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君に届くまで

作者: てしまひろし

書き進むうち、話しが広がって映画化してもらえるならエンドロールにLittle Glee Monsterの「君に届くまで」が流れる様な結末になりタイトルに使わせていただきました。


<プロローグ>


工藤旭子は昼休みの教室で自分の席から窓の外を眺めていた。

小さい頃から自分の未来を空想することが好きだった。

高校3年の秋になっても子どもの様な空想をしてはひとり楽しんでいた。

このところ形がはっきりしてきた空想の世界をまるで予言の様に信じる様になった。

カバンから「空想ノート」を取り出すとその「予言」を書きとめた。


◇ ◇ ◇ ◇

私を本当に愛してくれて、幸せにしてくれる人が10年後に現れる。

その時の約束を守るため未来から自分の身近に来ていて私を見守ってくれている。

突然、何か未来からの伝言を伝えにくるかもしれない。

見逃さないようにしていなければ。

◇ ◇ ◇ ◇






<1988年/昭和63年>


児島聡史は仕事帰り、夕食時にビールを一本空けた。

家に着いてカバンと郵便物をテーブルの上に置いて、ベッドで少し横になった。

風呂に入り酔いも覚めて、気づくとテーブルにA4サイズの書類が数枚あった。

カバンから出したのか、郵便物に混じっていたのか、元々あったのか思い出せない。

郵便にしては宛先・差出人の書かれた封筒が見当たらない。


見ると昭和天皇容態悪化の自粛ムードで卒業10周年の東京支部同窓会が中止となった。

代わりに同級生数人で集まろうという企画書のようだった。

幹事の名前や出欠の連絡先もないが、その頃普及し始めたパソコンのワープロソフトで女性が作った様に思えた。

少しミステリアスでかえって興味をひかれた。


よく見るとクリップで留めた同じものがあと3部あった。

右下に付箋が貼ってあった。

「川上」「工藤」「相原」

どれも高校時代の同級生でしかも女子だった。


3人ともほとんど話したこともないが名字だけは覚えていた。

クラスが同じだったから渡して欲しいという意味か?

でも、タイムスリップでもしない限り手渡せない。

彼女たちは現在、身近にいるので会って渡して欲しいと言う意味か?

