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1 横浜中華街の青島飯店

 羽黒祐介(はぐろゆうすけ)と、胡麻零士ごまれいじ博士が、みなとみらい線、元町・中華街駅の出口から地上に現れたのは、二月最初の日曜日のことだった。


 時刻は正午をまわっていた。二月とは思えない、包み込むような暖気の中に、ふたりは立っていた。ビルの遥か上方に雲一つない青空が広がっているのが見えている。

 ビルは日光に照らされ、白っぽく輝いていた。道路の向こう側に、青い朝陽門が見えている。目の前の横断歩道を渡れば、横浜中華街にたどり着くのだ。

(中華街か……)


 羽黒祐介は、池袋に探偵事務所を構えている三十歳手前の美男子だ。黒髪が冬の風にそよいでいる。祐介は、寒くなると思って、厚手のコートを羽織っていたが、それが今では暑苦しく感じられていた。


「なんだか、暑くなってきましたね」

 祐介は隣に立っている胡麻博士にそう話しかけた。胡麻博士は、天正院大学の民俗学教授で、妖怪博士のような風体だった。顎髭が輪郭を一回り大きくしている。丸眼鏡の中の小さな目で常に何かを睨んでいる。そんな奇怪な男だった。

「でも、夜はきっと寒くなりますぞ」

 と胡麻博士は言った。

 

 ふたりは一体、何故、中華街に向かっているのか。そこには青島飯店という中華料理店があり、祐介は過去にも、事件の捜査で、幾度となくこの店に訪れたことがある。今では店長や店員とは顔馴染みである。そのため、祐介は中華街に寄る度、必ずその店に立ち寄ることにしていた。


 今回、祐介はこの青島飯店の孫店長からある依頼を受けて、数日間に渡り、調査を行なっていた。その結果報告のために向かっているところなのだった。

 ちなみに過去、青島飯店がかつて関わった事件は、本編とは関係がないので、詳細は語らないが、気になる方は「赤沼家の殺人」「名探偵 羽黒祐介の推理」を参照されたし。



 横浜中華街の入り口、青く塗られた絢爛(けんらん)たる朝陽門の下をくぐり、ふたりは、中華街大通りの真ん中を突き進んで行った。大通りなどと言っても、そんなに幅は広くない。左右には、中華料理店がずらりと立ち並んでいる。明や清の時代の景徳鎮の焼き物のような、艶やかな色合いの店もあれば、どぎつい赤や黄色の壁に、中華料理の写真の看板を掲げているものもある。金色の額には金字が輝き、赤い提灯が吊るされていて、独特な匂いが漂い、車のクラクションも聞こえてくる。それらはどこか日本とは異なる熱気を持っている。


 ふたりは、中国人やら、日本人やら、さまざまな観光客がひしめき合っている中を押し流されてゆく。祐介はこれがひどく窮屈に感じられた。度々、他人と肩がぶつかりそうになる。この賑わいの中では、とてもまっすぐには歩けない。


 日光はカラッと暑く、吹き付ける風は涼やかで、そんな中を歩いていると、中国の言葉が宙を飛び交い、読めない漢字が記された赤や黄色の看板が目につき、時々、天津甘栗の優しい香りが漂ってくるのが印象的だった。中国人と見える若い店員が、安価な中華料理店の客引きを行っている。祐介は、異国に迷い込んだような気持で、そうした様子を物珍しく眺めていた。


「羽黒さん。あちこちから肉まんの良い匂いがしておりますなぁ」

 と胡麻博士は、鼻をひくひくさせながら言った。

「えっ、肉まん?」

 祐介はあたりを見渡した。なるほど、確かに言われてみると、通りに面する店先に置かれた蒸籠から白い湯気が立ち昇り、肉まんが蒸しあがる甘い香りが漂ってきている。食欲をそそる。しかし祐介は首を横に振った。


「これから青島飯店に行くのですから、食事は我慢してください」

「な、なにを言っているのだ。君は……」

 と胡麻博士はいかにも不満らしく、唸り声を漏らした。

「肉まんを食べなければ、中華街観光は始まらんじゃないか」


 そんなことはないだろう、と思って祐介は呆れた。それに、そんなことをしていたら約束に遅れてしまう。

 しかし胡麻博士は、じっと立ち止まり、いかにも物欲しげな目つきで、店頭のガラスケースや蒸籠を眺めている。店員との会話が今まさに始まろうとしている。


 祐介は腕時計を見た。店長との面会の時刻は近い。

「胡麻博士、急ぎましょう……」

「あ、そうですか。まあ、今日のお目当ては麻婆豆腐だから、肉まんは諦めようか」

 と胡麻博士はそう言いつつも、どこか未練がましかった。肉まんを食べたい、麻婆豆腐を食べたい、焼売を食べたい、などと欲張ったことをいくら考えたところで、人間は一度、腹が膨れてしまうともう何も食べられない悲しい生きものなのだ。そのことを分かってほしい、と祐介は思った。


