35 怪物の王
──幼き頃の私にとって、『夜』というものはとても恐ろしい時間でした。
窓の向こうに見える森が、聞こえる野生動物の唸り声が、風のざわめきが、それが窓をしきりに叩く音が、外から聞こえるあらゆる音に全身が恐怖で震え、穏やかに眠る事ができませんでした。
そこに何かがいる──と信じるに足る根拠は無くとも、本能でそう感じたのです。
得体の知れない人知を超えた存在の“気配”を。
……しかし、時と歳を重ねていくと知識が未知の領域を詳らかにしていくにつれて幼少の頃に感じたあの胸をざわつかせた恐怖心は次第に錆びて剥がれていきました。
未知のものが学者たちの見識や検証によって解明される瞬間を目の当たりにするようになってからはあれほど恐ろしかった夜に浪漫を求めるようになり、夜を愛するようにさえなってしまうほどになっていました。
ですが、それから長年の夢であった学者になれた私に新たな敵が現れました。
私の学説に異議を唱える者、私を愚弄し嘲笑う者達から受ける様々な精神的疲労が蓄積し、仕事に身が入らないほど気を病んでしまっていたのです。
そんなある日、私は友人からの誘いで行った酒場で、ある男と出会いました。
彼の話によると、表の世界で溜め込んだものを吐き出せる会員制のクラブがあるとか。
それが、『死の遊戯』に私が出会ったきっかけです。
それからというもの、秘密の遊戯に参加する事が私の日々の生きがいになっていました。
人面月の仮面を初めてつけたあの日のことは今でもハッキリと覚えています。
初めて鼠を殺した感覚も、死体の手触りも、昨日の出来事のように思い出せます。
……小心者だったあの頃の自分とは違うのです。
私は絶対的恐怖を与える者。
私こそが、“夜の怪物”そのものなのだから。
時を戻すとしましょうか。
つい先ほど、《運営》から『新たな鼠の巣を発見。ただちに指定した座標へ向かい、巣を壊滅せよ』との知らせを受けた私は誰よりも先に巣の駆除と報酬の上乗せを頂こうとして飛んでやってきたのですが、どうやら他の方々も私と考えてる事は同じだったようです。
……金の亡者、ってやつですね。
すると、蒼髪の鼠が何やら呪文のような言葉を詠唱し、銃弾を床に撃ちつけました。
最後の悪あがきといったところでしょうか。
途端、弾痕から黒い煙の柱が数本噴きだし、その中からぼろぼろのローブを着た老人が忽然と現れ、私はたまらず吹き出しました。
「フッ! なにを出すのかと思いましたが……老いぼれの鼠など、ここでは何の使い物にもなりませんよ」
絶体絶命の窮地に追い込まれた鼠というのは何を考えてるのやら。
「そこをどいてもらっていいですか? おじいさん」
狩人の一人が穏やかな口調で老人に話しかけます。
ですが、老人は目も口も開く事はなく、石のように動く様子がありません。
「チッ! 『そこどけ』っつってんだろ。ジジイ!」
一転、それまで穏やかだった狩人の態度が豹変し、老人をひと蹴りしました。
否──ひと蹴りしたつもりでしたが、空振りに終わります。
老人は霧散し、忽然と消えたのです。
「──なっ!?」
私の周りから動揺の声が漏れたその時、
突然、ポタポタと水滴が突如として降り始めました。
他の狩人たちも私と同様、呆然とした様子で天井を見上げています。
「雨?」
黒き仮面を被りし貴婦人が呟くと、傍らに佇んだ大柄の仮面男が自身の手を見やりながら「いや」と返しました。
「ただの雨ではない……黒い」
男が手に落ちた水滴を指で擦ると、彼の指先は真っ黒に染まっていました。
「ここは迷宮の中よ。雨が降るなんてありえないわ。ましてや黒い雨だなんて」
若い娘の狩人がそう言うので、天井を見やりながら「気味が悪いですねぇ」と私は言葉を返しました。
「……それ、心当たり、ある」
ふと後ろから先ほどよりも一段と若い娘のたどたどしい声がして、くるりと振り返ると、私が向けた視線よりも低い位置のところに声の主の小さな頭がありました。
さらに視線を落とすと、声の主は私の想像よりも若い。
十か十二くらいの年頃の童女でした。
淡い水色のワンピースドレスを着ており、丸い鼻と耳、ぷっくりと膨らんだ唇は露出していましたが、目元には包帯が巻かれていました。