頭が混乱して分からなくなっていた。


冷静に考えれば郵送の準備の時、付箋を剥がし忘れ、聡史あてに混入しただけだったかもしれない。

名簿を調べて転送することもできた。

彼女たちの印象が薄く思い入れもなく、同窓会名簿を探す気力も湧かなかった。



数日後、夢を見た。

高校時代に戻っていた。

クラス会の事を思い出して3人を探した。

川上は見つけられなかった。

相原は聡史を見下している感じがして話しかけられなかった。

工藤が窓際の席に居た。

招待状のことを話さなければと思ったがどうやって声をかけていいのかわからなかった。




翌朝、同窓会名簿を探したが見つからなかった。

転勤、引っ越しでどこかにしまい込んだらしい。

卒業アルバムはすぐに見つかった。


川上理恵の父親は同じ高校の数学の教師だった。

聡史の父親も教師で父と高校・大学が同じだと聞いていた。

自分が高校に入学して初めて会った時から気がひけていた。


相原恭子は違う中学だったが塾が一緒だった。

高校3年になって同じクラスになったが気まずさから全く話しをしなくなっていた。


工藤旭子は旭子と書いて「あさこ」と読んだ。

工藤だけがなんのしがらみもなかった。

反面、高校時代の印象がほとんどなく、逆に興味をひいた。


もう一度、企画書を確認しようと手に取ると、目がかすんで見えなくなった。

あわてて目を閉じるとまぶたの裏に文字が浮かんできた。



◇ ◇ ◇ ◇

これは未来からの招待状です。

未来の私が自分の人生を変えるための選択肢です。

3人の中から誰かを選ぶか。

パーティーに出席しないのも選択肢のひとつです。

◇ ◇ ◇ ◇




また、高校時代に戻る夢を見た。

夢ではなく本当にタイムスリップしたのかもしれない。

ひとつひとつの光景、会話、自分の感情や感覚がとてもリアルだった。


工藤旭子になんとか話しかけようとしたが勇気が出なかった。

諦めかけていたところ、放課後、人気の少ない教室で旭子が席にひとり座っていた。

何をしているのだろうと近づいてみた。

気のせいか聡史に話しかけてもらいたいという雰囲気が感じられた。

普通に女子を誘うことさえ自信がないのに、10年後のパーティーという非現実的な話をどう切り出せばいいのか全くわからなかった。


ドギマギしていると旭子と目があった。

「なに?」

瞳がささやいている様に見えた。

その勢いで、自分の意思とは関係なく、しどろもどろながら言葉が飛び出した。


「工藤さん、信じられないかもしれないけど。」

「えっ?」

「卒業して10年後にクラス会があるけど、工藤さん宛の手紙を間違えて僕が持っていて、工藤さんに届かないんだ。」

「それで?」

「今日、持ってこようと思ったけど忘れちゃって。ごめんね。」


要領を得ない話に旭子が理解できないか笑い出すのではないかと不安になった。

ところが、旭子は飲み込めた様子で

「児島君、ありがとう。必ず行くから。」


絶対、成立しないだろうと思われた会話が成立し、思いもよらぬ返事が返って来た。

聡史は安堵のあまり崩れ落ちるようにその場を立ち去った。




タイムスリップの様な夢から覚めて、あの招待状を探したがどこにも見当たらなかった。

何故か日付、時刻、場所が手帳にかき留めてあった。




当日になった。

幹事の名前や参加人数が全くわからず、遅れて行けば店内に誰かいるだろうと思った。

10分遅れでレストランに入った。

ドアを開けると待ち合わせ用のベンチにメガネをかけた女性が座っていた。


「お客さま、何名様?」

店員に聞かれた。

「今日、パーティーの予約入っていますか?」と聞いてみた。

「お名前は?」

予約を入れた人物の名前を聞かれているのに無意識に

「児島です」と自分の名前を答えてしまった。

「あいにく、今晩は2名様以上の予約は入っておりませんけど、」

ベンチに腰掛けていた女性が立ち上がり聡史に近づいた。

「すいません、児島さんですか?」

「工藤さん?」

「はい。よかった、会えて。」



テーブルに案内されて、まず名刺交換をした。

彼女は一度取り出した名刺を慌てて名刺入れに戻し取り替えた。

「会社って、仕事はちっとも変わらないのに組織改革とか言って部署の名前だけコロコロ変わるでしょう。」

「うちもそうだよ。使い切らないうちに新しい名刺がくるから貯まってしまって。」

「管理職ばかり増えて、ポストを作るための組織変更だよね。」

「そういえば、今日、ここってどうしてわかったの?」

「高3の時、約束したじゃない。」


聡史は先日の件は夢ではなく本当にタイムスリップしていたのだと驚いた。


「必ず行くって言ってくれたと思うけど、日にちや場所は伝えなかったはずだけど。」

「最近、高校時代の日記を見つけて『卒業後10年目の10月18日にクラス会』て書いていた。」

「それで、あんなに要領を得ない僕の話しにすぐ、OKしてくれたんだ。」

「気になって先週もう一度、日記を見直したら新しい字で店の名前と時刻が書き込まれていた。児島君こそ、どうして今日が?」

「差出人不明の案内状が届いて、ミステリアスで興味を持った。」



不思議なことばかりで少し沈黙があった。

いいタイミングでオーダーを取りに来たので

「ワイン選ばさせて。」

「ごめんなさい、私、お酒飲めなくて。遠慮なさらずどうぞ。」

「グラスワイン、赤をふたつ。置いとくだけで口つけなくていいから。」



その後、最初の名刺の件から仕事の話題が中心になった。

聡史は旭子が「人生の選択」という頭に浮かんだ文字の相手だと思い始めていた。

何とか近づきたいと近況やプライベートなことを話そうとしたがうまくはぐらかされた。

時々、何か大きな悩みを抱えているような表情になることがある。

また、それを誤魔化すためか話しの主導権をなかなか譲らない。

この美しさで立派な仕事をしていて彼氏がいないはずがない。

もう結婚しているかもしれない。

お酒に全く口をつけないのも、そうであれば納得できる。


ようやく旭子が人の少ない静かな美術館で絵を見るのが好きだということがわかった。

聡史も美術館巡りが好きで美術史、絵のモチーフなど勉強していた。

海外出張があると有名な美術館に行っていた。

ようやく共通の趣味が判明した。

今後、デートに誘う名目になる。


「ごめんなさい。もう帰らないといけない。」

携帯やメールの無い時代。

連絡先をどうしようか迷っていたら旭子の方から

「会社って、私用でかけても大丈夫?」

「うん、会社名と名前言えば、取り次いでくれるよ。昼休みはかえって怪しまれるから避けてほしいけど。」

旭子の連絡先を教えないための先制攻撃だった。


聡史が伝票に手を伸ばすと

「デートじゃなくてクラス会なのよね。割り勘。」

支払いを済ませレストランを出た。


聡史は駅まで歩いている間に次の約束をどう取り付けるか考えていた。

「有休って、取りやすいんでしょ。私も休みが取れそうになったら連絡するから。」

「私から連絡する」というのは積極的なのか、こう言っておいて逃げられるのか、少なくとも休日に会うことは無いということははっきりした。

「確実に彼氏いるな。」

「人生が変わる選択肢」に旭子を選んだけど、選び間違えたかなと少し後悔した。




しばらくして、仕事中に外線がかかってきた。

「児島さん。マグリットの工藤さんから。」

会社名が違うような気がしたが「工藤」という電話を待ち焦がれていたので、旭子に違いないと思った。

「もしもし、お世話になっております。マグリットの工藤です。」

旭子の声だ。

話をしながらピンと来た。

ルネ・マグリットというベルギーのシュルレアリズムの巨匠。

ルノアールやピカソと言った誰でも知っている画家ではなく、社名としてありがちな響きのマグリットを使って来た。

なんて頭がいいのだろうと感心した。


「今回の展示会にぜひ、いらしていただきたいのですがご都合の良い日程を今、うかがえればと思いまして。」

「そうですね、月次の締めが済めば日程に余裕が出ますので、来月6日の水曜日あたりで。」


数日後、マグリットではない旭子の実際の会社の封筒で展覧会のチケットが届いた。

便箋に待ち合わせ時間と場所が書いてあった。




このように月に一度くらい平日に休みをとって、都内の美術館を一緒に見てまわった。

職場にかけられるとゆっくり話ができないので聡史は自宅の電話番号を旭子に教えた。

ナンバーディスプレーの無い時代、かかって来ても旭子の番号はわからなかった。

相変わらずプライベートなことはガードが固く、ようやく小田急線らしいということがわかった。




しばらくして土曜日にランチに行くなど頻繁に会うようになった。

何か大きな悩みを抱えているようだった。

テレビの話しくらいしか話題がなかった。

聡史がトレンディードラマのことを話すと旭子は「リアルじゃなくて入り込めない」と乗ってこなかった。

旭子の悩みは仕事ではなく恋愛なのかと感じられた。

代わりに聡史が好きだった「みなさんのおかげです」や「だいじょうぶだぁ」を教えると「おもしろくて気がまぎれた」と言っていた。



「何か悩み事がありそうだね。」

「うん、でも児島君に迷惑かけられないから。」

「僕に何かできることないかな?」

「そばにいてくれると気が休まる。」

聡史はドキっとした。

黙ったままで公園を散歩した。

腕を組んだり手をつなごうとすると気配だけで

「ごめんなさい、それはできないの。」と拒絶された。

聡史は旭子に彼氏が絶対いるか結婚しているかもしれないと確信していたので意外でもなく寂しくもなかった。



ある日、突然

「男の人は同時にふたりの人を愛せるのでしょう。女は一生、一人の人を愛して同時に二人を愛するのはふしだらな女だよね。」


恋愛未経験者の聡史に超難問を投げかけてきた。

以前、悩み事がありそうと声をかけ迷惑かけられないと遠慮された。

悩み事の相談には乗れずにいた。

やはり聡史にはアドバイスできないジャンルだった。


「ごめん。いいアドバイスはできないかもしれない。でも、他人に話したら気持ちが落ち着き、頭の整理ができるっていうでしょ。問題点だけでも一通り教えてくれない。」

「他人に話したらって、児島君、他人じゃなくてこの問題の当事者なの。だから話せない。」

しばらく沈黙が続いた。


「ごめんなさい。最初、あんなこと口にして話せないなんて。心配かけて失礼よね。」

「心配は、心配だけど。」

「わかった、えーとどこから話そうかな。」



初めてプライベートな、しかも恋愛・男女関係の話だった。

感情が爆発して話が飛躍したり、同じことを繰り返したりした。



「初めて聞いてショックを受けていることもあるし、整理したいから。今晩、考えさせて。必ず明日、連絡するから。」

聡史は旭子の電話番号を聞き出した。


聡史は帰宅して、旭子から打ち明けられたことを思い出しながら頭の整理をした。



工藤旭子は大学を卒業し都内の企業に就職した。

「総合職」という形で男女とも公平に企業が採用を本格化する数年前だった。

いわゆる「バリバリのキャリア・ウーマン」だ。

入社3年目に部署は違うが会議や接待などで同じになることが多かった4歳年上の男性とよく社内で声をかけられるようになった。

そのうちプライベートでも親密になった。

ふたりが交際していることは社内で噂になった。

互いの上司が同期で、その後押しもあり結婚した。


入籍し同居を始めた矢先、夫が長野県の事業所に最新鋭のプラントを導入する大掛かりなプロジェクトメンバーに抜擢された。

旭子は自分の仕事も順調で辞めたくなかった。

夫も稼働させるまでの2年くらいの期間なので新婚早々、単身赴任となった。


最初のうちは週末の深夜、車で帰ってきていた。

やがてプロジェクトが遅れ気味になった。

敷地の中では既存の設備が動いていて電力や配管など共通の工事が深夜や土曜日になる。

代休も取りづらく、日曜日だけ深夜に車で移動するのは辛い。

居眠り運転の恐れもあるのでと日曜日も帰って来なくなった。

旭子の方から週末、寮に行って掃除、洗濯、料理をしようと提案した。

車でないとたどり着けないし生活できない場所なので来なくていいと言われた。



旭子の最初の悩みは夫の浮気疑惑だった。

「あの人、浮気してる。」

「どうして?」

「女の私だって、こうやって児島君と不倫してるでしょう。男が浮気しないなんてあり得ないじゃない。」


聡史は女性らしい論理の飛躍だと思った。

聡史との関係を「不倫」と言い切ったが、この点には反論しないでおこうと思った。


「深夜残業、休日出勤、短い休日に深夜長時間ドライブ。週末に帰宅できないのはこじつけだと思う。」

旭子は言った。


夜勤や土曜日の工事は実際には業者で、立ち会うのは事業所設立から勤務している現地のエンジニア。

旭子の夫は進捗状況の管理、現場と本社、現地の官庁、業者との調整役のはずだから、本社の事務職と同じ勤務体制でいいはず。


最近になって疑惑を深めたことが重なった。

旭子が自部署の出張旅費の手続きに人事に行ったとき

「単身赴任帰宅旅費が月1回しか出せなくて悪いね。新婚さんだからって毎週出すって特別扱いできないから。」と言われた。


夫と同じ部署の同期に聞いたら、単身赴任している管理職は金曜日の午後から戻ってきて上司への報告や会議資料をまとめ月曜日の定例会議に出席しているという。


自分の後輩に聞いてみた。

技術系の入社数年目の若手の女子社員も現地に派遣されているが独身なので週末は観光地にすぐ行ける現地でエンジョイしているらしい。


入社間もない女子社員で車を持っていない子もいるはず。

週末、寮に残っている男性たちが誘っているに違いない。




次に旭子の話はもっと核心に踏み込んだ。

「今の夫と結婚してよかったのか?児島君との再会まで待てなかったのか後悔している。」


旭子は子どもの頃から自分の未来を空想するのが好きだった。

高校生になっても子供のような妄想に浸ることが多かった。

その後、進学、就職していくうちに妄想癖は徐々に薄れていった。


仕事も楽しく夫との出会い、交際、結婚と何もかもが順調に進んだ。

結婚に対する実感が今ひとつだった旭子はジューンブライドにこだわった。

タイミングが遅く式場が取れず、入籍・同居を9月にして、早めに翌年の6月の日取りを押さえた。

憧れの小田急線沿いに新居が見つかり、引越しの準備をしていて、高校時代書いていた「私の未来」というノートを見つけた。


「高校時代というと10年前か。なつかしい。」


10年に何か引っかかるものを感じ、じっくり読み返した。


「私を本当に愛してくれて、幸せにしてくれる人が10年後に現れる。その時の約束を守るため未来から自分の身近に来ていて私を見守ってくれている。突然、何か未来からの伝言を伝えにくるかもしれない。見逃さないようにしていなければ。」


その後に


「児島君から話しかけられた。」


「卒業後10年目の10月18日にクラス会。」


「運命の人だと思って必ず行くと答えた。」



10年前の記憶が蘇った。


あの頃、空想にひたっていた自分の未来。

「本当に愛してくれる人は10年後に現れる。」



迷いが生まれた。

一つは夫こそ予言の人であり、実際10年後に婚約した。

聡史は幸せの神様の予言を伝えに来ただけだったのかもしれない。


このように自分を納得させようとしたが頭の中のもう一人が反論した。

愛する人は10年後に「現れる」。

今の夫と出会ったのは入社3年目だから高校卒業後7年目。

約束を忘れないための予言だったのに忘れていた。

本当に自分の愛すべき人はもっと待っていなければならなかった。


9月下旬に引越しをして、婚姻届は区切りのいい10月1日に提出することにした。

ところが引越しの翌日、夫が出社すると10月1日付での異動の内示が出ていた。

あまりの急展開に夫は挙式への熱が冷めてしまった。

単身赴任が終わり落ち着くまで延期することにした。


旭子の落胆は大きかった。

旭子は自分の目の前から幸せがどんどん逃げていく様な気がした。


10年前に信じていた予言とその頃の日記。

やはり、人生の選択を取り違えてしまった。

これを打開するためには聡史に会ってみたい。


高校時代のノートを枕元において寝るようになってから夢を見た。

はっきり覚えていないが自分の結婚祝いを友人たちが開いてくれる。

直接話しているのか。

電話か。

出てくる人物が職場の同僚のはずなのに、高校時代の同級生がいた。


朝になって夢の内容は忘れていたが夜中に寝ぼけていたのか枕元のノートを手帳と間違えて、メモを書いていた。


「定時すぐに出るのは難しい。理恵と恭子は1Hくらい遅れる。会社の近くがいい。小川町。クレセント」


10月18日のクラス会の場所と時刻だと思った。




「児島君は私のことを愛していないんだよね?」

堂々巡りの話の中で旭子は何回か口にした。

聡史は何も答えられなかった。


「私は児島君のことを愛するようにならなければならないの。だって10年前の予言がこんなに奇跡の連続で的中しているのよ。一度きりの人生で本当の愛を見つけなきゃいけなかったのに。」


「夫のことを本当に愛しているのか?」

「聡史のことを愛さなければならないのではないか?」

「ふたつの愛は両立するのか?」

旭子は感情がもつれて、気持ちの整理がついていなかった。



聡史は「明日には返事する」と約束したが、夜中になっても何も答えが浮かばなかった。

何か違う角度から客観的に旭子にアドバイスできないか?

もう一度、卒業アルバムを開いた。


巻末の住所録を見て気づいた。

旭子の住所・電話番号の表記が少し変わっている。

町名のあとの番地がなく、ただ「公務員宿舎」と号室が書かれている。

公務員と言っても、県庁か中央省庁の出先かわからない。

電話番号の後に「内線」とある。


聡史は思い出してきた。

この町には高い塀に囲まれた区域と隣接して「国家公務員」の官舎があった。

古い映画に「網走番外地」と言うのがあったが、やはりここには「番地」がないのだろうか?

記憶をたどると、確かに旭子はそこの「所長」だと噂に聞いたか地元の新聞に肩書きが載っていたかもしれない。

それでクラスのみんなは近づき難い印象を持っていた。


本人が厳しく育てられたかどうかは別として、周りの見る目が彼女に無意識に影響し「離婚」「浮気」に強い罪悪感を感じる。

「幸せな家庭を築く」という価値観に縛られている。

「夫と別れて離婚すれば会社も退職することになる。父親の顔に泥を塗る。」

こういう選択肢はありえないと追い詰められている。


具体的解決策が見つからなくとも客観的に分析したことを言えば、感情の渦に巻き込まれている旭子に救いの手を差し伸べることができるような気がした。



翌日、昼休み間際に旭子から聡史の職場に電話がかかってきた。

「大変なことになっちゃった。昨夜、主人が帰って来ていた。ほとぼりが冷めたらこちらから連絡する。ほんとにごめんなさい。」



ひと月くらいして聡史の職場に旭子からの郵便が届いた。

開けると千葉の川村記念美術館のチケットとメモが入っていた。

「日程的にはこの日くらいしかありません。無理なら他の日を探します。日程、待ち合わせ時刻と場所は会社に電話してください。」


さっそく、旭子の職場に電話した。

「ロスコの児島と申しますが。工藤さん、お願いします。」

旭子がマグリットを会社名に使ってきたので、聡史は川村記念美術館の最大のコレクションであるロスコを名乗った。

「すいません、工藤は席を外しておりまして。折り返しいたしましょうか?」

「それなら伝言をお願いします。」

「どうぞ。」

「新浦安の件ですが、ご希望の日程でご予約承りました。お値段は930円となります。」




今まで、美術館も食事も都内で電車を利用していた。

旭子は密室になる車での移動を避けていた。

川村記念美術館は環境も建物も展示もすごくいいところだから行ってみたいねと話していた。

旭子の家から遠く、聡史も車で行かないと不便な場所だったのであきらめていた。

「ほとぼりが冷めたら」の後の最初のコンタクトが川村記念美術館に行こうということは大きな決断をしたのだなと思った。



9時半に新浦安駅の改札で待っていたら旭子が来た。

暗号の様な伝言は解読できたようだ。


最後の「大変なことになった」「ほとぼりが冷めたら」が耳に焼き付いていたので重い感じかと思っていた。

ごく普通のカップルの待ちに待った初ドライブみたいな雰囲気だった。


浦安インターから湾岸に入るとき

「男女7人夏物語のエンディングの空撮で映るのはここだよ。」

「すごぉい。よくわかったわね。私も夏も秋も夢中で見ていた。」

「夏と秋、どっちが好き?」

予想していたのとは真逆の楽しい時間が流れ、あっという間に佐倉に着いた。



展示を見た後、中庭が見えるベンチに座った。

初めて旭子は聡史の肩にもたれかかった。

そのうち涙声になったので聡史はそっと旭子の手をとった。


「これで最後ね。主人、4月1日付で戻ってきた。あきらめていた6月の挙式もなんとか探して式場が取れた。」


「よかったね。おめでとう。」と口に出そうになったが旭子の口調から、そういう返事をしては行けないと感じ取れた。


別れを悲しんでいる。

「今日から主人は現地に泊まりがけで出張している。宴会があるし今のバブルで業者の接待がすごくて週末も接待旅行から抜けられないから遅くまで大丈夫。しかも結構、バレているし。」




