2 山下公園付近の茂みに遺体
孫店長は、激しいショックを受けたようだった。羽黒祐介はこのように人を不幸に陥れるような情報を提供して、報酬を受け取っていいものかどうかと悩んだ。
そのやり取りの隣で、胡麻博士があまり気にしていない様子で、料理の写真が印刷されたメニューを眺めていた。そして落ち込んでいる店長に向かって、
「すみません。焼き餃子に麻婆豆腐、それにご飯と杏仁豆腐のセットをお願いします」
と言った。
孫店長はショックを受けたらしく、その後の会話もままならない様子で、店の奥に引きこもってしまった。
しばらくして、楊亦菲が料理を運んできた。祐介は、チャーハンと回鍋肉を注文していた。胡麻博士は、麻婆豆腐を一口食べると辛そうにお手拭きを振り回し、口に当てると、ぱっと割れるような声を上げた。
「実に辛い。でも、美味しいな。評判通りの深みのある味わいだねえ。羽黒さん、どうですか」
「こっちのチャーハンも美味しいですよ」
と祐介は言った。事実、美味しかった。胡麻博士はうふふ、と笑うと小皿に麻婆豆腐を移して、分けてくれた。それは若干、不気味だった。
その麻婆豆腐は、さすがに本格的な味で、濃厚な旨味と辛みが舌を包み込み、芳香が鼻を抜けてゆくのが心地よかった。
しかし祐介は、店長のことが気になっていた。この後、彼はどうするつもりなのだろう。
しばらくして、祐介はトイレに向かった。その途中の短めな廊下で、女性とすれ違った。
赤いジャンパーを羽織っている三十歳ぐらいの女性である。しかし、黒いニット帽を深く被り、白いマスクをしているその姿はどこか異様に思えた。急いでいる様子で、どんと肩がぶつかってきたので、祐介は、庇うように彼女の肩に手を触れた。
「大丈夫ですか?」
しかし、その女性は何の返事もせずに急いでいる様子でその場から去っていった。それ以上、なにがおこったわけでもないので、祐介はあまり気にせず、トイレに入った。
わりに広い店内なので、トイレも男子トイレと女子トイレに分かれていて、男性トイレには一つの個室とアサガオという名の小便器が二つ並んでいた。床は黒っぽいフローリングで、ランプのような照明が陰影を作っていた。こうなると、トイレも清潔で洒落て感じられる。
祐介は、用を済ませると、自分たちの個室に帰った。
それから、孫店長に挨拶をして、励ましの言葉を送ると、羽黒祐介と胡麻博士は、店外に出て、山下公園を散策することにして、中華街の先ほどの道を逆戻りした。
山下公園からは海が一望できて、巨大なフェリーなどが眺められる他、貨客船の氷川丸がある。この船は、今では、重要文化財であり、博物館船として利用されている。
さらに、ここから船に乗れば、みなとみらいにも行ける。観光にはもってこいだ。そうは思ったが、祐介は、隣にいるのがむさ苦しい胡麻博士だということを思い出すと、若干、胸苦しいような心地悪さに襲われた。
「気持ちの良い海ですなぁ」
「ええ、太陽が眩しいですね。氷川丸に行きますか」
ふたりは、氷川丸の船内を観光する。豪華な船内である。祐介は、タイタニック号にいるような気持ちに浸った。
そういえば、豪華客船で、事件に巻き込まれたこともあったな、あの人は今頃どうしているだろう、とか、色々なことが次々と思い出された。
その間、胡麻博士は、横浜の歴史をずっと語っていた。祐介も民俗学関係のことこそまるで駄目であったが、歴史に関しては興味があったので、心から楽しめた。
それから、歩いていける範囲に博物館や資料館がいくつもあるので、そこもめぐることになった。
いくつか館をめぐった後、祐介は、日が暮れてきたので、そろそろ事務所に帰ろうかと思った。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうですかね。もう博物館も終了の時間か。ああ、せっかく楽しかったのだがね。まあ、いい。帰りの車内でも、たっぷり横浜の話をしましょう」
「はあ」
「それで、愛すべき妻と娘に焼売のお土産を買わなくてはいけないから、もう一度、中華街に行ってもいいですかな」
「いいですよ」
お土産か、それもそうだな、と祐介は思った。本来ならば自分も事務所に何かを買って帰るべきなのかもしれない。
