38 春の黄昏、夏の午後
海辺の町ドーヴァーコーストに涼風が吹き渡り、町の人々に夏の朝を告げる。地面には昨日降りしきった雨が水たまりとなっていくつか残っており、それを思わず踏んでしまった今日一番の不幸者がちっと舌打ちする。嫌悪に満ちた顔でその不幸者は水に浸かった片足を持ち上げた。
「最高の一日だな」
彼は水たまりに向けて心にもない言葉を言い放つと、濡れた靴を左右に振り乱す。彼の横を通る通行人が次々と眉をひそめ、厳しい視線を彼に向けるが、当の本人は気にするそぶりを見せず、とある一軒の建物へと赴く。
* * *
彼が赴いた冒険者ギルド《三脚天使》には朝早くから行列ができていた。
《三脚天使》の建物はコの字型になっており、建物に囲まれた中庭は季節によって木々の色合いが変わる。元々は酒のたしなみとして設けられた空間であったが、冒険者が多くなった現在は新人冒険者を教育する広場になっている。
早朝にも関わらず、多くの新人冒険者が担当の教育係と共に様々なスキルを学ぶなか、中庭の一角では幼い男の子が真剣な顔つきで目の前の小石をじっと見つめていた。
「いしにねむりしせいれいよ、われにこたえ、われにちからをかしたまえ。《礫の戯れ》!」
男の子が呪文を唱えた途端、礫が小刻みに震えだし、フワリと中空に浮遊する。
緊張でこわばった男の子の表情がみるみるうちに緩んでいき──
「やったぁ!」
男児は地面を何度も蹴って興奮を昂ぶらせた。その様子を傍らで見守っていた壮年の男が誇らしげに鼻を鳴らし、男児に拍手を送る。
「やればできるじぇねえか。これで簡易魔法はマスターしたな」
そう言い、腕組をして称賛する壮年の男に対し、男の子は照れを隠すように鼻をこすりながらへへっと笑う。
「もっとジョウキュウの魔法おしえろよ! それを覚えて、わりぃーヤツをおれの魔法でコテンパンにしてやるんだ!」
すると、壮年の男は目を大げさに見開き、「おいおい」と言って腰に手を当てながら含み笑いを浮かべた。
「たったこれだけの魔法ができるようになったからって図に乗るんじゃないぞぉ~? 上級魔法を教えてやれるのはお前さんが基本的な魔法をひと通りできるようになってからだ」
そう言われ、きょとんとした男の子だったが、一時の逡巡の後、気を持ち直し、今度は上目遣いで壮年の男を睨んだ。
「きほんてきな魔法っていくつあんの?」
男児にそう訊ねられた壮年の男は愉悦に満ちた面持ちで目を閉じると、きっぱりと男児に告げる。
「全部で260種類だ」
「ゲッ。そんなの覚えてられっかよ!」
男児は壮年の男を軽蔑するような眼差しでジトリと睨み、口を酸っぱそうに歪めた。
「坊主、魔法ってのはなぁ、奥が深いんだぞ?」
壮年の男は悟りを開いたような面構えだったが、その胸中は真反対のものであった。
(この坊主、思ったより呑み込みが早いな。これだと俺が教えてやれるネタがもうじき尽きちまうぞ……)
壮年の男は大人の威厳に満ちた表情を保持しつつ片目だけパチリと開き、窓の向こうの席に腰かけた桃色髪の着物少女に魂を込めた視線を送る。
(モモカ先生! そろそろ代わってくんないかな?!)