旭子が聡史に打ち明けた日、旭子の夫は急に本社に呼ばれた。

「まだ、稼働じゃないけど先が見えてきたので現地派遣も少しずつ減らしていくことになった。向井君の奥さん体調が良くないらしいな。月に一度は休むらしい。新婚で単身赴任している向井君から先に帰そうと思っている。」


夫は部長に会った後、旭子の部署に顔を出した。

「体調不良」と連絡があり休んでいた。

その場で自宅に電話したが留守だった。


その前から予感がしていた。

夜、寮から自宅に電話するのに公衆電話でからかけづらかった。

車通勤で飲みに行くところもないので寮の誰かの部屋に集まって飲んでいることが多かった。

「新婚さん奥さんに電話しなくていいの?」とからかわれた。

虚勢を張って夜遅くまで同僚の部屋から抜け出さなかった。

平日の昼間に職場に電話すると「お休みです」と言われた。

心配で自宅にかけると留守だった。



その夜、遅く旭子が泣きながら帰ってきた。

「悪かった。ほったらかしにして。週末も帰ってこないで。」

「ううん、いいの、私も少し羽を伸ばしていたから。」

「泣いている。」

「あぁ、今日は一人で映画見に行っていた。予告編でも言っていたけどハンカチをたくさん用意してくださいって。大感激。」

「そうなら、いいけど。平日に休みとって行く映画、どこ?有楽町も新宿も会社の帰りに行けるだろう。」

「私、嘘をつくのが下手だね。」

「会社に電話すると休みって言われ、家にかけると留守で。羽根を伸ばしているのかなと思った。それからは直接電話しなかったけど、別件で他の部署にかけると奥さん大丈夫ですか?て聞かれたぞ。」

「白状します。高校時代の同級生。卒業10年目のクラス会があって行ってみたら会社が近くで、相談とか乗ってもらっていたの。だからそんな関係じゃない。」

「それも含めて俺の責任だから許す。でも4月で帰れることになった。なんとか頑張って6月に式を挙げる。そいつとは別れられるだろ。」

「大丈夫。ていうか別れた。今日、泣いているのはそれで。私が結婚しているのがバレちゃって。」

「今まで隠していたのか?なんで平日の昼間に会っていた?」

「その人、サービス業で平日しかお休みなくて。」


旭子は経緯を聡史に話した。



「そうか。バレていたと言っても半分くらい嘘だけど、決着はついたの?」

「主人は許してくれた。でも私の気持ちが。」

「えっ?」

「私、児島君のことを愛している。はっきりそう思った。」

「ありがとう。僕も君を手放したくない。でも、今日で最後って言ったよね。」

「朝、出かけるときそう決心した。でも新浦安から車に乗ってずっと楽しかった。幸せだった。もう離れられない。気持ちが揺らいできた。」


少し、沈黙が続いた。


「ねえ、どうしたらいい?この間は『愛するようにならなければいけない』って言ったけど、今はもう児島君を愛しているの。」

「ご主人のことは?」

「わからない。わからなくなっちゃった。」


「このあいだ相談された答え、まだだったよね。あの時と違って少し落ち着いているようだから話すけど、客観的に分析してみた。」

「分析?」

「だめ?ちゃんと愛しているか答えなきゃだめ?」

「いいわ。客観的な見方がいいよね。」


「君のお父さん、確か法務省の公務員だよね?」

「遠回しに言わなくていいよ。刑務所長。今は千葉に居る。」

「実際はどうかわからないけど、周りの目が厳格な家庭のお嬢様って思われて育ったでしょう。」

「それは感じていた。」

「それで潜在的に離婚や浮気に人一倍、罪悪感を抱いていると思う。」


「でも、私たち不倫しているよね。」

「指一本、触れてないのに不倫?」

「私、児島君の肩にもたれかかっている。手を握っている。」

「今日が初めてじゃないか。それより、どこからが不倫でどこまでが不倫じゃないかでなくて、人を愛するって、もっと違う次元のことじゃないかな。」


「同時に違う人を愛するって浮気じゃないの?」

「男は同時に違う人を愛せる。女はできない。女は同時に違う人を愛してはいけない。家庭環境と周りの目から思い込んでいる。二人とも本当の愛が何なのかまだわからないと思う。」


「10年前の予言が実現しているから、児島君を愛することが本物の愛だと思う。」

「じゃぁ、離婚して会社も辞める?」

「児島君が私を愛してくれるなら、そうする。」


旭子に再会する前に招待状を見た時、『自分の人生を変えるための選択』という文字が浮かんだ。

今、自分の人生を変えようとしているのか?

いや、旭子の人生を変えようとしている。

これは正しい選択なのか?




昨晩、聡史は旭子との別れを覚悟してなかなか寝付けなかった。

一睡もできなかった感じだったが明け方うとうとして夢を見た。


30年後の自分が若い女の子の恋愛相談に答えていた。


「人を愛するというのは相手を独占したり束縛するのではなく、いつまでも幸せで健やかであるように願い、時には手を差し伸べることだよ。」


30年後の聡史は余程の人生経験を積んだらしい。

今の未熟な聡史には思いつかない言葉が美術館の片隅で降りてきた。




「僕も君を愛している。愛しているから君には幸せになってほしい。今までの人生をここで覆すのは僕ら二人ともが不幸になる。」

「愛する人と一緒になるのが幸せなんじゃないかしら?」


「10年前の予言を信じている君だから、これも信じてくれるだろう。30年後、ふたりは本当の愛と幸せの意味を知る。」

「おばあちゃんになって?」


「人は一生かけて愛と幸せを見つけていくじゃないのかな?たとえば数十年後、今の旦那さんと子供達に囲まれて、やっぱりこれが幸せだったと感じているかもしれない。そして、それは今日、ここで僕が破滅を思い止まらせるという愛があったからかもしれない。」


いつしか外が薄暗くなっていた。




二人が究極の選択に迫られ、それをソフトランディングしたことで一気に気が楽になった。

帰りの車では今まで一年半の楽しかったこと。

マグリットやロスコと言った社名を名乗り暗号のような伝言など。

思い出話しで笑いあった。


話に夢中になり、浦安インターを通り過ぎてしまった。


「行き過ぎた」

「どこでも連れてって。まだ一緒に居たい。」


どこでもと言われても行き先が思いつかず、自然と普段、自宅へ帰る道を走った。

気づいたら聡史のマンションに着いていた。


もし拒まれても、最後の夜だから夜明けまで話していようと言い訳することもできる。

聡史はそう言い聞かせた。


旭子は躊躇しないどころか、「着いていきなりだけどシャワー借りていい?」と言った。

聡史は拒まれないと思い、旭子がシャワーを使っている間に買ってこなければならないものの自動販売機を探した。

普段、気に留めていないのでなかなか見つからなかった。

ようやく見つけたと思ったら、財布に小銭が足りなかった。


その時になって「用意できてないけど」とささやいた。


「大丈夫、今日なら。」




翌朝、聡史は出勤の準備をしていた。

旭子は前日の休暇のカジュアルな服装だった。


「どうする?それで出勤できないでしょう。新百合ヶ丘まで着替えに帰ったら大遅刻だよ。」

「今日も体調不良で休む。ねえ、帰ってくるまでここに居させて、夕食の準備をして待っているから。」

「うれしいけど、離婚・退職の道は選ばないって決めたよね。大丈夫?」

「今が一番幸せ。でも満喫したら切り替えて、『しんつま』に戻る。」

「金妻?」

「金曜日の妻たちでなくて新百合ヶ丘の新妻。」




聡史が出かけた後、旭子は休暇の連絡を会社にしなければと誰かが出勤してくる時刻を待っていた。

8時を過ぎて、「今日も熱が下がらなくて休みます」と電話しようと受話器に手を伸ばして急に思い出した。


前日は以前から休暇を届けておくため、「式の準備で実家に戻ります」と言っていた。

夫は挙式までの日程がタイトで頻繁に式場との打ち合わせが必要で宴会の後、朝イチで帰ってくるよう予定を変更していた。


今日、出社せず披露宴の打ち合わせにも行かなかったら、夫が実家に電話して実家に帰っていないことがわかってしまう。

もうごまかしきれないと思った。


このまま聡史の部屋に留まり、会社を無断欠勤して、夫との待ち合わせにもいかず、自宅に帰らない。


失踪する。


平成の駆け落ち?


