03 旅の始り
目を覚ますと、白い雲が澄んだ青空を悠々と流れていた。
風が吹くたびに頬や腕を草が撫でる感触が全身に伝わってくる。
あまりの痒みに耐えきれなくなって、ムクリと起き上がった。
けれど、頭の半分はまだ微睡みの中だ。
「……ここって、どこ……?」
きょろきょろと辺りを見渡す。
右を見ても、左を見ても、草原が当たり前のように広がっていた。
草原の奥には森がある。
更に奥には、山々がうっすらと見えた。
生温かな風がサーッと吹き渡ると、緑の草が一斉に倒れ、音もなく揺れた。
「待て……落ち着け。ここは冷静に考えろ」
まずは一、二度、深呼吸してみた──呼吸できるってことはつまり生きてる。
少なくともここはあの世じゃないようだ。
次に寝ぼけた頭を軽く叩く──うん。普通に痛い。
とりあえず、夢を見てるワケじゃなさそうだ。
「つか、あれ?」
記憶が徐々に戻り、失くした左腕のほうに目を向けると、左腕は何事もなかったかのようにくっついていた。
……となってくると、なおさら何が起きたのか分からないが、こうなった原因で考えられるのは一つしか浮かばない。
「あいつだ……」
突然の動作不具合で暴走を起こし、襲ってきた領域支配者。
犯人は《深淵の死神》で間違いない。
だがしかし、あんなバグを経験したのは初めてだ。
脳に負担がかかったせいで寝ぼけたまま自宅の外に出てしまったのか?
そう結論づけて何気なしに空を見上げると、自分の目を疑った。
「……あれって、ヴァルハラじゃん!?」
そこには、現実の空には存在しないはずの半円形の巨大な空島が、極々当たり前のように空中に浮かんでいた。
ということはつまり、ここはまだ……《アスカナ》の中ってことなのか?
「アスカナ。マップオープン!」
反応はない──もう一度挑戦したが、視界には何も立ち上がらなかった。
常に右下に表示されてあった体力値のHPや魔力値であるMPの表記も消えてしまっている。
その後、いくら試してみても世界は全く反応を示さなかった。
……まるで、ほんとうの現実のように。
* * *
しばらく草原を進むと、あぜ道に出た。
すると、スキップして歩く一人の女の子と出会った。
年齢は5歳くらいか。
欧米人のような顔立ちに見える。
蒲公英の束を手に握った女の子は、突然草の茂みから現れた自分の姿を見て、ぎょっとしたのか、ぼーっとこちらを見つめたままじっと動かなくなった。
「え、えーっと……こんにちわ」
とりあえず、ニッコリ笑って挨拶。
『挨拶』は社会人の基本だ。
そして『愛嬌』は初対面の相手に対して、最大の武器になる。
結果、女の子はくるりと自分に背中を向けたのち、スタタッと走り去った。
地面に落ちた蒲公英の綿毛が風に乗り、自分を憐れむように舞う。
……子供の素直な反応は、時に残酷だ。
深いため息を吐き、肩を落としたものの、しかし、こんな事でへこんでいられない。
初めて遭遇した人間を逃すまいと、気落ちした心に鞭を打ち、女の子のあとを追いかける事にした。
おそらく本気を出せば簡単に追いつけるだろうが、子供に追いついたところで幼気な女の子の警戒心を解くコミュ能力を、自分は持ち合わせてはいない。
とりあえず、ここは事情を話せる大人がいる村、もしくはあの子の家に着くまでは、なるべく距離を保ち続けて尾行すれば問題ないだろう。
……しかし、その数分後。
──いやいや、おかしいって! あの子の足、めちゃめちゃ速すぎだぞ!?
最初は余裕をかましていたのだが、後半はゼェゼェと息を激しく吐きながら、女の子の背中を必死に追いかけていた。
そして大きな曲がり道の先で、ついに子供の姿を完全に見失った。
「詰んだ……子供の体力に敗けた……」
自分の体力の低さと、競歩で子供に敗北した哀しき事実に心は折れかけていた。
……いや、すでに折れていたかもしれない。
砂利道の上で心の反省会を繰り広げていると、ふと水の流れる音が一瞬耳に入った。
……気のせいか? 今度は意識して耳を澄ませた。
すると、遠くのほうでかすかに川のせせらぎが漏れて聞こえてくる。
その音を聞いた途端、急激に喉の渇きに襲われた自分の足は自然と川の音に引き寄せられていた。
* * *
「……こんなの絶対にありえない」
川面を覗き込むと、思わずぎょっとした。
川面に映ったのは自分の顔ではなかった。
前髪の一部分だけが白色のメッシュに染まった蒼髪と、細く引き締まった身体。
あどけなさが残った少年の顔は自分が《アスカナ》で作成したアバターキャラ《リクト・サシューダ》の顔の作りに少し似ていた。
ゲームの世界にまだいるとするなら自分がアバターキャラの姿をしているのは当然だが、しかし、ゲーム特有のグラフィックとはまるで違う。
本物の生身の人間みたいだった。……なんだかちょっと気持ち悪い。
頭が真っ白になったまま水面に揺らめく顔をしばらく茫然と眺めていると、背後で“細長い影”が横切った。
「……っ!」
背中にぞくりとした戦慄が走る──
恐る、恐る、“後ろ”をゆっくりと音を立てずに振り返ると、中空に浮かんだ細長い影がまるで蛇のようにくねくねと右へ左へと曲がりながら頭上を横切っていくのが見えた。
「なんだアレ、葉っぱか?」
中空に浮かんだ細長い影の正体──それは“葉っぱ”の集まりのようだった。
葉は鳥の群れのように集合体となって宙を漂い、木々の間に滑り込むようにして入って行った。
「ついて行ったほうがいい、のかな?」
その葉っぱが迷子の自分を導いているかのように感じたリクトは藁にもすがる思いで、葉が向かう方向に足を向けた──