57 意外な切り札
「──始め!!」
審判のかけ声とともに試合が始まった。
アイシャは事前に立てた作戦通り、槍を顕現してすかさず武器を構えた。
「おじさんは……悪い人なの?」
少女は精一杯の勇気を振り絞って言葉を吐いたが、喉から出た声は緊張と不安と恐怖で震えていた。
相対して立つ《北の猿男爵》は肩をすくめた。
「きみにはどう見えるんだい?」
アイシャは相手の出方を窺いながら唇を開く。
「……悪意や邪気は感じない」
アイシャからの評価に《北の猿男爵》は頷き、両手を広げてみせた。
「いい人だったら戦いたくない。
だけど……」
「?」
途端、《北の猿男爵》は小首を傾げた。
「わたしがやらなきゃみんなが危険になる。それだけは──」
アイシャは杖を握る力を強め、戦う意志を瞳に刻む。
「絶対にいや!」
床を蹴り、突進を仕掛けるアイシャ。
「まってくれ!!」
「……?!」
ぴたりと足を止めるアイシャ。
槍の矛先が《北の猿男爵》の仮面に触れる。
「おおお願いだ。一度落ち着いてくれ。ボクに戦う意思はないから!」
「えっ」
彼の必至そうな様子にアイシャは槍をゆっくりとおろす。
途端に会場は静まり返った。
「どうした? なぜ急に止まったんだ?」
「なにか話してるようだけど、全然聞こえませんわ」
観衆は観劇用双眼鏡を覗き込み、ステージ上の動きを必死に探ろうとする。
「ボクはね?
こんな場所にいるから信じてくれないかもだけど、本当はこういった非人道的なゲームは嫌いなんだ」
「嘘!」
ぎろりと睨むアイシャ。
《北の猿男爵》は「嘘じゃないよ」と言って、ステッキを瞬時に手元から消してみせた。
「人殺しなんて野蛮すぎる。とても愚かな行為だ。
ヒトも魔法使いもみんな神の生き写しであり、人類はいわば兄弟。
命の価値は平等であるべきだとボクは思っている。
だから──」
「じゃあ、どうして……」
「え」
うつむいたアイシャからこぼれた声に《北の猿男爵》は言葉を切り、アイシャの言葉の続きを待った。
「それじゃあ、どうして人を殺す場所に貴方がいるのッ?!」
顔をあげたアイシャの表情は憎しみで満ち溢れていた。
彼女は槍の矛先を相手に向け、両者のあいだに再び緊張が走る。
すると、《北の猿男爵》は苦笑いして再度肩をすくめた。
「ボクがどう動いたって無駄なんだ。
ボクみたいな元農奴の下級貴族じゃ、この野蛮なゲームは止めることはできない。
だったら、できるだけのことをしようと思った」
途端、彼はコートから一枚の紙きれを取り出した。
一瞬ビクッとするアイシャ。
しかし、その紙きれはアイシャが知る紙きれとは少し違うものだった。
「絵が……動いてる」
アイシャは《北の猿男爵》が見せた紙切れに目が釘付けになった。
紙切れのなかにはアイシャと同じ年頃の少年少女が整列してこちらをじっと見つめる様子が描かれていた。
みんな着飾った格好を身にまとっており、生き生きとした表情をしている。
しかし、絵と表現するにはあまりに生々しく、まるで本物の生きた人間のようだった。
「きみの暮らす地域ではない代物のようだね。
これは目に移る景色を媒体に写し取る魔法だよ」
そう言い、彼は魔法の切り絵をコートにそっとしまい、話を続けた。
「この子らはみんな孤児でね、虐待を受けて死にかけた子もいた。
そういう子達を引き取って、我が子同然に愛し育てた。
だけど、ボクが保護できた子供はほんのひと握り。
世界には辛い環境で暮らす子供がたくさんいる。
ボクはね、できうる限り多くの子供を助けたいんだ。
お金が許す限りだけどね。
その過程でこのゲームの存在を知ったんだ」
その後も彼は今まで行った奉仕活動を語り続けた。
その行いは元・貧困育ちであったアイシャが日頃から夢みたものだった。
幸せの暮らしを与えるためにやってきた白馬の王子様の行いを体現したような理想の大人のヒト。
アイシャはそう思った。
「このゲームに敗けてしまった子供達をボクが買い取って、平穏な暮らしを与えてあげる。
これが、今のボクにできる精一杯だ。
だから、お願いだ!!
ここは大人しく“敗け”を宣言してほしい。
絶対にきみを傷つけないと約束するッ!」
「おじさん……」
アイシャの顔から戦意がポトリと抜け落ちていく。
「そんなヤツの口車に乗っちゃだめ!!」
途端、ステージ外からルースの声が空気を裂いてこだました。
「なに言ってるのかは全ッ然分からないけど、騙されないで!!