早く決断しないといけない中、冷静に考えた。


失踪したら会社も父も事件か事故と確信する。

特に父の名前が出たら警察もかなり真剣に捜査する。

現に出所した元受刑者が裁判で証人になった目撃者を殺すという事件が起きたばかりで、実家で父と話した時も話題に上ったくらいだから逃げ通せない。


旭子も信じられないくらい短時間でシミュレーション結果が出た。


会社に電話した。

「昨夜は実家に泊まりました。普段の感覚で起きたので少し遅刻します。」



置き手紙を書こうと手帳からルーズリーフを取りはずし書こうとするが焦ってペンが進まない。

一度書きかけたものを丸めて捨てようとゴミ箱を探した。

ダイレクトメールのハガキが棄てられていた。

「これでここの住所がわかる。」


ハガキを取り出すとバッグに入れ、慌てて聡史の部屋を出た。

昨夜、夜中に聡史の車で来たのでどう行けば会社に行けるかわからなかった。

通りへ出てタクシーを捕まえた。

「どちら?」

「駅までお願いします。」

「どっちの?」

「小川町に行きたいので早い方で。」

「船堀ですね。Uターンします。」



駅前でタクシーを降り券売機で路線図を見たがすぐにはわからなかった。

とりあえず最低運賃のキップを買って降りる時、精算することにした。


電車に乗ってドアの上の路線図を見て乗り換えずに行けることがわかった。

会社まで30分で着いた。

余裕で間に合った。


「やっぱり離婚してあっちに住もうかな。でも、そうしたら会社も辞めているか。」

ロッカーで着替えを探した。

女子社員の制服は廃止されていたが年に一回、株主総会の手伝いに駆り出されることもあり入社時に支給された制服を置いていた。


何事もなく仕事を終え夕方、式場のホテルで夫と合流し打ち合わせをした。




帰宅して自分の机の引き出しを開け聡史の家のゴミ箱から持ってきたハガキをしまおうとした。

結婚して2年近く旭子も30歳になるのでと友人から贈られた基礎体温表をつけていた。

取り出すとグラフを眺めお腹を抑えながら旭子はつぶやいた。


「やっぱり」


聡史の住所が書かれたハガキと一緒にしまいながら、またつぶやいた。

「次、来たら手紙を書こう。」




聡史は定時で飛び出すように家に戻った。

駅を降りて何か買い物をしていこうかと電話をしたが出なかった。

やはり旭子は待っていないかと少し不安になった。


「一人暮らしの男の部屋に外からかかってきても出るわけにいかないな。」

家に着いていきなりドアを開けると驚くだろうとチャイムを押した。

返事がなかった。電話と同じでチャイムにも出られないはずだ。


玄関に鍵はかかっていなかった。

「やっぱり、居てくれてた。」

中に入ったが真っ暗だった。

明かりをつけると誰もいない。

置き手紙も何もなかった。


しばらく呆然としていた。

食欲はなかったが口が旭子の手料理になっていた。

駅前の定食屋に行って日替わり定食とビールを頼んだ。


帰宅してデジャヴだと感じた。

そうだ、1年半前、こんなふうに定食とビールで夕食を取って帰宅したら、あの案内状が机の上にあった。

1年半、長い夢を見ていたのか、パラレルワールドに迷い込んでいたのかもしれないと思った。




1年余りが過ぎて、聡史の家の郵便受けに手紙が届いていた。

差出人の名前はないが封筒や切手、宛名の文字から女性からだと思われた。

消印を見ると「麻生」と読める。

川崎市の麻生区なら新百合ヶ丘だ。


きっと旭子からに違いないと封を開けた。

便箋と赤ん坊を抱いた旭子の写真が入っていた。

季節の挨拶から始まる書き出しに続いて、あの日の経緯が書いてあった。



「あの日は夕食の準備をして待っていると言っておきながら黙って居なくなってすいませんでした。」


それから、無事披露宴を済ませたこと。

社内結婚で会社の人を招いて披露宴を開き寿退社が当たり前の職場で仕事もやめたことが書かれていた。


手紙の最後、

「写真の子は『玲奈』と名付けました。娘を見たとき思いました。私が10年後に出会う、本当の愛とはこの娘なのだと。私は予言通り、娘に愛情を注ぎます。児島君も自分の娘?だと思って見守ってあげてください。」


聡史は「自分の娘」の横に小さく?と書いてあるのが少し気になった。

彼女の幸せそうな写真を見て、あの1年半は夢ではなかった。

そして、旭子は幸せになったと確信してほっとした。


















<2016年/平成28年>



向井玲奈は電車の中でとても緊張していた。

やっとパートの仕事が見つかり採用が決まった。

オフィスの工事が済んでからと、夏休み明けが初出勤となった。


人前で話すことが苦手で最初に自己紹介をする自信がなかった。

話すことをノートに書いたが暗記できなかった。


「緊張しているのであらかじめ用意したものを読み上げさせていただきます。」

結婚式の祝辞で新婦の友人代表がよくやる方法。

同じやり方で許してもらおう。


職場に着くと入社手続きやガイダンスと聞いていた。

自分より少し年上くらいの明るい感じの女性が入ってきた。


「チーフの島村です。よろしく。」

「よろしくお願いします。」

「みんなに紹介するから先に。」といきなりフロアに連れて行かれた。

挨拶を書いたノートを持っていこうとすると

「フロアは携帯や自分のノートみたいな私物は持ち込み禁止なの。会社支給のノートがあるからメモを取る時は使って。」




「おはようございます。夏季休業中のレイアウト変更と空調の工事も終わり、今日から新体制です。うちのグループも4名増員になりました。」

玲奈を含め4人が前に並ばされた。


「吉川さん、田辺さん、加藤さん。皆さんの中には以前一緒に働いた人もいるでしょうが他のグループからの異動です。」

3人が簡単に挨拶をした。


「私の隣が新人の向井さん。」

前の3人が名前と「よろしくお願いします」だけの挨拶だったので玲奈もそれで済むだろうと安心した。


「今日からお世話になる向井玲奈です。よろしくお願いします。」


「後々、互いに困るといけないのであらかじめお伝えしておきますが、向井さんは障害者雇用枠で入られました。複雑なコミュニケーションが苦手ということで普段の会話など問題ないそうですが、込み入った話しはメモを取ればおぼえられるとのことです。業務に関わることは当面、私が直接、指導していきます。大勢の中での会話が苦手で的外れな受け答えになることがあるそうですが仲間はずれにしないで、個別に話しかけたりしてあげてください。」


一旦、会議室に戻りガイダンスを受けた。

玲奈は30分以上、一方的に新しい情報を詰め込まれるとオーバーフローしてしまうことを面接の時、立ち会った就労支援会社の人が伝えていたので書類を用意してもらっていた。


目を通すと、この会社はB P O、ビジネス・プロセス・アウトソーシングの会社でさまざまなクライアントから委託された、契約書の処理、経理事務、人事・給与計算などをしていることが書いてあった。