すると、男の視線を感じ取ったのか、少女が男のほうに顔を向けた。まるで子供のように愛くるしい瞳で少女はこちらを見つめ、白い歯を唇からそっと覗かせ、穏やかな微笑みを返した。
「おじさん、なにニヤついてんの」
「ぬはっ!!」
はっとして壮年の男は我に返り、気を取り直して魔法の指導を再開した。
心なしか、先ほどよりも指導の掛け声に気合が入ってるなと感じた男児が怪訝な顔つきで小首を傾げるその一方で、二人の様子を温かい眼差しで見つめるモモカのもとに女性店員がしたり顔で歩み寄る。
「打ち解けたみたいね」
女性店員が運んできた珈琲入りのカップを桃色髪の着物少女は礼を告げて手に取り、二人のやり取りを見つめながら目を細めた。
「ここに至るまで時間はかかりました。最初の頃は目も合わせてくれませんでしたし」
「やっぱり、キッカケはあれか」
隣に腰かけた女性店員の問いかけにモモカが小さく頷く。
今からさかのぼること三日ほど前。マーテルが隣町から傭兵団を連れて店に戻ってきた。
後日、ピスケの父親の捜索が始まったが、それまでに何度か降った激しい雨の影響により、足跡は流されてしまっていて、その行方は掴むことができずにただ時間だけが空しく過ぎていった。
……そんなある日、事故が起きた。
それはモモカが《三脚天使》の店で使う食材を調達した帰り道の出来事。
モモカが通りがかった二階建ての家屋から女性の悲鳴が突如として聞こえ、声の源にモモカが視線を向けると、建物の二階から落ちる女の子の姿が彼女の目に飛び込んだ──。
それから程なくして、通りが騒がしくなり始めると、寝室で寝ていたピスケが目を覚まし、通りが見える窓を開けた瞬間、それまで頭を支配していた眠気が一気に吹き飛ばされた。
通りに建ち並んだ一軒の建物の周りには人だかり。建物の壁にはみっしりと植物が張り巡らされていた。絡み合ったツタは通りに向かって飛び出しており、受け皿のような形になったツタの上には一人の女の子が座り込み、泣きじゃくっている。
その異様な光景にピスケの思考が停止していると、今度は通りに飛び出ていたツタがひとりでにうねうねと動き、下へ下へと伸び始めていく。
ツタの塊は人だかりのなかにまで伸びると、受け皿に乗った女の子を地面に降ろした。
『カヤ!』
すると、女の子の親らしき二人の男女が女の子のもとへ駆け寄り、女の子の体をぎゅっと強く抱きしめた。
その直後、役目を終えたかのようにツタはざわざわと音をたててちぎれ、バラバラの葉となって空に舞っていく。
『あの、大丈夫でしたか?!』
そこへ声をあげて桃色髪の着物少女が女の子のもとに駆け寄った。
その途端、それまでの状況を見届けていた通行人が今度は着物少女の周りを一斉に取り囲んだ。
『あんたの魔法見てたぜ。すっげえな!』
『あんな一瞬で出来る芸当ただ者じゃない! 一体どこから来たんだい?』
『わたしにもその魔法を教えてちょうだい!』
突然、注目の的となった桃髪の着物少女は困惑の表情を浮かべながらこの場をどうにか収めようとするが、一向に収まる気配はなく、
『今すぐ町長を呼んでこい!』
そしてその後、モモカの勇気ある行動を称えたパレードがおこなわれる事となる。
その一部始終を目に焼き付けたピスケの瞳は眩いばかりの輝きに満ち溢れた。
……この出来事が、モモカに魔法の指導をお願いするきっかけとなった。
「──子供は元気が一番ですから。あの子が笑顔を取り戻してくれて、ほんとうによかったです。でも……」
ピスケの様子を窓越しに見守り、仄かに笑顔を見せたモモカだったが、その瞳は寂しげな色をしていた。彼女の含みをもたせた言い方に女性店員は何かを察して遠くを見つめる。
「心配だよね。お連れさん……あのまま出て行っちゃったきりだし」
「はい。──って、……え!」
