29 急襲
暗い地下室で身体中に切り傷を負いながらも、一つの肉をむさぼる女の姿があった。
女の体内に宿る“ソレ”は思考する。
──自分が何者なのかを何度か考えたことがある。
だが、思い出すよりも先にハラが減る。
そうなると、さっき考えたことも溶けて忘れてしまう。
ハラの渇きをいくら満たしても、すぐにまたハラが減って悲鳴をあげる。
食べ物はなんだっていい。
虫だろうと、毒の花だろうと、なんだって喰う。
ありとあらゆるものをさんざん食べ尽くした結果、一つ分かったことがあった。
(この世で最も喉を潤し、この体の胃袋を長い間満たすことができる食材。それは──)
ぺっ、と女の口から吐き出され、血に染まった床面に小石ほどの大きさのものが一斉にばら撒かれた。
それは“歯の欠片”だった。
(──“ニンゲンの肉”ッ! これぞ至高の味!)
食事を終え、細身の女はフラリと立ち上がると、細い腕で口に付着した血を拭い取り、じろりと床に転がった骨の残骸を見やる。
(肉のクセにしぶとい奴ダッタ。おかげでハラが減っちまった)
地下室の広い空間の奥に一点、そびえ立つように壁面に刻まれた魔法陣。
細身の女は片手に携えた剣の切っ先で床面を削り、鋭い音を響かせながら魔法陣のもとへ歩み寄る。
魔法陣の中央部に埋め込まれたガラス状の結晶の前に女が立ったその瞬間、女は結晶に向けて剣を振るい、力任せに剣を突き立てた。
「?」
だが、結晶には傷一つもつく事なく、それどころか、剣の先端が弾け飛んだ。
弾けた破片は女の頬をかすめ、彼女の頬に音もなく横に赤い線を引く。
「ほう、コレワ骨が折れソウダ」
顔を上げた女が大きく口を開く。
バキバキッと豪快な音と共に下顎が外れ、あらわになった舌が飛び出し、下顎との繋がりが皮一枚になった彼女の口から噴水のように血が溢れ出る。
女はそれに構う事なく、手を口の中に突っ込んだ。
すると、喉奥に魔法陣が浮かび上がり、長柄の柄部分に象形文字が施された石槌を取り出した。
(昔喰ッタドワーフの得物が、こんなカタチで役に立つ日が来るとは)
女は血を垂らし続けながらも首を何度も鳴らし、血で汚れた口角をあげ、歪に嗤う。
(このオンナの肉と石英、どっちが限界ヲ迎えるかなァ……?)
* * *
石壁に取り付けられた松明の火によって、青く染まった通路を小さき妖精が虚空を漂いながら横切っていく。
エレウはご機嫌ななめに頬をぷくりと膨らましていた。
怒りの原因は些細なことだった。
だが、沸々と煮えたぎる妖精の怒りはとある部屋の前を横切った途端に鎮火した。
エレウはスンスンと小さな鼻を鳴らす。
匂いの源となる部屋の入り口に舞い戻ったエレウは滑らかに虚空を舞い、自分の体の倍ほどある珠簾に衝突する事なく、くぐり抜ける。
その先には厨房があった。
甘い匂いに釣られ、エレウが向かった先にあったのは、木製の作業台の上に置かれた籠。
匂いの源は籠の中に詰められた果実の山から漂っていたようだ。
籠の縁にしがみついたエレウは目を輝かせた。
果実を前にして、さっきまで何に対して怒っていたのかも忘れてしまっている。
だが、一心不乱に果実に噛り付いていたエレウの動きがぴたりと止まる。
……通路から誰かの足音がした。
エレウは口いっぱいに果実を詰め込んだまま出入口のほうを見やる。
ヌルリと人影が現れた途端、エレウはあわてて籠の影にサッと隠れた。
珠簾をジャラジャラッとくぐり抜ける音が鳴り、ヒタヒタと厨房内を歩く足音が響く。
「……?」
エレウが籠の影からそっと顔を半分出して覗いてみると、厨房に入ってきたのは細身の女だった。
……だが、どこか様子がおかしい。
乱れた髪で女の顔は隠れているが、手足には無数の切り傷があり、女の胸元は大量の血で濡れてしまっていた。
明らかに厨房内を徘徊している状態ではない。
グルルルッと一段と大きな音がして、エレウはびくりとした。
まるで大型動物の腹から発せられた音のような、しかし、これは人間の腹から出る音ではない。
女はヒタヒタとふらついた足取りで厨房内を回り続けたあと、野菜や果実が入った瓶詰が陳列された棚の前で、女はぴたりと足を止めた。
