64 冷たい雨
町はずれにあるアルノーンの森に雨が降り始めた。
これまでこの地に何度も降った雨だが、この日降り注いだ雨は複数の人達にとって、多くの意味をもたらす雨となる。
雨に濡れた木にもたれかかって静かに眠る一人の少年。
頭に被ったバンダナのような布には赤黒い色が染みわたっている。
額と鼻からは赤い液体が伝い、地面に垂れ落ちた血が雨と混じり、もはや何が落ちたのかさえ分からないほどの量の雨水が地面を浸食していった。
「お前さんの相棒、なかなかいい腕だったよ」
そう告げたのは少年を背にしてたたずむ坊主頭の男。
上半身裸体の姿で雨を素肌に浴びながら近くに脱ぎ捨ててあった鎧を手に取ると、身体にカチャカチャと音をたてながら鎧をがさつに着け直していく。
最後の仕上げに《猛牛面》を頭に被り、肩越しに振り向いた《猛牛面》の大男が少年のほうを一瞥する。
少年のほうはピクリとも動かなかった。
「けれど、残念だったねぇ。
俺のほうが、ほんの少しだけ強すぎたみたいだ」
* * *
無事にダンジョンから脱出したリクトとエレウだったが、考えが甘かった。
「……エレウさ、帰り道ってわかる?」
訊かれたエレウは丸い顔をぷいぷいと横に振った。
「だよねぇ。
あの時はルースさんと一緒に来たからここまでたどり着けたけど、自分一人のスキルじゃとてもドーヴァーコーストまで戻れそうにないな……」
ちなみにリクトの肩の上はエレウ専用の止まり木と化している。
最初の頃はリクトのもみあげを手綱と勘違いしたエレウが引っ張り回したおかげで拷問並みの激痛を味わった。
走ると当然揺れるので、そのたびに体勢がズレたエレウがリクトの頬を爪で引っ掻くこともしばしばあった。
しかし、現在はリクトの耳元に常時浮遊している小さな緑色のリングがエレウ専用の手すり、あるいは吊り革のような役割を果たしてくれている。
またフードを被った状態でもリングは浮遊状態を保ってくれるので、エレウと旅するうえではめちゃくちゃ重宝している。
このリング、じつはドーヴァーコーストに着くまではひんぱんに装備していたが、定期的に外して魔力をリングに溜める必要があったらしく、それを知らずに常時つけっぱなしにしてたせいで町に着いた途端リングが外れて使えなくなってしまった。
そして魔力の充電がようやく終わり、また使えるようになったのだ。
『これでエレウちゃんも安心してリクト様の肩に乗れますね』
この飾り道具をくれた時のモモカさんの微笑みが頭の中に浮かぶ。
モモカさんいわく、このリングは妖精にしか触れることができない素材で作られているのだそうだ。
モモカさんには感謝しかない。
(帰らなきゃ……一刻も早く!)
