09 鼠狩り
表があれば必ず裏がある。
光があればどこかに必ず影が差す。
二つの異なる存在が一つの世界で生き抜くには、棲み分けが大事なのだと、自然はすでに知っている。
夕闇に染まったアルノーンの森も、昼間とは全く別の顔を覗かせた。
昼間の動物は棲家に隠れ、息を潜めていた闇の住人たちが次々に顔を出す。
影に浸食された森の中に一か所だけ、ぽうっと浮かぶ小さな灯りがいくつか見える。
どうやら灯りの源は一軒の館から漏れ出たもののようだ。
館の中では、貴族らの夜会が行われていた。
表向きは単なる社交の一環であったが、彼らが集まった本当の目的は別にあった。
大広間に集まる紳士淑女は皆、仮面を被っていた。
仮面を被った音楽団による甘美な音色が観客を魅了するなか、正面奥の広々とした空間に佇んだ一人の小男に照明がパチッと当たる。
それに合わせて演奏曲が終わり、話し声がパタリとしなくなると、照明を浴びたフクロウの仮面を被った小男は声を張り上げた。
「この度は、お集まりいただきまして誠にありがとうございます。
本日司会を務めさせていただきます“フェリーロ”と申します」
『フェリーロ』と名乗ったフクロウの仮面姿の小男は、軽やかにお辞儀してみせた。
「スリルと刺激に満ちたこの“鼠狩り”も今回で38回目になります。
本日も皆様方の退屈な日常を忘れさせる時間になることをお約束致します」
こちらの“窓”をご覧ください、と言って、フェリーロは壁にかけられた巨大な鏡に観客の視線を誘導した。
鏡のそばに立っていたスタッフの男が、鏡に向かって呪文を唱える。
途端、巨大な鏡の表面がぐにゃりと歪んだ。
大きな波紋が鏡の上に生じた後、数名の男女の巨大な像が鏡の中に浮かび上がる。
それはまるで一枚の絵画に描かれた動く集合絵のようでもあった。
巨大な鏡に浮かんだ男女の像は皆、現在の様子を切り抜いて映し出されていた。
鏡の中で忙しなく動く者、
気を失った者、
諦めのため息をつく者、
絶望に打ちひしがれ、ブツブツと嘆く者……。
そんな男女のなかに意識を失った状態のリクトとルースの姿も含まれていた。
「本日も選り取り見取りの鼠を御用意しました。
今回選ばれた鼠は全部で236匹。
特技も能力も皆バラバラです。リストをご覧下さい」
ねぇねぇ、と金色の長い髪を垂らした仮面の少女が傍らに立つ紳士風の男の服の裾をグイッと軽くひっぱる。
「なんだい? ミス・冷血ノ幼童」
紳士風の男は柔和な声色で彼女の呼びかけに応じた。
仮面には優し気な雰囲気の声に反して泣き顔を浮かべている。
『冷血ノ幼童』──
その名が、ここで彼女に与えられた呼び名。
表の顔は伯爵令嬢フェルナン・ド・メリステス。
14歳ほどに見える彼女の両目は何重にも包帯が巻かれ、包帯の下から覗く唇は幼さの残る少女のようで色気もほのかに漂わせている。
大事そうにクマのぬいぐるみを抱きかかえた少女は大鏡を指さし、小首を傾げた。
「あの蒼い髪の男の子、誰ですか?
さっきみたリストにも載ってなかったですが」
ふむ、と言って紳士風の男はしばらくリストを見つめ、近くを通りがかったスタッフの若い男を呼び止めた。
「ちょっといいかい?」
振り返ったスタッフの男は気味の悪い笑みを仮面に浮かべていた。
紳士風の男が耳打ちでスタッフの若い男とやり取りを済ませる。
「ありがとう」
紳士風の男はスタッフの若い男に礼を告げると、彼にチップを手渡した。
くるりと身を翻した紳士風の男は彼女に向き直り、先ほどの質問に答える。
「どうやら、裏で予定外のトラブルがあったらしい。追加で新しく入った鼠だそうだ」
「そう」
ぼんやりとした包帯少女の返事に紳士風の男は何かを察したような口ぶりで訊ねる。
「あの鼠が気になるのかい?」
すると、彼女は静かに頷く。
「ほんの少しだけ」
珍しいこともあるんだね、と紳士風の男は不思議そうに、されど楽しげに仮面の顎部分を撫でた。
「そういえば、例の玩具はどうしたんだい? 前は『一番のお気に入り』だって言ってたじゃないか」
ああ、アレね……と彼女はつまらなそうな声を仮面から漏らす。
「アレは遊びすぎて壊しちゃった。だから、捨てたわ」
やれやれ、と紳士風の男は肩をすくめる。
「ちょっと痛めつけただけで、あちこち壊れてしまうんですもの。遊び相手にもならないわ」
「“魔無し”は莫大な魔力を持って生まれた私たちと違って、弱く脆いのさ。仕方ない」
紳士風の男は巨大な鏡に泣き顔の仮面を向けると、視線を巡らし、手を叩いてみせた。