……たしか、前年の鼠狩りに数百匹の鼠を殺した凄腕の子供が一人いた記憶が……。
呼び名はなんでしたっけ──
「“冷血ノ幼童”」
ふと、隣に立っていた男が名を口ずさみ、私は「そうそう、それそれ!」と高らかに声をあげました。
思わずはしゃぎ気味になってしまった自分を落ち着かせていたその時です。
石床を黒く塗りつぶした雨粒が四つに集まり、ブクブクと沸き立ったかと思うと、天井へ急激に伸び上がりました。
驚くべきことに四つの黒い水柱となった“それ”はやがて巨大な人の塊に変貌し、4体の一つ目の怪物となって我々の前に立ちはだかったのです。
「ひ、光よ、奴を射貫け!《瞬光弾射》!」
「《炎の精霊》よ、奴を焼き尽くせ!《炎炎焦撃》!」
「《雷の化身》よ、我に応え、我の弓となれ!《雷電投射》!」
「《岩神》よ、汝の力で奴の脳天を砕きたまえ!《天岩雨散弾》!」
周囲の者が一斉に簡易呪文を唱え、暴れ狂う巨人にまばゆい光の弾や炎の弾、雷の矢、岩の雨など、あらゆる攻撃魔法を止めどなく撃ちつけます。
私はしばらく様子見をすることにしました。魔力の温存です。
「ウッ! ……ウ、ウ、ウガアァァ!!」
全身に攻撃魔法を叩きつけられ、よろめく巨人達。
安堵の息を吐いた狩人達の頭上を黒い影が走りました。
瞬間、一人、二人、三人──と次々に頭上を横切る影に連れ去られ、あっという間に真っ暗な天井部分に姿を消しました。
「うがぁぁアアアア!!」
天井からは影の怪物たちの餌となった狩人らの絶叫が木霊しました。
目を凝らして影の怪物の姿を捉えた一人の狩人が素っ頓狂な声を吐き出しました。
「ワ、《ワイヴァン》!?」
「そんなはずないわ……。だって、あいつらはバイセルン事変の際にすべて黎明騎士団が討伐したはずよ」
「しかし、現に今こうしているじゃないか! ぐわっ!」
また一人の狩人が《ワイヴァン》の口に掻っ攫われ、天井に広がった闇に消えてしまいました。
私もそろそろ竜退治を手伝いましょうかね。
「……あれは、私の生まれ故郷で語られてた、古い言い伝え──」
混乱に満ちあふれた広間で包帯童女だけはただ一人、落ち着いた様子で語り続けていました。
その光景はいささか奇妙で異様でした。
こちらとは切り取られた別の世界に立っているような。
少し耳を傾けてみましょうか。
「──……とある地にモンスターを研究する方がいた。
けれど、そのどれもが簡単には出会えない希少種ばかり。
その人は長年の研究の末、自らモンスターを生み出す事に成功した。
それは雨を用いた“生成魔法”だった……」
私は小首を傾げました。
「……雨?」
「今はそんな事どうだっていいわ! ただ単にアレを消してしまえばいいってことでしょう?」
そう言って、黒き仮面の貴婦人が手元に顕現させた木製の弦楽器を手に取ると、露出した艶めかしき左肩の鎖骨に楽器を乗せて弓を弾き始めました。
「あたくしの可愛らしい“お人形たち”、踊りなさい」
直後、婦人が奏でた美しい旋律と共に婦人の背後で四つん這いの姿勢で待機していた半裸の男女が反応を示しました。
彼らはまるで糸に操られた傀儡のようにぎこちない動きで貴婦人の前に躍り出たのです。
……野犬や豚のような顔、または鳥籠を模した鉄製の仮面を被っていましたが、どれもが狩人らの仮面とはスタイルが異なり、醜悪で滑稽なものでした。
仮面を被りし者の顔がよく見えるほどの骨組み部分しか作られていない粗末なものや、異常に伸びた豚鼻と仮面の表面にいくつもある奇妙な花飾りを付けたもの、異常に長く垂れ下がった耳と長い舌で戯けてみせた奇妙な仮面など様々。
仮面の隙間から見えた彼らの顔は恐怖のあまり引きつっていました。
“恥辱の仮面”とも呼ばれるそれはいわゆる刑罰道具の一種です。
彼らの素性は知りませんが、恐らく婦人が奴隷として買ったのでしょう。
婦人が奏でる楽器は対象者を意のままに操る魔法道具。
呪文を口にせずとも、音楽を奏でるだけで魔法を発動できると聞きます。
恐らくその類でしょうね。
すると、奴隷の男女は私の見立て通り、婦人の演奏によって泣きわめきながらも彼らの抵抗を無視して彼らの身体の手と足が動き出し、彼らの手元に弓矢が金色の粒子と共に現れた途端、奴隷たちはそれらを手に取り、弓を構えて同時に矢をつがえました。