途端に顔を真っ赤にしてきょどる桃色髪の少女。その反応に女性店員はくすりと笑う。
「言わなくても顔に書いてあるわよ。
……あたしもその気持ちわかる。男ってさ、考えなしに突っ込んじゃうのよね。心配してるこっちの気持ちも知らずにさ」
「もしかしてマーテル様のこと、ですか」
「ええ……、え!」
ぼんやりと答えた女性店員の顔が途端に紅潮し、素っ頓狂な声をあげる。あまりに勢いよく背筋をぴんと伸ばした彼女の反応に今度はモモカが「顔に書いてますよ」と言ってふふふと笑った。
「ち、ちがうわよ! あんなひょうちくりんの男なんて、こっちから願い下げだし!」
そう言いきった彼女だったが、途端に萎れたような顔でポツリと言葉を付け足す。
「それに彼、結婚してるし」
モモカはマーテルと初めて話した時の事を思い出し、「そうでしたね」と柔やかな笑みで返した。
その後、女性店員は小噺を沢山持ち出してきた。そのどれもがマーテルの話ばかりで、
『あーみえて7人の子供がいるのよ』
『若い頃はサーカス団の座長をやってたんだって』
『ティムール人とジャナール人の血が混じったハーフなのにどっちの国の言葉も話せないのよ~! 可笑しいでしょ』などなど……。
このまま彼女を放っておくと湯水のようにエピソードが尽きないだろう。モモカは困った表情を浮かべつつも最後まで彼女との談笑に身を任せた。
* * *
「人情のある方なんですね、マーテル様」
「え?」
女性店員はふいに豆鉄砲を喰らった鳩のような顔でモモカを見やる。
「会って間もない子供のために身体を張って、自分のできる限りのことをやり遂げようとする。立派な方です。とても」
モモカは口を緩ませてそう言いながら、カウンターのほうに視線を移すと、そこに立つ彼の幻影を想像し、尊敬の念を抱いた。
するとモモカの目線を追ってカウンターのほうを見た女性店員が、とろんとした目で唇を開く。
「その正義感が、見てるこっちを時々ヒヤヒヤさせるんだけどね」
「ふふ、やっぱり好きなんですね」
「だから違うってば!」
直後、二人の会話を破ってスイングドアがこじ開けられたかと思うと、投げ飛ばされた大柄の男が二人の横を突っ切り、酒場と冒険者ギルドの受付カウンターの境にある柱に激突した。
「「っ!?」」
モモカは突然の出来事にびくりとして席を立ち、口を両の手で塞ぎながら呆然とそれを見つめる。
二秒ほど遅れて女性店員が駆け寄り、声をかけると、
「俺に喧嘩を挑むんだったらそれなりにまともな力をつけておけ」
続いてスイングドアを開け放ち、来店した小柄の男。
灰色がかった短い髪に褐色肌と顔の下半分を覆う鉄製の仮面。
顔立ちは幼いが、その眼光は野性の狼のように鋭い。
革鎧を着込んだその男の背中に背負った剣は鞘に収まったまま、主が携えるその時を待ちわびて鞘のなかで眠りについている。
……小柄の男は周囲の視線に目をやると、ため息まじりに頭をかいた。
「これじゃあ、こっちが弱い者虐めしてるみてえだな」
「ヴェルカン様ァ~!」
途端、甲高い男の声と共に機械仕掛けの鳥がスイングドアの隙間を縫って入って来た。黄金に染まったその奇怪な鳥が小柄の男の肩に舞い降りると、肩の上で小躍りしてみせた。
「さすがヴェルカンの旦那ァ、お見事デス~! 剣無しでもお強いだなんてイカしやす♪」
「お前はその嘴を一生閉じてろ」
「貴方は!?」
目の前にあらわれた人物にモモカは驚きと動揺が入り混じった声をあげる。
二人の視線がぶつかり、お互いの声が同時に重なった。
「どうして貴方がこんなところに」「なんでお前がこんなところにいやがる?」
二人の鋭い視線が静かにぶつかり合う。場がピリッとした空気に包まれるなか、その様子を傍から見物していた女性店員が、じとりとした目つきで眉をぴくりとさせた。
「こ、こんなところって」