玲奈の配属されたグループは通販型保険会社の業務をしている。

お客様からの契約書や保険金請求書の郵送先がこのセンターになっている。

郵便物は1階で仕分けされて、開封して仕分け、データ入力、チェックをしてクライアントに発送する流れになっているという。


10時にはフロアに戻り、郵便物を開封し、保険契約書を代理店、保険の種類、新規、継続、下取りの有無などで分けるということから始めた。


午後になって、島村に声をかけられた。

「向井さん。ここ冷房がかなりきついはずなの。暑がりの男の人が代わってほしいというので、交代してもらえる?」


午前中、緊張していたので寒いとは思っていなかった。

パーティションがあり誰も話しかけてこないとはいえ、大勢に囲まれていた。

どこまで緊張に耐えられるか不安だった

部屋の片隅の席に代われて安心した。


出勤初日は緊張していたので気づかなかったが、最初、座席を交代した人が年配の男性で、最初は社員で偉い人かと思った。

よく見ると私服でどうやら玲奈と同じ仕事をしているようだった。



職場はパート社員がほとんどで週40時間勤務は若い人が多く、主婦と思われる人は扶養や社会保険の絡みで週3日や4日出勤のシフト勤務だ。

玲奈はフルタイムで働く自信がなかった。

法定雇用率を満たすためには週30時間以上であれば一人とカウントされるため、一日6時間の勤務時間になっていた。

その初老の男だけが玲奈と勤務時間が同じだとしばらく気づかなかった。


数週間後。

個人情報を取り扱いセキュリティーに厳しく、違う階のフロアに入るのに自分のI Dカードでは入れなかった。

それを知らず、ドアの前で困っていたら、その男の人が声をかけてきた。


「入れないでしょう。どうしたの?」

「見たことのない契約書がいっぱい出てきて。島村さんがいらっしゃらなくて。高田さんに聞いたら、電話してくれました。3階に行って渡せばわかるって言われました。」

男はインターホンを押した。


「すいません、4階の児島ですが、Dインシュランスに生保が混入していました。」

内側のロックが開いた。

「貸して。持って行くから。」

「いや、大丈夫です。今後の勉強のため自分で行きます。」

「入ったばかりで何もわからないから少しずつ勉強だよね。」


玲奈は戻ったら、きちんとお礼を言わなければと思った。

グループ内の人の名前と顔はすぐ覚えたつもりだった。

だけど、実際に会話をすることがほとんどないのであの男の人の名前に自信がなくなった。

部屋に戻りシフト表を見て確認した。

「やっぱり、児島さんであっていた。」


業務中は私語禁止だったが最近、緩んできてパートの女性陣は島村がいなくなるとおしゃべりが始まる。

先ほども島村がいなかったから玲奈も仕方なく隣の人に質問した。

ところが戻ったら島村が戻っていて部屋中、静まり返っていた。


お礼が言えなかった。

帰りのロッカーで見かけたので「児島さん、さっきはありがとうございました。」

礼が言えた。




翌年の春、会社全体で人が増えてロッカーが狭くなっていた。

ロッカーの雑談に入りたくない玲奈は意図的に少し遅らせてロッカーに行くようになった。

しばらく気づかなかったが児島も遅れてロッカーに来ていた。

玲奈が帰り道に音楽を聴くためプレーヤーとイヤホンをバッグから取り出していたら、声をかけられた。


「それ、iPod?僕と同じ色だね。」

「ほんとですね。ピンクって珍しいですね。」

「スマホは持っているけど、母親がラジオを聴きたいって言うけどマンションで電波が届かなくて。radikoが使える機種をやっと見つけた。」

玲奈が児島聡史と雑談をしたのは多分、これが最初だった。



玲奈と聡史だけがグループでPCの入力作業をしていなかった。

玲奈はPCを使えたがディスプレイや手元の書類のどの部分まで終わっているのか視線を外すとわからなくなってしまうことがあった。

スピードと精度が必要な業務でのPCの入力は免除してもらった。




児島聡史はこの20数年、時代の波に呑み込まれた人生を送り今ここで働いている。

親の紹介で結婚をしたが子どもに恵まれなかった。

勤めていた会社は合併や筆頭株主が交替し本社も移転した。

それにともない都内から相模原市に転居した。

そこで過重労働、パワハラが続きメンタルヘルスで休職した。

双極性障害と診断された。


職場の環境はさらに激変し、早期退職に応募し会社を辞めた。

その直後、リーマンショックに見舞われ失業は長期に及んだ。

経済的不安から妻も倒れ、やがて自ら命を絶った。

ようやく、5年前にこの職場に障害者雇用枠でパート社員として採用されていた。


PCの操作は自信があった。

かつてはパワーポイントやエクセルの資料を1から作っていたので、単純なデータ入力は物足りなかった。

自ら希望して開封と仕分け、発送の準備というアナログな作業に専念していた。




夏休み明け。

玲奈が入社してちょうど一年。

若干の席の移動があり、玲奈と聡史は近い席になった。

そこで聡史は玲奈がデータ入力はやらず、自分と同じ様に地道な単純作業に専念していることに気づいた。


最初は単なる親近感だけだったが、同じ作業をコツコツとやっている誇りや悩みを分かち合いたいと考える様になった。



聡史の自宅は職場まで歩いて通えるところだった。

駅ビルのスーパーで買い物をしてバスで帰宅することが多かった。




ある日、スーパーの入り口で玲奈にばったり出くわした。

職場のパートの人と駅ビルなどですれ違うことがあったが軽く会釈をするだけだった。

全く同じ仕事をしているという共感を玲奈に話したくてうずうずしていたので、会釈だけでなく話しかけた。


「お疲れさま。」

「あ、お疲れ様です。」

「向井さんも買い物?」

「いえ、ちょっと散策に」


玲奈は突然、話しかけられると対応できなくて的外れな言葉が口に出てしまうことがあった。

「よかったらもう少しお話ししませんか?」

聡史は立ち話しでもよかったが職場から歩いて少し疲れていたので座って話がしたかった。

はっきりとお茶に誘った訳ではなかった。

「あの、そういうのはちょっと」

「じゃあ、ごゆっくり。僕はバスの時間までバス停で待ってよ。」



聡史は家に帰りベッドに倒れ込むと急に切なくなり涙が出てきた。

社会人2年目に一年後輩の女子が好きになり、思いきり振られて以来、人生で二度目に味わう感覚だった。


この歳になって、こんな気分を味わえるのかと悲しい反面、驚きと喜びもあった。

この気持ちを誰かに話したくなった。



聡史は母親の介護のストレスと入所時の施設とのトラブルで今年の始め精神的にかなりまいって体調を崩した。

相談相手が欲しく、会社の健康保険組合のホームページからメンタルヘルス相談窓口を見つけて電話をかけた。


そこでカウンセリングを受けられるところを紹介してもらい通っていた。

次のカウンセリングでこの話題を持ち出した。


「会社にいる年齢も2回り以上、離れた子に恋愛感情を持ってしまいました。」

カウンセラーは学校カウンセリングが本業で思春期の子の相談に乗ることが多かった。

まさかこの年齢の男性に恋バナを持って来られるとは意外だっただろう。


「うまく行っても行かなくても、どちらかが会社に居られなくなることになるでしょう。」

「職場のいい先輩になれる様、ちょっと距離を置いた関係が築けるのが理想かもしれません。」


聡史はカウンセラーのアドバイスをノートに書き込み帰りの電車のホームで何度も読み返した。




これ以降、聡史は職場で玲奈に話しかける機会が増えてきた。

同じ業務なので到着した荷物を取りに降りたり、書庫に入る際、鍵を開けてもらう時など、ほんの数分、二人だけで通路で待たされることがあった。


こういう時の雑談で玲奈に伝わる時と伝わらない時の違いがわかってきた。



聡史はプライベートなことには触れないで、それでも玲奈が答えやすい様な話題で話しかけた。

玲奈も他人とのコミュニケーションがもっとできる様、話しかけられたら会話のキャッチボールが続けられるよう意識していた。


雑談の中で聡史は意識して聞き出していないにも関わらず、玲奈の個人情報のヒントを手に入れた。

海老名から通っていること。おおよその住所。生まれたのは新百合ヶ丘。誕生日が自分と近いこと。

これらを元にその後の雑談のネタにした。


10月になって、玲奈が急に明るくなった。

昼休みのコンビニで玲奈の方から聡史に話しかけて来た。

二人が接する時間が増えていた。



ある金曜日、玲奈は忘れ物をして数分遅れて会社を出た。

聡史が駅ビルのベーカリーショップでバゲットを買って精算していたら店に玲奈が入って来た。


玲奈も聡史がレジに並んでいることにすぐ気づいた。

ここ数日、職場で聡史が話しかけてくることが増え、ちょっと「うざい」と思っていた。

玲奈は聡史が店を出るまで品物を選ぶふりをして時間稼ぎをしようと思った。


一方、聡史はこの日、玲奈と話し足りないことがあった。

絶好の機会だから店内のイートインに誘おうと思った。

聡史は精算が終わってしまい、イートインに行くことを諦めそのままトレーとトングを持った玲奈の所に行った。


「向井さんもここのバゲット好きなの?」

「ええ」

玲奈は会社の外では絡まれたくないと思いそっけない返事をした。

この日、聡史は熱いコーヒーをこぼしてしまい落ち込んでいた。

そんな時、玲奈が珍しく他のパートの人と話しながら大声で笑っていた。

少しカチンと来た。

そういう嫌な1日で終わりそうだったのに会社の外で玲奈に会えて、気持ちが昂ってしまった。


「向井さんがここに来る予感がしていた。」

「えっ?どうしてですか?」

「お告げがあって。」


玲奈は冗談とは思わず驚いた。


「さっきの話、途中で邪魔が入ったから上の吹き抜けのベンチに行って続きを話したいんだけど。いいでしょ?」

「何の話ですか?」

「向井さんの仕事に対する姿勢が素敵だなって。」

「ここじゃダメですか?」

「行こう、行こう、すぐ終わるから。」



聡史は強引に玲奈を連れてエスカレーターに向かった。

上りと下りを間違えていたので後戻りしたら玲奈が少し遠い所に居た。

「どうしても行かなきゃだめですか!」

初めて玲奈が大声をあげた。

聡史はこれ以上、玲奈を困らせるのはまずいと気づいた。

「じゃぁ来週、会社で。」

玲奈は逃げるように改札の方へ走って行った。




翌週の月曜日。

玲奈は金曜日の出来事を事前に島村にメールしておいた。

出社するとすぐにマネージャーに呼ばれ、打ち合わせテーブルで島村も交え面談をした。

その後すぐに聡史が呼ばれた。


「金曜日の帰り、駅ビルで向井さんを待ち伏せしていましたか?」

「いいえ、偶然、同じ店に彼女が来たので話しかけただけです。」

「来るのが分かっていたと言われたそうですけど。」

「気分が良くて、悪い冗談を言ってしまいました。」

「無理やり上の吹き抜けに連れて行こうとしたのは?」

「最近、彼女のリアクションが良くてよく話をするので、つい調子に乗ってしまいました。」



ストーカー行為とは言えないけれど玲奈のコミュニケーション力の限界を考慮して驚かせたり困らせたりしないよう聡史は注意を受けた。

会社の外や大勢、人が居る所では話しかけないことを約束した。



再び玲奈が呼ばれ智史へのヒアリング内容を知らされた。

島村は今まで智史との定期面談をして来たので智史のことを話した。


「児島さんも色々苦労してきているの。今はお母さんの介護で大変だし、奥さんもお父さんも亡くされている。あの人も障害者雇用で入っているのはご存じ?」

「ええ、自分と同じ勤務時間で同じ内容の仕事をなさっているのでそうかなと。」

「気分が昂ると少し行き過ぎた発言や行動をしてしまう。ここでも他の人と仕事の進め方で口論になりトラブルなったことがあって。それ以来、かなり気をつけている様子だったけど。」



会社は通路やロッカーで智史と玲奈が二人きりにならないよう注意を払った。

玲奈は元の親切で優しい智史に戻ってくれればそれで良かった。

職場で話しかけてくる人がほとんどいない。


たまに話しかけられても相手が同じ年代の同性にも関わらず話が噛み合わなかった。

真意が読み取れず、うまく言葉を返せなくて愛想笑いを浮かべるしかなかった。

その点、智史の話は分かりやすく面白かった。

話し相手がいなくなるのは寂しいと思った。



それから数週間、二人は社内でも顔を合わせることもなく、ロッカーでも離れて帰り支度をした。

玲奈は気まずい思いを何とか解消したかった。




駅から会社へ行く途中、少し距離をショートカットするため公園の中を横切っていた。

ある朝、公園の入り口で玲奈は智史と出くわした。

智史は軽く会釈をすると玲奈に追い抜いてもらおうと歩みを緩め少し横にそれた。

玲奈は話しかけるチャンスだと思い、智史の横に並んだ。


「おはようございます。」

「おはようございます。」

「公園の銀杏がきれいですね。」

「うん。この先、もう一本別の通りがあって、そこの街路樹も今、真黄色できれいだよ。」


玲奈はわだかまりを消すことができたと安心した。

「それじゃ、お先に。」





それから数ヶ月間、聡史と玲奈は週に一度くらい、帰りのロッカーでほんの短い会話を交わす程度だった。




翌年の3月の半ばごろ、ロッカーに人気が少なく、玲奈は聡史に話しかけた。


「前から気になっていたんですけど」

玲奈は聡史のショルダーバッグに付いている缶バッジを指差した。

「それリトグリですよね。児島さんリトグリ好きなんですか?」


これをきっかけに智史と玲奈はLittle Glee Monster、TWICE、乃木坂46など共通の好みの音楽がわかり、CDや歌番組の話題でよく話すようになった。



聡史は以前、季節の話題から二人とも誕生日が1月であることを知っていた。

年が明けて、最初の日


「向井さんも1月生まれだよね。」

「なんで知ってるんですか?」

「だいぶ前だけど、話したじゃん。1月生まれってクリスマスからお正月とイベント続きで誕生日を祝ってもらえないって。」

「そんな話ししましたっけ。」

「で、何日?」

「どうして聞くんですか?」

「向井さんも祝ってもらえないかなって、せめてメッセージだけでもって。」

「10日です。」


1月10日になって玲奈は智史からバースデーカードを渡された。

帰宅して開けると、カードにインスタグラムで検索するようハッシュタグが書かれていた。


スマホで検索し、動画をタップすると絵は動かないがアカペラでハモっている、リトグリの「Happy birthday to you」が流れた。

最後、字幕で「玲奈ちゃん誕生日おめでとう」と出た時はうれしかった。



聡史はリトグリのCDやブルーレイがリリースされるとネット予約し、昼休みに会社近くのコンビニで受取り梱包を開け玲奈に見せ、時には数日後、玲奈に貸してくれた。




5月になって、聡史がリトグリの新譜を持ってきた。

「これ、作詞は違うけど作曲が水野良樹で、歌詞の内容からどうしてもジャケ写真が相模川のあゆみ橋あたりで撮った様な気がして。土曜日に電車に乗って厚木駅まで行ってみようと思った。」


「行ったんですか?」

「出かける前にツイッター見たら、ここはどこでしょうクイズで盛り上がっていて、現地で撮った写真もアップされていて、それをヒントにストリートビューで確かめたら残念ながら二子玉川だった。」



CDを借りた玲奈は数日後返す時に言った。


「ありがとうございました。いい歌ですね。『いきものががり』高校の先輩なんです。」

「どっち?」

聡史は玲奈との年齢差が2回りくらいありそうと思っていたので、自分と2回り違いで同じ子年生まれの吉岡聖恵の方かと思い聞いてみた。

「厚木です。私が1年の時の卒業式にいきものがかりが来て歌ってくれました。」

「Yell?」

「SAKURAです。」


このやりとりから聡史は玲奈の生年月日をほぼ特定できた。

自分の気持ちが若く、玲奈と話も合うので年齢差がこれほどあることに驚いた。

完全に親子ほど歳が離れている。

これからは少し距離を置いて娘のような存在だと思って見守ろうと考える様になった。



仕事内容はずっと変わらす、玲奈も聡史も一日中、黙々と互いに背を向けて単純作業をする毎日だった。


聡史は一度でいいから玲奈と隣同士か向かい合わせで仕事を教えたり、手伝ったりしながら仕事することを夢見ていた。




その日はしばらくたって2021年の春、思いもかけず訪れた。


クライアントがある事業を撤退した際、廃却書類をバインダーやケースに入れたままで段ボールごと預かっていたことが判明した。


溶解処理する紙類とバインダーなどのプラスティック製品を分別する作業だった。

業者の引き取り時間が迫り、緊急に社内から数名が会議室に集められた。

玲奈と聡史は抱えている業務が少なく納期も厳しくなかったので選抜された。


段ボールが数10箱、持ち込まれて各自に数箱ずつ割り当てられた。

各自分担が終わると本来の業務に戻った。


聡史に割り当てられた席には最初、何も置かれていなかった。

「ちょっと、待っていて。今、メールをプリントアウトしてくるから。」

メールを読むと内部監査で文書管理の不備を毎回も指摘されていた支店の箱だとあった。


「保存年月に達していない書類の原本があるかもしれないらしい。児島さんはいろんな書類を見る力があるでしょう?このリストに当てはまるものはクライアントに返却するので時間がかかってもいいので一点、一点確認しながらやってください。」