 ふたりが、中華街の喧騒の中を突き進み、裏道に入ると、そこに青島飯店はあった。


 何度も訪れたこの馴染みの店構え。白い彫刻の龍虎りゅうこが入口の左右に並び、赤い塗装の外壁そとかべが艶やかで、緑色の切妻きりつまの瓦が重たげである。棟門むねもんのような入り口に掲げられている「青島飯店」の金字がキラキラと輝いて見える。


 ふたりがドアを開き、店内に入ると、赤色の店内に木製のテーブルがずらりと並んでいる。店員の楊亦菲ヤンイーフェイが近づいてきた。


「いらっしゃいませ。あっ、羽黒さん。お久しぶりです」

 彼女は、以前の事件で重大な手がかりを与えてくれた人物だった。チャイナドレスをまとった切れ長の中国美人、カンフーができるのでは、と祐介は単純な連想をしてしまう。祐介はにこりとする。


「お久しぶりです。ちょっと今日は店長さんに用事があって来ました。楊さん。どうですか。あれから……」

「ええ。あのことはもういいんです。今はもう新しい恋も始まっていますから……」

「ああ、そうなんですか」

 祐介の心は軽くなった。楊さんも前に向かって進んでいるんだな、と思った。自分もしっかりしないといけない。


「今日はゆっくりしていってください。うちは麻婆豆腐がおすすめですよ。でも、羽黒さんが店長に用事なんて変ですね。それでは、こちらの個室へどうぞ。今から店長を呼んできますね」

「お願いします」

 個室に入ると、中央に回転テーブルが置かれている。しばらくして、青島飯店の孫店長がやってきた。艶やかな黒髪を撫でつけている、恰幅の良い中年男性だった。


「いや、はるばる東京からお越しいただいて、ありがとうございます。この店は年中無休なものでして、どうしても店を開けられなかったんです」

「いえ、僕もまた来てみたいと思っていましたから、いいんです。それより、楊さん。元気そうでしたね」

「そうですね。新しい恋人ができたみたいですよ」

「それはよかった……」


 祐介は、そう言うと周囲に店員がいないことを確認し、

「それで、奥さんのことですが……」

 と、本題に移ろうとした。


「いや、待ってください。あの、その前にそちらのお方は一体どなたでしょうか?」

 と孫店長は不審げな目を胡麻博士に向ける。胡麻博士は、メニューを手に持ち、渋い表情でそれを眺めている。祐介は、なんだそんなことか、と思った。


「こちらは天正院大学の胡麻博士です」

「はあ。胡麻博士……。あの、なぜ、一緒においでになったのですか?」

 

「えっ、いや、それはですな」

 と胡麻博士が、ゴホンと咳をし、真剣な表情で語りだす。

「ここの麻婆豆腐が食べたかったのです。何しろこちらのお店の麻婆豆腐はかなり有名ですからな。評判は伝え聞いておりますよ。羽黒さんが中華街に行くというので、無理を言って、ついてきてしまったのです。ふはは。楽しみですな」

「え、ええ……」

 孫店長はあからさまに困惑する。


「いえ、ご心配なく。あなたの奥方の不倫問題については何も存じませんよ。第三者のわたしが、興味本位でそういうことに首を突っ込む真似はしませんからご安心を」

 と胡麻博士は言うと、麻婆豆腐を食べられるのがよほど嬉しいのか、ふふっと不吉な笑いをこぼした。


「はあ。うちの麻婆豆腐をね。まあ、それは結構なのですが。このことはくれぐれもご内密に。よろしくお願いしますよ。それで、羽黒さん、あの、どうでしたか……」

「申し上げづらいことですが……奥様はやはり、不倫をなさっているようです」

「ええっ! な、なんてことだ……」

 祐介は鞄の中から証拠の写真を何枚か出して、回転テーブルの上に広げた。そこには満面の笑みでハグをしている女性と男性が映っている。店長は、頭を抑え、呻き声を上げた。


「さ、最悪だ。こんなことになるとは!」

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