度重なる連戦と緊張の場面の連続で消耗し、小さな種火になり果てていたものがそのたった一つの強い意志に突き動かされ、雨でぬかるんだ地面を蹴る力がより一層強くなった。
しばらく進んでいくと、何本目かの木々を抜けたところで、茂みの向こうに人の気配がした。
声を出すのを一瞬ためらったが、向こうのほうから先に反応があった。
その直後、茂みを一閃して短剣を構えた若い女の弓兵があらわれた。
「……もしや。リクトさん、でいらっしゃいますか?」
* * *
雨が降り続けるなか、リクトとエレウはなんとかドーヴァーコーストに帰り着いた。
思えばここに来たのも数十年ぶりって気がする。
実際の日にちはそんなに経っていないが、白い建物が立ち並んだ町の景色を眺めていると、まるで遠い故郷に戻ってきたかのような錯覚すら覚える。
「雨で地面がぬかるんだせいか、到着予定時間がだいぶ遅れてしまいました。
誠に申し訳ないです」
女兵士はぺこりと頭を下げた。
町まで二人を導いてくれた親切なお姉さんの名前はユレイ・アルフォスター。
バイセルンでお世話になった黎明騎士団の人だった。
そして、現在は不知火さんがギルドリーダーを務める《影繋ぎ》と協力体制にあるようで、不知火さんとはその際に何度か話す機会があったらしく、それ経由でリクトのことも知ったようだ。
「あそこにダンジョンから脱出した人たちを治療してる施設があります。
うちの団長もきっとそこにいるはずです」
町に連れ戻してくれたユレイさんにリクトがフードを脱いで礼を告げる。
すると、ユレイさんはフードを脱ぐと、長い髪を後ろに束ねた黒い紐のようなものを勢いよくほどいた。
その時、彼女の後頭部から尻尾のように細長く垂れていた白茶色の長い髪がバサッとマントのように広がり、キリっとした兵士から一人の女性へと転じる。
その様相の変化にリクトはどきりとした。
「いえ」
ユレイさんはそう言ってリクトに背を向けると、背中越しにちらっと振り向き、意味深げに一言添えた。
「貴方に非はありません。
ダンジョンではさぞや大変な思いをしたことでしょう。
ごゆっくりこの町でお休み下さい」
そう言い残して、彼女は市場があるほうへ去って行った。
(あれ。案内はしてくれないんだ……)
リクトは彼女が残した言葉に引っかかりを感じながら、彼女が教えてくれた施設へと向かった。
* * *
そこは町の広場に白いテントのようなものがいくつも設置されている場所だった。
俗に言う野外病院ってところか。
どこのテントから覗いて見ようかしばらく考えあぐねていると──
「少年~!」
呼ばれたほうに顔を向けると、並んだテントの一つから見知った人物が出てきた。
不知火さんだ。
「こっち、こっち!」
手招きする不知火さんのもとへ駆け寄った。
すると、不知火さんはリクトの右腕を掴んでグイッと引っ張ったかと思うと、次の瞬間リクトは不知火さんの腕の中にギュッと包み込まれた。
「よくぞ無事に帰ってこれた! えらい! えらいぞ~!」
わしゃわしゃと髪をかき回され、不知火さんの温もりに身を委ねたリクトだったが、不知火さんに掴まれる寸前、リクトからサッと離れていたエレウが、不知火さんの顔の横に浮遊しながらジトリとリクトを睨んでいたので、リクトはあわてて不知火さんからサッと離れた。
「それより! 他の皆は?!」
不知火さんはリクトが自分の身から離れたことに残念そうな顔をしながらも、こくんと頷いた。
「みんな無事だよ」
けれど、不知火さんはどこか満足していない様子だった。
「負傷してる者もいたけど、治療魔法でなんとか間に合ったケースがほとんどだ。
まあ、後遺症が残る者も少なからずいるが」
そこでいったん言葉を切った不知火さんは複雑そうな表情を浮かべた。
(自分にもっと力があったら)リクトは顔をうつむくと拳を強く握りしめた。
「──っ!」
リクトが顔をあげると、床にいくつも敷かれた茶色い布の上に横たわる沢山の人々の中から見知った人物が目に留まった。
リクトはその瞬間、不知火さんの存在を忘れ、脊髄反射でその人物のもとに駆けよった。
そこに横たわっていたのはクレンス少年だった。
彼が頭にいつもかぶっていたバンダナのような布はどこにも見当たらなかったが、彼の横顔を一目見ただけでクレンスだとリクトは直感した。
「クレンス!」
呼ばれてクレンスはぴくりと反応を示した。
「遅くなって本当にごめん!
でも……なんとかこうして無事に再会ができて、ほんとよかった」
安堵の笑みをこぼしたリクトがクレンスに声をかけると、クレンスはゆっくりとこちらに身体を向けた。
しばらくリクトの顔を訝しげに見つめたクレンスだったが、口を開くなりクレンスは予想外の言葉を吐いた。
「兄ちゃん……、誰?」