「判断がつかないものは?」

「残しで。」


聡史はバインダーや封筒の中身を確認する作業に時間を要した。

新入社員の履歴書、研修レポート、借上げ社宅の契約書も出てきた。


遠い四国の見知らぬ女の子が希望に満ちて社会人になり失業する様子が目に浮かんだ。

ついつい手が止まり没頭してしまった。


玲奈は他の人と同じ分量だったが自分の通常の業務と同じくミスをしない様、しっかり確認しながら作業をしていた。




二人とも午前中に作業が終わらなかった。

昼休みになる直前に倉庫から更に混入書類が数箱見つかった。

会議室には聡史と玲奈しか残っていなかった。



午後からは広い会議室でふたりきりでの作業となった。

他に誰もいない。

二人とも飽きてきていた。


最初隣り同士だったが広い会議室で他に誰もいないのにそのまま席を移動せずアクリル板越しに雑談しながら作業をした。


「向井さんの母校って、名門なんだね。知らなかった。」

「いえ、いえ、そんなことないです。しかも私、不登校になってやっと卒業できたんですから。」

「DAZNでバレーボールの試合見ていて。」

「児島さん、バレーボール見に行くって言っていましたね。」

「日立リヴァーレってチームが好きなんだけど、久しぶりに見たらチームが所属している会社がアステモに名前が変わっていた。」


玲奈は自分の母校とバレーボールと何が関係あるかは気にせず話を聞いていた。


「そこからの数珠繋ぎで色々検索していくうちに向井さんの母校が旧制の県立三中ってわかった。向井さんの高校の隣に向井さんの時代だとユニシアって言っていたかな。」

「バスに乗って、高校前の次が多分そんな名前のバス停でした。」



「その会社とか色々、日立に吸収されて分社化してさらに去年、他も合併してアステモになったらしい。」

「それで旧制三中なら県立でもトップクラスだろうと、ネットで偏差値を『神奈川県・公立』で検索したら、僕の大学の時の友達の高校と同じだった。」

「自分の出身校と同レベルかなって検索したら神奈川県のチェックを外し忘れていて、熊本県と神奈川県の両方が出てきて、僕の母校は翠嵐とほぼ同じだった。」


アクリル板があり、マスクもしているので良く聞こえなかった。

話も長くなり玲奈は手元の作業に集中しながら聞き流していた。


聡史はそんな無駄話をしていても仕事が完了し、マネージャーに報告に行った。

確認のため一緒に戻ったマネージャーが玲奈に様子を聞いた。

足元にもう一箱手付かずのものがあった。

聡史は慌てて箱を持ち上げると玲奈の残りを処理した。


コロナ以降、ほとんど並んで歩きながら話すことがなかった玲奈が階段を降りる聡史を追いかけてきた。

「児島さん、今日は手伝っていただきありがとうございました。本当に助かりました。」

聡史は玲奈とふたりきりでおしゃべりしながらの仕事ができ、玲奈の分を手伝って心から感謝されて夢が叶ったと満足した。



玲奈のよき先輩として、さらに娘の様な存在として玲奈を見守り手を差し伸べる。

ずっと目指していたこと、夢がかなって幸せのピークだと思った。

このまま今の幸福感を維持して行けるように、あえて玲奈から離れようと考え始めた。


聡史の母は2年前に他界していた。

両親の預貯金と実家の土地を売ったお金を聡史が相続して、自分のマンションのローンを一括返済した。


60歳になり、かつてリストラされた会社の企業年金が受給できるようになった。

生活費がほとんどかからない。

公的年金はまだだが企業年金による収入もある。


玲奈と一緒にいる時間だけが生きがいで、仕事そのものはモチベーションがなくなっていた。

来年3月の契約更新のとき更新しないで退職しよう。

うすうす考える様になった。




ある日、玲奈との雑談の中で聡史が熊本出身だと話した。


「私の母も熊本なんです。児島さん横浜出身だとばかり思っていました。」

「どうしてそう思ったの。」

「何かの話で翠嵐とか緑ヶ丘って聞いた様な気がして。」

「あれね。偏差値の話しだよ。向井さんの母校が緑ヶ丘と同じで、僕も一緒くらいかなと調べたら翠嵐に近かった。」

「すごい。一流じゃないですか。そういえば母も県内一の進学校だったって聞いています。同じ高校かもしれないですね。母の方がずっと年上でしょうけど。」

「お母さん、幾つ?」

「62です。」

「学年は一緒だ。」

「えっ?そんなには見えませんけど。もしかして母と同級生ですか?旧姓は工藤です。」


聡史は衝撃を受けた。

同級生の女子。

新百合ヶ丘で娘を産んでいる『工藤』。


「知りませんか?」

「確か工藤旭子さん。同じクラスだったけど高校時代はほとんど話したことなかったと思う。」

「帰ったら、母にも聞いてみます。」



玲奈は帰宅し母親に尋ねた。

「会社でとてもお世話になっている人がいて、児島さんというの。お母さんと高校時代、同じクラスだったらしいの。今日、初めて知った。」


玲奈の母も衝撃を受けた。

「児島聡史さん?」

「うん」


旭子はしばらく言葉が出なかった。

「どんな人だった?」

「そうね、高校の時はあまり話したことがなくて。優しそうな感じだったかしら。玲奈にも優しいんじゃない?」



翌日、その話しを聡史に伝えるといきなり

「向井さんの生年月日。1991年1月10日。あっている?」

「はい。」

「小さい頃は新百合ヶ丘に住んでいた。」

「何でそんなに詳しいんですか?」

「ごめんね。ここ5年間のピースをつなぎ合わせて。」




聡史は家に帰ると昔、工藤旭子から届いた手紙を探した。

赤ちゃんを抱いた写真と手紙が出てきた。

手紙の最後に

「写真の子は『玲奈』と名付けました。児島君も自分の娘?だと思って見守ってあげてください。」


「玲奈」

「自分の娘」の横に小さく薄く書き込んだ「?」



聡史はスマホで妊活アプリを探した。

ダウンロードして1991年1月10日に出産した場合の排卵日を逆算した。


「あの夜だ。」


「今日は大丈夫」って言っていたはずだけど。

確信犯だったのかもしれない。

聡史は自分の娘に恋してしまったかもしれないという疑惑に1日も早く職場を去ろうと決意した。




翌日、出社すると島村の元へ行き、小声で

「大事な要件があります。できるだけ早い機会にマネージャーとの面談をお願いします。」


業務開始と同時に呼ばれた。

「来年3月で契約を更新せずに退職したいのですが」


聡史は働かなくともなんとか生活できる様になったので定年を待たず、元気なうちに新しい人生を送りたいと理由を話した。

マネージャーから意外な答えが返ってきた。


「退職を決意したなら、何も契約期間満了まで待たなくても今年いっぱいでも構いませんよ。というのも、これから4ヶ月モチベーションを維持するのは大変だと思います。しかもお分かりの様に業務量が極端に減ってきていて、やってもらう仕事をなんとか見つけている状態です。パート社員は半月前の申請でも大丈夫ですから。」


こうして聡史は年内いっぱいで退職する手続きを済ませた。










<2022年/令和4年>


年が明けて、出勤初日。

玲奈が職場の掲示板に近づくと前で同じグループの人が話していた。

「児島さん、年末で退職だったのね。」

「どうしたのかしら。」

「そろそろ定年なんじゃない。」

「昔は社員さんが定年になると記念品とかでお金集めて、花束を渡したりしてたよね。」

「コロナ以降は新年のCEO挨拶も無くなったし。」


二人が去って、玲奈は掲示板を見た。


「事後報告になりますが10年間ポロック相模大野センターに貢献してくださった児島さんが昨年いっぱいで退職されました。皆さんにご挨拶できなくて残念ですとのことです。」

島村が来て、玲奈に話しかけた。

「びっくりしたでしょう。」

「えぇ。」

玲奈は小声で相槌を打った。

「話しかけてくれる人がいなくなって少し寂しいんじゃない。」

「そんなぁ。そうですね。」

ここは照れながら返事した。



玲奈は12月の始めに聡史から直接、退職を聞いていた。

理由は聞かなかったが仕事量がかなり減って来ていて持て余している様子だった。



玲奈も今までやって来た仕事量が減ってきて、週の3分の1はDMの封入作業をやっていた。

DMは通常、専門業者が機械で行うものだが、極端にロットの少ないものや、封入物の組み合わせが複雑なものは手作業になり、うちに発注が来るとのことだった。

聡史がいなくなり、玲奈の仕事も元の分量に戻り、苦手な封入作業が無くなって助かった。

「まさか、児島さん私に仕事を分けるため身を引いてくれたのかしら。」



会社全体の雰囲気も変わって来ていた。

正社員は頻繁に会議室にこもっている。

帰りのロッカーでパート社員同士がヒソヒソ話をしている。

会話の内容は玲奈にはよく聞こえなかったが

「A Iには勝てないわよね。」

「幕張まで通えないし。」

「来月から個別面談。」

などが聞き取れた。



2月に入り、玲奈の所に島村がA4の紙を持ってきた。

「本当は面談の時、渡してその場で説明するものだけど、向井さんには先に渡しておくので自分のペースで読んでおいて。」

「あっ、それからこれはもっと内緒の話だけど、私4月で異動になるの。向井さんのこと充分にケアをしてあげられなくなるはず。そこも頭に入れて面談まで考えておいて。」

「それフロアから持ち出し禁止だから業務時間中に自分の席で読んで構わないから。」



「ポロックコーポレーション・相模大野センターの皆様へ」と書かれた文書を読んでロッカーのひそひそ話しの全容がわかった。


総務・人事・経理関連のアウトソーシングはその分野に特化した会社が急成長している。

営業系の業務はスマートホンの普及、コロナによる対面窓口の縮小やタッチパネル、タブレットの活用でペーパーレスが急ピッチで進んでいる。

クライアントの社内でリアルタイムに完結する仕組みに変化している。

コールセンター事業者はそのノウハウを活かしてチャットによるお客様対応やA I化で先んじている。

我が社の生き残りを考えたとき、最大のクライアントである官庁、自治体からの受注に資源と人員を集約すべきという戦略になった。


このような書き出しで、結論としては相模大野センターの規模を縮小する。

官庁、自治体の受託業務をセキュリティ上、幕張センターに集約する。




2月に入り玲奈は個別面談に呼ばれた。

マネージャーから既に読んでいた書類を渡され、目の前に置かれたPCでCEOのメッセージ動画の再生を見た。


終了後、マネージャーから4月以降の業務内容の説明を受けた。


「向井さんのグループはクライアントも委託内容も変わらないので引き続きここに残ります。ただ少数精鋭でいくため、現在の分業から一人で完結する体制にしようと思います。他の人に面談していて、特にベテランの方はもう少し付加価値のつく仕事がしたいという希望でした。契約書の開封から入力、チェック、時にはお客様に直接お電話して不備内容を修正するという業務になるでしょう。島村さんから向井さんには少し荷が重いのではと聞いていまして。率直な気持ちを聞かせていただきたいのです。」