中空を飛び交う小竜の群れに向けて一斉に放たれた黄金の矢の雨。
それは驚くほどあっけないものでした。
ほとんどの矢は見事に小竜に命中し、次々と射貫かれ、ドスン、ドスンと落ちていきます。
……フン、まるで“《人面鳥》撃ち”ですねぇ。
まさに『圧巻』というべき同胞たちの芸当に魅入っていた私の耳に幼童の女子の声が割り込んできました。
「……あれはただの雨じゃない。魔法素材を独自に合成して作りだした恐ろしいもの。彼はそこから次々とモンスターを産み出し、周辺の村々を滅ぼした。その後、彼は騎士団に捕らえられ、処刑された」
目の前で起きている光景など気にも留めず、包帯童女は「だけれど」と言って話を続けます。
「それで終わりじゃなかった。“始まり”だったの」
私は肩をすくめました。
「まったく、貴女の話が読めませんね。さっきから何を言って──」
瞬間、ただならぬ気配を感じて言葉を切り、頭上に目を向けました。
するとそこには先刻、霧となって姿を消した老人の姿がありました。
老人は天井の中央付近に浮遊し、佇んだままこちらをじっと見据え、口を開くと、彼の口から出てきたのは称賛と愚弄が入り混じった言葉でした。
「ふうむ……高等な魔法を使っているな……だが、虫けらがどう成長しようとも無意味」
老いぼれの発言に我慢ならなくなった私は同胞らと共に光をともなった攻撃魔法を奴に浴びせました。
……ですが、妙です。
「!? そんなバカな!!」
なんと、老人は背中から生やした蝙蝠のような二対の巨大な翼を用いて、それらを軽々と防いでみせたのです。
唖然とする私らの横で包帯童女はなおも静かに語り続けます。
「斬首される直前、役人は彼に『最後に言い残すことはあるか』と訊ねると、その男はかぶりを振り、こう答えた」
『黒き雨がこの街に降りしきる夜、
それが滅びの予兆であり、
貴様らの最後の夜となるだろう。
……覚えておくがいい。我が名は──』
瞬間、8本もの翼の指骨がバキバキ、と恐ろしい音をたてて異常に伸び始め、真下にいた同胞数名を指骨の先端に生えた爪で容赦なく突き刺しました。
「……所詮、羽の生えた程度の虫けらと知れ」
老人のしわがれた声を耳にした途端、私の胸の奥にざわりとした嫌な悪寒が走りました。
それは遠い遠い昔、幼少の頃に抱いたあの時の感情を想起させたのです。
直後、包帯童女は天井を見上げ、先ほどの言葉の続きを口にしました。
「──『《怪物の王》』」
その時、私はガタガタと身を震わせながらも口角の端を持ち上げていました。
「ほほう、これが“恐怖”というものでしたか。これはこれは、とても懐かしい気分ですねぇ」
まるで半世紀ぶりに顔を合わせた旧き友と再会を祝福するように私は仮面の裏で唇を噛み締めました。
瞬間、枝のように長く伸びた老人の腕が目にも留まらぬ動きで伸びたかと思うと、巨大な手となり、私の頭上に覆いかぶさってきました。
真上から突き出された巨大な手の腹と床に私の体は挟み込まれました。
「!」
私の体はぐしゃりと音をたてて潰れました。
しかし、幸運だったのか、それとも不幸だったのか、奇跡的に私の体はぐちゃぐちゃになってもなお、命を食い繋いでいました。
まさか長命魔法による効果がここで私に生き地獄を与えてくるとは、皮肉なものですね。
「グハッ」
私はわずかに残った体の内側から走る激痛にひたすらよがり狂いました。
無駄な行為と知りながらも、この痛みからの出口を懸命に探し求めました。
……途端、巨大な手が持ち上がり、先ほどの衝撃によって凹みが生じた床の上にポトリ、と空しく残った私の肉塊が目に入ります。
すると、掌を裏返した老人と目が合いました。
老人はいかにも不愉快そうに眉間にしわをよせると、もう片方の手を巨大化させました。
……ああ、恐らく私はここで死ぬのでしょう。
思い返すと、幼き頃の私はこうなる予感めいたものを感じて怯えていたのかもしれません。
私は怪物ではなかった。
“狩られる側”だったんですね。この命が生まれた時からずっと。
バチン、
私は初めて耳にしました。
自分の身体が豪快に弾け飛ぶ音を。