優しそうな顔してるヤツほど信用できないんだから!!」
ルースが叫ぶなか、ふとアイシャの脳裏にある記憶が蘇った。
その記憶ではアイシャがまだ三つか四つの年頃だった。
北国で育ったアイシャは踊り子として日々生計を立てていた母親と二人で暮らしていた。
母親は男遊びが激しく、育児放棄することもほとんどで、母親からの愛情を受けて育った記憶はアイシャには無い。
毎日のように知らない男を連れて来ては屋外に追い出され、事が終わるまで雪遊びをして過ごしていた。
そんなある日、いつものように雪遊びをしていると、一人の若い男がアイシャのそばに歩み寄り、アイシャと同じ姿勢でしゃがみこむと、優しく微笑んだ。
その後、若い男は家の中に押し入り、アイシャの母親が連れ込んだ男を強引に追い出すと、母親と口論になった。
アイシャは寝室で激しくもめ合う二人が吐く言葉によって、真実を知った。
その若い男性こそが、アイシャの実の父親だったのだと。
『二度と顔を見せないで!!』
結局、彼は母親の気の強さに敗け、家を出た。
彼は立ち去る際に一度だけ振り返った。
男はアイシャの顔を哀しげに見つめ、その口元は震えていた。
なにか言いたげの様子だったが、しかし、彼は結局なにも口にすることはなく、彼女から背を向けると、雪が舞い散る夜の闇に身を投じ、アイシャのもとから去って行った。
アイシャはその夜のことを何度も夢に見る。
もしも、あの夜。
その若い男がアイシャの手を掴み取り、母親の魔の手が届かない遠く離れた土地へ連れて行っていたとしたら、自分の人生はどう変化していただろうかと。
もしもあの頃の自分に彼の手を掴む勇気があったらと。
そして、時間は今に巻き戻り……
14歳になったアイシャは肩越しに振り返り、ルースに告げた。
「この人のこと……信じてみたい」
「な、なに言ってるの?!
アイシャちゃん、そいつは“敵”なのよ!?」
「分かってます」
そう言い、アイシャは顔を正面に戻すと、《北の猿男爵》にきりっとした眼差しを向ける。
「『自分から信頼できると感じたヒトを見つけたら、絶対にそいつの手を離すな』
……親に捨てられ、孤児になったわたしを育ててくれた方が言った言葉です。
わたしもその方と同じようなことをしてみたくなったんです」
「アイシャちゃん……」
ルースはこれ以上の深入りは無駄だと悟った。
目の前の子供はわずか数分のあいだに大人へと成長していたのだ。
「それじゃあ、敗けを宣言してくれるかい?」
こくっと小さく頷くアイシャ。
握りしめていた槍を消し、審判に身体の正面を向けて、降参の言葉を吐きかけたその時
ザクッ。
突然何かに背中を押され、空気を引き裂くような音がした。
ドタッと床の上に突っ伏した状態で倒れたアイシャ。
熱を帯びた痛みが背中の中心からじわりじわりと広がっていく。
床面がアイシャの身体から零れ出た液体で赤く染まっていく。
「きみは純粋無垢で、とても優しい子だよ」
近づく足音。
痛みに耐えながらアイシャは頭だけを動かし、近づく人影に目を向ける。
「でも、大人のボクから一つだけ助言してあげよう」
彼女の瞳には、アイシャが信じた男の姿は映っていなかった。
そこにはすべての指に鋭い鉤爪を装着した悪魔が、アイシャを愉快そうに上から見下ろしていた。
「優しい子ほど、馬鹿を見るんだよ」
アイシャを見つめる彼の眼差しには先刻の温かみなど欠片もなく、濁りきったどす黒い目が仮面の奥から見て取れた。
「こぉぉぉんの腐れ野郎がぁあああああ!!!」
ルースの憎悪に満ちた怒号が会場に響き渡る。
「今更なにを言ってるのきみ」
含み笑いしながら《北の猿男爵》はルースに顔を向ける。
「ここは殺し合いの場だよ?
騙されるほうが悪いでしょうよ。クハハハハ!!」
「騙した……? じゃあ、さっきの……子供たちは?」
「あー、アレね」
そう言い、《北の猿男爵》はルースから視線をはずし、冷淡な眼差しを今度はアイシャに戻した。
「あれはボクの愛に満ちたしつけによって、立派な家族になった選ばれし子供たちだよ。
毎日ボクが愛を与えてあげる代わりにあの子たちも毎晩ボクに愛を捧げてくれるんだ♪
これこそ究極の愛だよねン♪」
《北の猿男爵》はそう言い、仮面越しにウインクしてみせた。
「次から次へと口を開けばゴミカスの発言ばかり……」
もう耐えられないとルースは錫杖を構え、魔法を撃ち放つ態勢をとった。
「──わかった」
ふと、少女の声がした。
《北の猿男爵》は声の主に視線を向ける。
床の上に倒れていたはずの声の主は負傷した身でありながら、毅然と立っていた。
「おじさん、わるいヒト」
そう言い放ったアイシャの顔は血だらけだった。
床に顔面を打ちつけた事により、血が額から汗とともに滴り落ち、アイシャの片目を塞いでしまっていた。
アイシャは唯一開くことのできる片方の目で《北の猿男爵》を鋭く睨んだ。
「わるいヒトになら、遠慮なくぶつけられる」
アイシャはそう告げると、なにやら呪文のような言葉を口ずさみ始めた。
「おや? 戦う気ですか?
ボクとやり合える魔法を出す力など残ってるはずが──」
瞬間、アイシャは顕現した槍の矛先を天井に向け、唇を開く。
「おいで。
──《殺戮の魔犬》」
アイシャが唱えたその刹那、天井に魔法陣が刻まれた。
その中心部から翼を生やした巨大な獣が突如として舞い降り、観衆に向かって咆哮をあげる。
獰猛な犬の姿をした“それ”を目撃したラヴィナスは黒い眼を見開き、動揺の声を漏らした。
「召喚獣だと……!?」
観衆がどよめくなか、ルースはにんまりとした笑みを浮かべつつ、どや顔で言った。
「ここからが本番。
あたし達があんたらを“狩る”番よッ!」