島村が付け加えた。

「1階に降りてもらって、佐川と郵便の受取や発送の仕事も考えたんだけど、今でもまる1日分の業務じゃないし、縮小するともっと減るかもしれないので合間に総務の事務のサポートとか出来ないかしら。」

聡史が辞めて、さらに唯一頼りにしている島村もいなくなる。

玲奈は躊躇することなく、3月いっぱいでの退職を申し出た。




3月に入り玲奈は体調を崩した。

仕事へのモチベーションがほとんど無くなった。


4月以降、新しい仕事を探さなければならないという不安。

意識していなかったが聡史が辞めていなくなったことがここへ来て急に寂しくなった。


コロナ以降、ロッカーで話しかけてくることが減っていた。

それでも玲奈がヘアスタイルを変えたり、新しいバッグやアクセサリーで出勤すると必ず声をかけてくれた。


昨年、秋にかなり短くしたので下ろして行った。

「髪下ろすとイメージ変わるね」

「そうですか?家では下ろしてるんですけど、切ったので・・」

「やっぱり短くしたんだ」

「はい。そんなに違います?」

「うん、別人と入れ替わっているのかと思った。女子大生がいるって,」

「そんなに若くないですよ。」

「いいと思うよ。」

「ありがとうございます。」


少し恥ずかしかったがやはりうれしかった。

その後、元くらいに髪が伸びてきて仕事中邪魔になったが、聡史が退社するまで下ろしたままにしていた。



仕事中、無意識に後ろを振り返る様になった。

そこには空席があるだけ。

昨年まで気づいていなかったが聡史が近くに居て見守っていてくれていた様な気がしてきた。




家に帰るとこれまであまり一緒に暮らしたことのない父親が定年退職で、いつも家にいた。

少し息苦しかった。


玲奈が中学に上がって以降、父親は海外赴任や国内事業所への転勤が多く単身赴任だった。

玲奈が働き出してからは諏訪にある子会社の社長になり昨年まで母親との二人暮らしの日が長年続いた。


会社では孤立感がある。

家では母親を独占していたのに十数年ぶりに家族3人での生活だった。

自分が結婚せず家にいることを後ろめたく思い始めた。



怖い夢を見てうなされることが増えた。

悪夢のひとつは多分、思春期頃からたまに見る夢だった。

以前はうなされて目が醒めると具体的にどんな内容だったか忘れていた。

ところが最近は悪夢がリアルでよく覚えていた。


両親が喧嘩をしている。

幼い玲奈は泣き出して母親に抱かれている。

「どうせうちの娘じゃないからな。」

父親が言っている意味がわからないのに玲奈はますます大声で泣き、母親も涙ぐみながら自分を抱きしめている。


もう一つの夢は急に見る様になったがもっとリアルで生々しかった。

最初は現在の玲奈が今の職場で仕事をしている。

帰るとき、聡史から少し話しかけられて

「じゃあ、お先に。」


その背中を玲奈が見ていると急に幼稚園前の頃の玲奈。

幼い頃、住んでいた新百合ヶ丘のマンションでは無く全く知らない家にいる。

自分の父親とは違う人が出て行って母親と二人になると玄関のチャイムが鳴る。

母親が玄関を開けると

「すいません、葛西警察署ですが。」

「はい。」

「捜索願が出ていて長年行方不明の人の洗い直しをしていまして。お心あたりがないかと。」

母親はそれだけでおびえて玄関を閉めようとする。

警察官の力には勝てずドアが少し開く。

「工藤旭子さんですよね。お父様が下にいらしてます。会えばわかるとおっしゃっています。一目お顔を見せてもらえませんか。」

母親が無理やり連れていかれ、幼い玲奈は「お母さん」と何度も叫びながら大声で泣き続けている。


悪夢が続き、夜中に目が覚めると怖くて眠れない。

玲奈は医者から頓服としてもらっている抗不安薬を取り出すと水を汲みにキッチンへ降りて行った。

母親がいた。

「最近、うなされているみたいだけど大丈夫?」


今まで似たようなことがあると母親に心配をかけたくないので大丈夫と言って自分の部屋に戻っていた。

この夜ばかりは、母親のそばにいたくてダイニングテーブルに座って話をした。



夢の内容を聞いて旭子は驚いた。

最初の夢は赤ん坊の玲奈には分からなかっただろうと思っていたが事実だった。




出産予定日を聞いて、夫は計算が合わないと言い出した。

「とつきとうか」について誰もがカレンダーの10ヶ月をイメージしている。

なので、夫が単身赴任でほとんど帰宅できていなかった時期。

高校時代の同級生と密かに会っていた頃になる。


旭子は母子手帳や妊娠出産の書籍を見せて説明した。

10か月というのは女性の周期4週間をひと月として10回で280日。

29日周期の人もいるので290日だと教えたがなかなか納得してくれなかった。




それでも実際、玲奈が生まれると喜んでくれた。

だが、育メンという言葉と程遠い時代。

夜中に何度も泣き出す玲奈に夫はストレスがたまっていた。


夫は課長昇進を目前にして仕事に全精力を注いでいた。

バブルの最中で出世のためには仕事以上に人間関係や接待が重要で毎晩の様に夜遅く帰宅していた。

週末は早朝からゴルフに出かけた。




「夜の接待も休みの日のゴルフも仕事だから。」

「自分のことばかりで玲奈のことも私のことも考えてくれないの?」

「ばか。こうやって働いて将来は環境のいい所に広い家を建てる。お前と玲奈のためになんだぞ。」

こんなやりとりで喧嘩になり、その雰囲気に玲奈が泣き出した。

玲奈に愛情を注ぎ込み夫のストレスに見向きもしない旭子に夫は

「どうせ、俺の子じゃないからな。」


酒に酔っている時など暴言を吐いた。

言葉の意味がわからないはずの玲奈なのにそれに反応してますます泣き声を大きくした。

旭子も言葉が分からないはずと強く抱きしめながら

「いいの。いいの。あんな人、本当のお父さんじゃないから。」



今しがた見た、警察に連れて行かれる夢はもっと衝撃的だった。

なぜなら、旭子がよく見る悪夢で、キッチンで玲奈を見つけたのも全く同時に同じ夢を見て自分も目が覚めてしまったからだった。



翌朝、玲奈が起きて来ないので心配になって部屋へ行くと

「体調が悪いから今日も休む。会社にはさっき連絡した。」




旭子は玲奈がお腹にいる頃を思い出した。

少女の頃、明るい未来を空想するのが好きだった旭子だがその頃は悪い未来がどうしても頭に浮かんでいた。


あのまま聡史の元にとどまり失踪していたら。

西葛西のマンションに3人で暮らしている。

失踪しているので玲奈の出生届は出せない。

健康保険証を持たない自分に無戸籍の娘。



誰かに見つかりはしないか怯え、買い物など最低限の外出しかできない。

外で遊びたい玲奈を聡史が平日は帰宅後、近くの公園に連れて行く。

週末は荒川の堤防を聡史とお散歩に行くのが玲奈のお気に入り。

ところが、警察が旭子の居場所を突き止める。

旭子は事件を起こしたわけではないので令状がなければ警察に連れていかれることはない。

それなのに刑事ドラマで犯人を捕まえる様な場面の主人公に自分がなっている。



そんなことばかり考えていた。

「胎教に悪かったのかしら。」

その不安が胎盤を通して玲奈に伝わっていた。

それで旭子が想像した最悪のシミュレーションが今になって玲奈の夢に出てくるのだろうと後悔した。


もし、あの頃に戻れるなら幸せになることだけを考えて、お腹の中の玲奈に伝えたい。

旭子に少女の頃の様な空想力が蘇ってきた。


聡史のマンションに留まり駆け落ちした旭子。

妊娠がわかった時、思い切って会社と夫と父親に手紙を出す。



「子どもが出来たので生まれてくる子の将来のため退職と離婚を認めてほしい。」

ストレートには表現しないが、破綻の責任は会社と夫にもあることを匂わせる。

手紙には正直に今の住所と聡史の名前を記す。


これで捜索願は取り下げられ、離婚届が送られてきて返送する。

住民票を移し民法の規定が過ぎて、聡史と籍を入れる。

親子3人で荒川の堤防を散歩したり自転車を乗り回したり。




旭子は美術館で聡史から言われた言葉を思い出した。

「30年経って、本当の愛と幸福の意味を知る。」


聡史は30年後、玲奈の元に現れた。


旭子と玲奈にほんとうの愛と幸せを伝えにきたのだろう。



「今はショックを与えてしまうけど玲奈がもう少し元気になったら、本当のことを話そう。」

旭子は決心した。




玲奈は体調が悪い中、なんとか頑張って仕事に行っていたが、最後の1週間は残していた有休を消化し他の人より早く会社を辞めた。



なんとか元気になりたいとiPodを取り出して勇気づけてくれる音楽はないか探した。

「そうだ、リトグリ。児島さんが新譜出るたびCDを貸してくれた。」

「君に届くまで」を聞いて思い出した。

「歌詞の内容やジャケ写真から相模川のあゆみ橋あたりの景色が浮かぶ。作曲が水野良樹だし。」


気分転換に堤防を散歩してこよう。

イヤホンをつけたまま、相模川の堤防に向かった。

あゆみ橋より少し下流で小田急の鉄橋がかすかに見える。

堤防に上がり視界が広がった。



高校2年の頃を思い出した。

その頃、突然友人との会話がうまくいかなくなった。

授業についていけず成績が下がった。

不登校になった。



朝、家を出ても駅に行くのが怖かった。

駅と反対の方向へ歩き、堤防にでた。

自宅近くの堤防からは厚木の町も小田急の鉄橋も小さく見える。

代わりに大山とその肩から見える富士山が美しかった。


最初、無断欠席していたのが親に知れ長期欠席した。

単なる不登校からもっと体調が悪化し、母に病院に連れて行かれた。

統合失調症の一種と診断された。



それでも元々、勉強好きだった玲奈は黒板をしっかり書いてくれる教科は丁寧にノートを取って家で見返すと頭に入った。

他の教科も教科書、参考書をしっかり読んで試験の成績は少しずつ元に戻っていた。

出席日数は足りなかったが試験の点数でなんとか卒業出来た。



高校時代を思い出しながら玲奈はイヤホンでリトグリを聞いていた。

「明日へ」「いつかこの涙が」「足跡」「君といれば」

今どきの高校生はこんな歌に勇気づけられているのだとうらやましくなった。

あの頃から2倍の人生を生きてきた自分にも歌詞に込められたメッセージが美しいハーモニーで厚みを増して心に沁みてくる。


「君に届くまで」の世界が自分の生きているこの景色に広がっていく。

玲奈は歌の中の女の子の様に髪留めを外した。

河川敷の強い風に肩まで伸びた髪がなびいた。




4月に入り、玲奈の体調はみるみる良くなった。

天気が良ければ堤防を散歩した。

上流へも下流へもどんどん行って、帰りはJ Rで一駅・二駅も帰ってくることもあった。



日曜日になるとジョギングやウォーキングの人、家族連れが多かった。