ガシャン! と鋭い音が厨房内に鳴り響く。
女は獣のように這いつくばり、床に撒き散らした瓶詰の中身を食べ漁る。
ちらっとその様子を覗き込んだエレウは女の顔を見た途端、冷たい何かが全身を駆け巡るのを感じた。
……女の下顎が無かったのだ。
女は素手で食料を掴み取り、下顎のない口に次々と放り込んでいく。
その異様な光景にエレウは絶句した。
一刻も早くここから立ち去らないと、そう決断したエレウは小さな羽を動かし、虚空にふわりと浮かびつつ女の様子を見ながら後方に移動したその時。
エレウの羽が壁に掛けられた調理器具に当たり、小さく音が鳴った。
「ン゛ ッ?!」
直後、女はぐるんと首をねじり、血走った女の眼球がエレウを視界に捉えた次の瞬間、女は奇声を発して床を蹴り、厨房台の上に四つん這いの姿勢で飛び乗ると、エレウめがけて物凄い勢いで突進を始めた。
『女に掴まれば食べられる』──そう直感したエレウは出入口を抜けて厨房を飛び出した。
だが、途端にエレウは硬い壁にぶつかった。
よく見ると、それは壁ではなく、分厚い男の胸板だった。
顔を見上げると、こちらを訝しげな目つきで見下ろすガーランドの顔があった。
「お前……こんなところで何やってんだ?」
──その後、エレウから武器を持つように促され、ガーランドと共に厨房の出入口前へと舞い戻った。
ガーランドが先陣を切り、厨房の中を覗き込む。
「……なんもいないぞ?」
そう言いきったガーランドが鼻をすんすん鳴らすと、鼻をつまんで顔をしかめた。
「くっ、なんだこの臭いは……!? 動物の死体でも放置してんのか? ここは」
おそるおそる厨房を覗き込んだエレウは呆然と虚空を漂う。
そこに女の姿はなく、あるのは床にばら撒かれたガラスの破片や食材、そして円を描くようにして床についた血の足跡だけだった。
「とにかく、誰か呼んでこないとだな。お前はここで何を見──」
エレウはガーランドの言葉を待たずして方向を反転し、素早い動きで彼のもとから飛び去った。
後方からガーランドの大声がした。
しかし、エレウは羽を休める事無く、胸に抱いた嫌な予感を振り払うように空を切り、リクトのもとへと急いだ。
* * *
二人の男が酒をつまみながらフラフラと歩いてると、一人の男が“ある異変”を感じて「おい」と傍らの男に声をかけた。
「あ~ん? なんだよ」
だるそうに答える相手の男に対して異変を感じた男が、ある一点を指さす。
彼が指さした先には本来、門が閉じられて見えないはずの石橋が見えた。
馬車一台が通れる隙間を残し、門番の姿さえも見当たらない。
「あれってさ、開いてるよな……?」
そう言われた男が目をぱちぱちとして目を凝らしたその時──
音を立てる事無く、石橋のほうを指さした男の頭が胴体から切り離された。
「……え」
“生首のみ”となった男は何が起きたのか分からず、半笑いの表情を浮かべたまま宙を舞う。
傍らの男が顔を横に動かし、首無し男の体を目にした直後──
ぐしゃっ。
突然、頭上から何かが降ってくると、傍らの男は大男の人影に踏み潰され、衣服を着たまま肉塊と化し、豪快に血を周囲に飛び散らす。
同時に石橋を指さした首無しの男は、首の断面から血を噴出し続けながらバタリと後ろに倒れた。
その光景を目撃した数人の男女は、踏み潰された肉塊からゆらりと立ち上がった甲冑騎士の姿と鬼の鉄仮面を目にした途端、鋭い叫び声をあげた。
鉄仮面の口元から吐き出された白い息──。
巨大な斧を携えた“ソレ”は、門の近くにいた者たちに狙いを定め、カチャリカチャリと歩を進めていく。
轟いた叫び声が希望の砦を一瞬にして虐殺の舞台へと塗り替えた。
* * *
「クククッ、鼠め! あんなところに隠れていたとは」
「魔無しの鼠などに生きる価値などない! 殺せ殺せ! さっさと殺してしまえ!」
一段と歓声が沸き起こった観客席にて、金色の髑髏面を被った男が暗闇から姿を現す。
その男はルースが先刻倒したはずの黄金の髑髏仮面の男、その人だった──……。