夜の中華街は、また一味違った。爛々とした灯りや看板の中、祐介は、疲れていたこともあって、夢うつつでふらふらとしていた。昼間とは打って変わり、ひどい寒さだった。
胡麻博士は、中華街の老舗で焼売を二箱、購入した。ここの焼売は小ぶりながらぎゅっと肉が詰まっているようで美味しいのである。
彼は、店外に出るとその場で、リュックサックに箱を入れるのと共に、いかにも寒そうな様子で、何かを取り出そうとしていた。
「じゃあ、帰りますか」
と祐介は先を急ごうとする。
「羽黒さん。あの、すみません、もしかしたら、手袋を落としたかもしれません」
「えっ」
胡麻博士は、自分の手袋が片方ないということだった。どこで落としたのか。祐介は寒くなってきたことだし、早く帰りたかった。
「あの、探すんですか?」
「ええ。あの手袋は、愛娘からもらった大切なプレゼントなんですよ。見つかるまでは帰れません」
祐介は同情する気持ちもあったが、調査の疲労もあって、やれやれと思った。博物館をもう一巡りする時間的余裕はなかった。第一、もうどこも閉館している時刻だった。
どこを探せば良いのかしらと思って、ふたりが、昼間の足取りを追って、山下公園の方向に行くと、公園から少し外れた街路樹の茂みの横に、パトカーが何台も止まっていて、人だかりができていた。祐介はあまり関わりたくないな、と思った。
「なにか起こったのですかねぇ」
と胡麻博士はあまり関心のない声でつぶやいた。
祐介はその人だかりから出来るだけ離れようとした。しかしその時、パトカーからひとりの刑事が下りてきて、祐介に向かって走ってきた。
「羽黒さん!」
それは神奈川県警の日向啓二刑事だった。羽黒祐介と同じくらいの年齢の愛嬌のある可愛らしい刑事である。羽黒祐介とは、かつて事件の捜査で関わったことがあり、今では、何かあると相談を持ちかけてくるのだった。
「こんなところでお会いするなんて奇遇ですね。観光ですか?」
「ええまあ……」
「実は、そこの公園近くの茂みから女性の死体が発見されたんですよ」
「ああ、なんと、そう、そうなんですね」
「他殺のようなのですが……」
と日向刑事は事件の解説を始めようとする。
「すみませんが……」
と胡麻博士は、申し訳なさそうな顔をして、会話に割り込んできた。
「刑事さん。わたしの手袋を見かけませんでしたか?」
「手袋? 知りません。それよりも祐介さん、是非、捜査にご協力ください」
祐介は、慌てて手を振る。
「いやいや、もう帰ります。今日は浮気調査の報告をしに来ただけなんですよ。もう遅いですし、事務所に戻ると、まだ仕事が残っていますから」
「そうおっしゃらずに。どうも、よくわからない事件でしてね」
と刑事は強引に事件の説明を開始しようとする。
人だかりがこちらを好奇の目で眺めている。正直、気分が悪い。それに気づいたらしく、日向刑事はふたりをパトカーの中へ案内した。これではまるで容疑者みたいじゃないかと祐介は不満に思った。
「事件の被害者は、内村麻美。都内に住む三十歳の会社員です。彼女の遺体は、山下公園近くの茂みの中から見つかりました。そこはあまり人が集まらないところである上に、死体は青いビニールシートに包まれていたので、しばらく誰にも気づかれていなかったようです。絞殺でした。午後三時半に、通りがかりの人が不審に思って、ビニールシートを開いたところ、死体が出てきたので、通報したそうです」
祐介は、パトカーの椅子に座った状態で話を一通り聞いた。しかし胡麻博士が、不満げな口調で、
「あの、手袋を探さなくてはいけませんから……」
と言ったので、祐介も早く帰りたかったので、もし捜査が難航するようならその時にまたご相談を受けます、と告げて、無理にパトカーから出てきた。
その日は、これで日向刑事とは別れた。日向刑事は、捜査に進展があったら、事務所まで伝えに来るということである。祐介はこんなことに一々巻き込まれたくないと思ったが、無下に断るわけにもいかず、承諾した。
この時、祐介は知らなかった、この事件に自分がすでに関わっていたことなど。
そして、この日、胡麻博士の手袋は、結局、見つけられず、胡麻博士は愛娘、楓からのプレゼントを諦めることにしたのだった。