5歳くらいの女の子の手を引いたお父さんらしき人とすれ違った。

通り過ぎて、玲奈は思わず振り返った。

玲奈には幼い頃、父親に手を引かれて歩いた記憶はほとんどない。

それなのにその子が自分の幼い頃に見えた。

そして、その子の手を引いている男の人の後ろ姿が聡史に似ていてびっくりした。



玲奈は家に戻ると大きな声で「ただいま」と言った。

「おかえり。よかった。最近、大分元気になったみたい。」

「ねえ、お母さん。卒アル、見せてよ。」

「卒業アルバムは玲奈が欠席で集合写真やグループ写真に写っていなくて、個別写真に生徒手帳の写真使ったのよ。」

「違う、お母さんの。」

「私の?なぜ?」

「児島さんて、どんな人だった?」


旭子はうろたえた。

玲奈が元気になったのでそろそろ、本当のことを話そうかと考え始めていた矢先だったからだ。

「卒アルは実家に置いてある。」

「本当に?」

「そうよ。」

「去年もそうだったけど児島さんの話しすると様子がちょっと変。」

「児島君とは高校時代はほとんど話したこともなかった。印象が薄い人だったわよ。」

「そうか。」



去りながら、玲奈が気づいた。

「今、『高校時代は』って言ったよね。『は』を強く。そうだ、このあいだもお母さん『は』って言った。児島さんも『は』って言っていた気がする。」

「ちょっと待って、家に持って来ていないか探してみる。」

旭子は嘘を言って作戦を練るための時間稼ぎをした。




数日後、旭子は玲奈に言った。

「おばあちゃんち、行こうか。」

「えっ、千葉の?」

「アルバム、見つからなかった。やっぱり実家にあるはず。」


総武線で新小岩手前の荒川を渡るとき、旭子はずっと窓の外の景色を見ていた。

実家に帰省するとき、何度も通ったはずだが、今日は意識して下流に目をやった。

この景色を玲奈と毎日の様に見ている人生があったかも知れない。



玲奈も幼い頃、母に連れられて同じように総武線に乗っていたがゲームに夢中で外の景色は見ていなかった。

今日は母の視線を追って同じ様に荒川を見ると、初めて見るのに何故か懐かしさを感じた。

多分、時々夢に出てくる景色だった。


夕食後、玲奈が風呂に入り髪を乾かし終えてお座敷に入ると旭子が待っていた。

「あったよ。」

「見せて、見せて。」

「うちの組はこのページ。」

「あった!全然変わらない。」


玲奈が指差したのは旭子ではなく、聡史の方だった。


「よくわかったわね。児島君、今もそんなに若く見える?」

「お母さんはどれ?」

「ここよ。」

「昔の県立高校にしてはイケてる校舎ね。」

「えっ?ここ校舎じゃなくて県立美術館なの。私たちの高校は卒業アルバムに自分達でアイデアを出す伝統があって、市内のいろんな場所で集合写真を撮ったの。」


説明しながら、旭子は気づいた。

「美術館だった。やっぱり美術館に縁があった。」



「どんな人だったの?『高校時代は』の『は』って卒業してから会ったことある?」


旭子は翌日、詳しく説明するつもりだったので少し誤魔化して話した。

「卒業10年目の同窓会が中止になって連絡が取れる者で話し合ってミニクラス会みたいなことをしたの。児島君も来たけど、高校時代話したことがなくて話題がなかった。でも会社が割と近いことがわかって。」

「それで、それで。」

「それだけ。」

「なんだ、つまんない。」

「玲奈はそんなに児島君のこと気になるの?」

「嫌だぁ。会社で色々お世話になっただけ。」



翌朝、旭子が出かける支度をしていた。

「もう、帰るの?」

「佐倉に行こう。」

「佐倉?何があるの?」

「玲奈の生まれ故郷に連れていってあげる。」

「え?私、お母さんの実家のここの近くの病院で生まれたんでしょ。そんな遠いところにしか病院なかったの?」

「いいから。とってもいい所。」


佐倉駅で降り送迎バスで川村記念美術館についた。

コロナ対策で入場制限があり予約制になっていた。

32年前は聡史の車で来た。

旭子は事前に電車での行き方をスマホで調べ送迎バスの時刻が分かり、入場の予約もできていた。


広い展示室に他に誰もいない。

絵画、特に現代美術に興味がない玲奈は早く「生まれ故郷」を知りたくて旭子を急かすように見て回った。


最後の方。玲奈にとって訳が分からない大きな抽象絵画の一つに旭子が足を止め、絵の近くまで玲奈を呼び寄せた。


「玲奈、作者の名前見て。」

「ポロック。」

「そう、玲奈の就職先がポロックって聞いて運命だなと思ったわ。全然、知らなかったよね。」

「これが私の生まれ故郷とどう関係があるの?」

「お庭に行こう。」



ベンチに座り、旭子が絵葉書を玲奈に渡した。

「昨日、アルバムと一緒に出てきたの。玲奈を産む直前まで手元に持っていたのよ。」


それは聡史と美術館を巡っていた頃、ミュージアムショップで買った有名絵画のポストカードの一つだった。

旭子は妊娠を知ったとき、ポストカードコレクションの中からこれを見つけ、お守りにしていた。


「レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知。これをお守りにしていた。そして女の子が生まれたらレオナルドから取って玲奈ってつけようって決めた。」

「ふーん。玲奈って、この絵から名付けてくれたんだ。でもこの絵とこの美術館とどういう関係があるの?」

「聞いて、今から大切なことを話すから。」



旭子は「10年後の未来」の話は信じてくれないだろうと、昨夜のミニクラス会と辻褄を合わせ、それ以降はほとんど真実を話した。

これからもずっと一緒に暮らす夫のことはあまり悪く言わないように言葉を選びながら。



「それで、この美術館に来て児島さんとお別れをしたのね。」

「そう、そのつもりだった。でも、名残り惜しくてその夜、児島君のマンションに泊まった。」


玲奈は驚いて大きく目を見開いた。

少し沈黙があった。

今まで隠していたのは深い関係だったからだと納得した。


「それで、玲奈が生まれたの。」

「え?え?どういうこと。」

「玲奈の本当の父親は児島君なの。」




翌日、自宅に戻った玲奈は探し物をしていた。


「あった。これだ。」

以前、聡史からもらったクリスマスカードだった。

その年のバースデーカードと同じ様にメッセージ動画を送るものだった。

「尺も長く高画質でインスタやツイッターには貼れません。」

LINEのIDが書かれていた。



玲奈は連絡先の交換、ましてLINEの交換はできないと週明けに聡史に謝ろうとした。

「あの、お気持ちは大変ありがたいのですが、」

うまく言葉が続かないところに聡史が口を開いた。

「あれ、スルーしちゃって全然構わないから。自分でも厚かましいと思ってたし。」



聡史が実の父親だと知って、とにかく聡史と連絡が取りたくなった。

聡史は玲奈の母親が旧姓・工藤旭子と言ったとき、玲奈の生年月日を確認した。

そして、翌月には突然、会社を辞めた。

急に会社を辞めた理由や聡史も自分が娘であることに気づいたのか確かめたかった。


IDを入力して友だち追加した。

しばらく何の反応もなかった。

お風呂から上がりスマホを見たらバッジがついていた。


「こじまさとしさんが友だち追加しました。」

玲奈は遅れてまずかったと思いながら、何から切り出すか迷いながら送った。



いきなりすいません

児島さんですか?向井です




向井さん?うれしい

元気?




はい

私も会社辞めました




そうなんだ

急にどうしたの?




古い話で恐縮ですが

児島さんから送っていただくはずだった

クリスマスの動画

送っていただけませんか?




クリスマス?

今、4月だよ




大丈夫です

児島さんが折角準備して下さったのに

あの時、答えられなくてずっと悔いが残っていました




しばらくして動画1本とYouTubeのリンクが送られてきた。


動画は聡史がリトグリのアカペラのクリスマスソング動画4本を編集でつないだものだった。



YouTubeのリンクはTHE FIRST TAKEのリトグリ「愛しさをリボンにかけて」だった。

クリスマスにはぴったりだと思い聡史はどうしても玲奈に届けたかった。




玲奈は「愛しさにリボンをかけて」を聞き、大好きなパパに似ている本物のサンタクロースからのプレゼントを貰い損ねていたことを後悔した。




その後、玲奈は聡史とLINEしたが、どうしても本題を切り出せなかった。

LINEのような短い言葉だと真意が分からない。

やはり顔を合わせ、直接話さないと相手の感情が分からない。

重い話を玲奈から切り出す自信がなかった。



会社で雑談していた様にリトグリの話題になった。

新曲の「心に空を」が先行配信されていて聡史がリンクを送って来た。

玲奈は初めて自腹でダウンロードしてiPodのライブラリに追加した。



この歌を何度も聞いていて決心がついた。


「とにかく一回、会ってみよう。」

聡史はいつもわかりやすい様に話しかけてくれた。

何か切り出せば、察して話を持って行ってくれるはず。





いつか相模川の川べり

お散歩しませんか?




境川?




どうして境川なのですか?




JR町田駅前の境川沿いに

向井さんと行きたいところがあって




ちょっと待ってください

調べます





玲奈はGoogle Mapを開いた。


「町田駅、川なんてどこにあるの。小田急じゃなくてJRの方か。」

何があるか分からなかった。


航空写真を拡大してもビルと駐車場。

川にかかる橋の真ん中にピンをたてストリートビューに切り替えた。


「何、これ?ホテルばっか。」

「面と向かっては下ネタを言わない人なのにLINEだとこんなこと送ってくるのかしら。」


どう返そうか悩んでいたら



ごめんなさい

冗談です

せっかく連絡取れるようになったのに

ブロックしないでください( ; ; )




謝っているスタンプが3つくらい送られてきた。


玲奈はまだ実際に会って話をどう切り出すか悩んでいた。

セクハラトークの返しに衝撃トークを返せば一気に核心に迫れると思いついた。




行ってもいいけど

そんな所

実の父親とは入れません




しばらくして、驚いているスタンプが7個くらい来た。




やっぱり相模川

小田急線の鉄橋近くがいいですか?




「会いたい人に、ラララララララ」


玲奈は口ずさみながら聡史と待ち合わせのやりとりをした。








翌朝、出かける準備をしているとスマホが鳴った。

L I N Eを見ると聡史から画像が送られていた。

生後まもない玲奈が、旭子に抱かれている写真だった。



 完 


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