「そうだ、私はあの眼鏡をかけた神官のほうにしよう。なかなか活きが良さそうだ♪」
「──……ではゲームを始める前に、参加者の皆様に一つだけ注意点が御座います」
そこでフェリーロは急に低い声になった。
彼は言葉に重みをもたせて告げる。
「もしゲームの最中に死亡なさった場合、こちらで蘇生魔法を施します。
ゲーム中に死亡した者には多額の違約金が発生致しますので、ご注意ください」
一瞬、緊張に似た冷たい空気が流れた。
「誰になるかな? 今年の破産者は」
途端、誰かが冗談まじりの言葉を発し、観客席が笑い声に包まれる。
「それでは、狩人の皆さまはこちらへ……」
仮面に笑みを浮かべたスタッフの呼びかけに応じて、ゲームの参加者らが広間の中央に集まる。
「“飛脚傘”のご用意を」
スタッフの指示を受けて、ゲームの参加者らは黒い傘を顕現させ、傘をパッと開いた。
輪になって佇んだゲームの参加者らの格好は多種多様だった。
鬼の顔を模した鉄仮面を被った甲冑騎士の男──
人面月の仮面を被った細身の男──
仮面のメイド達を従えた鼻長の仮面を被った貴公子──
動物を模した鉄仮面を被りし奴隷の十数名と黒い仮面を被った長身の貴婦人──……。
“狩人”として参加した者──総勢146名。
「さて、今年は何匹狩れるかな?」
紳士風の男が仮面の裏で微笑しながらつぶやく。
「叔父様には絶対に負けない。叔父様の分も狩りつくしてあげるから♪」
そう言い、包帯少女は舌なめずりした。
「──さぁ、それでは皆様、お待たせ致しました!
“狩りの時間”です!
死と隣り合わせのひと時をどうぞ心行くまでお楽しみ下さいませ!」
フェリーロの掛け声を合図に狩人らは一斉に風が弾ける音と共に次々と姿を消していく。
その様子を透き通った天井の上から見下ろしていた愛吏は足元から見えるがらんとした広間の中央を見据え、ふうと深いため息をついた。
「──滑稽に映るかい? ミス・アイリ」
愛吏が振り返ると、暗闇の奥からキシキシと音が響き、車椅子に乗った老齢の男と共に付き人の若い男が車椅子を押しながら現れた。
老齢の男が呼吸するたび、鼻と口を覆った酸素マスクからシューッ、コーッと大きな呼吸音が鳴る。
上質な黒のコートを羽織った老齢の男が愛吏を睨むように見据えると、車椅子の後ろに佇んでいた付き人の青年が彼の代わりに口を開いた。
どうやら先ほどの声の主は彼だったようだ。
「きみには所詮、児戯に見えるだろうね。生まれながら人知を超えた力を持つきみには──」
ミルクティーのような髪色に染まったマッシュルームヘアーの青年は目を閉じ、穏やかな声で笑みを浮かべながらそう口にする。
薄く目を開いた彼はねっとりとした視線を彼女に送った。
すると、愛吏は青年の腹の底から漏れ出た邪気を払うようにくすりと笑う。
「そんな事は御座いません。わたくしは好きですよ?
こういった本能むき出しになれるゲーム。
メルキス様がお許し下されるのであれば、わたくしも参加したいくらいです」
冗談はよしてくれ、『メルキス』と呼ばれた青年はそう言って苦笑いした。
彼は『鼠狩り』と呼ばれる殺人ゲームを主催する組織《猛々しき狩り》の幹部の一人だ。
「年に一度行われるこの鼠狩りは元々、上流社会を生きてる彼らの内に溜め込んだ鬱憤と欲望の吐き場所として開催された催しだった。
もちろん、宗教上の理由もあるがね。
でも、もしきみが鼠狩りに参加でもしたら、時間と金をかけてこちらがせっかく用意した鼠をすべて狩り取ってしまうだろ?
お願いだからきみは大人しく舞台裏にいてくれ」
「かしこまりました……」
そう言って愛吏は軽く会釈し、メルキスらに背を向けると背中越しに言う。
「それでは仕事に戻らせていただきます」
「観戦していかないのかい?」
「わたくしが引き受けた仕事はあくまで“侵入者の排除”ですから。
人が死ぬのを見るのは大好物ですが、わたくしの手にかからないのでしたら、鑑賞する理由は御座いません」
「そういえば、飛び入りで追加した鼠二匹はたしか、きみが入れたんだったね。
どういうつもりだい?」
「なんとなく、ですよ」
愛吏は薄い笑みを浮かべて顔を少し動かすと、メルキスらに視線を向けて意味ありげに言葉を付け足した。
「今年の鼠狩りは愉しい事になりますよ。きっと……」
愛吏は下の階に設けられた巨大な鏡を透明の床越しに一瞥する。
その視線は鏡に映ったリクトの像に注がれていた。
(この程度で死ぬのであればそれまでのことです。
勝ってください。
わたくしが狩るにふさわしい“極上の獲物”になるために──)




