それがなにか?」
と日向刑事は、その祐介の様子に違和感を覚えたようだ。
祐介たちが青島飯店にいたのは、おおよそ、あの日の十二時二十分から一時四十分の間である。ということは自分たちは彼女と遭遇していたかもしれないのだ、と祐介は考えると、だんだんテンションが上がってきた。
「いえ、実はあの日、僕たちも青島飯店にいたんですよ」
「なんですって!」
日向は身を乗り出した。勢いあまって、コーヒーカップをテーブルの上で派手に倒してしまった。日向は、コーヒーを体に浴びる。
「熱っ! 本当にこれは熱いコーヒーだ!」
「大丈夫ですか?」
祐介は、台拭きを助手に持ってこさせると、テーブルを拭いた。
「いや、すみませんでした。でも、これは驚いたな。まさか、青島飯店にいらっしゃったとは」
日向はそう言いながら、コーヒーの染みた上着を脱いだ。
「もう一度、状況を整理しましょうか。わたしが犯人と疑っているのは土屋直弥という男性で、都内の会社員です。三十四歳。被害者と五年間の交際があったが、数ヶ月前に破局しています。彼は、数日前にも、被害者と路上で激しく口論をしていました。そして、事件当日には、横浜駅前の喫茶店「er02」にいました」
「er02……」
変わった店名の喫茶店だな、と祐介は思った。
「彼は、午後一時四十五分に店を出て、午後二時十分に再入店しています。この間は、たったの二十五分間です」
「二十五分間で、山下公園付近に移動し、人を殺害し、喫茶店に戻ってこれるかという問題ですか」
「そうなりますね……。車でも十分弱程度なので、移動自体は可能ですが、人を殺害したり、諸々の所要時間を含めると、どんなに急いでも、三十分以上かかると思われます」
「そうですね。しかも、絞殺なんですよね……」
と祐介は、横浜市の地図を検索する。特に近道はありそうもない。海辺だからといって、船を使うというのはかえって時間がかかってしまいそうだ。