最弱だった息子
リビングでソファに座っていると帰宅した息子が入って来た。
普段だったら自室に真っ直ぐに向かう男が珍しいと見つめていると、息子はわかりやすい溜息と共に肩をガクッと落とした。
母「わかりやすいな!突っ込んで欲しいのか?」
息子「もう僕は駄目なんです。大学を辞めなければいけないかもしれません。」
母「……理工学部の学費をドブに捨てるつもりですか?理工学部でもあなたが利口じゃないことはわかっていますから、まず、何があったのか言ってみようか?」
息子「はあ。あのさ、母さん、僕は四十代の女は駄目だと思う。」
母「突然ディスって来たな。それは母が四十代だと分かっての言葉か?」
息子「いえ。あの、え?まだ四十代でおなりで?ああ、じゃあ、僕の出会ったあの人は三十代かもしれません。ほら、小学校のミエちゃんのママみたいな感じだったから。」
母「ミエちゃんのママは私と同い年だよ。」
そこで息子ははあとわかりやすく溜息を吐き、それからのそのそ歩いて母の斜め向かいになる床に母から背を向けて座り込む。
息子「僕、もう電車に乗れない。」
母「ち、痴漢冤罪?か?」
息子「あれは、今日の午後、誰も乗っていない車両でした。僕の斜め前にその女性は座り。」
母「誰も乗っていなかったんじゃないの?」
息子「その、僕の母よりは若く見えるが四十代に見えなくもない女性は、」
母「無視した上に私こそ否定しているみたいな二重否定は止めろ。」
息子「聞いてくれないのですか?」
母「聞きます。ごめんなさい。大学を辞めたいなんて尋常じゃないから、私も混乱しているの。」
息子「突然悲鳴が上がりました。」
母「こっちも悲鳴をあげたいわ!突然すぎる!」
息子「聞いてくれないんですか!僕はちゃんとした文章を話しています!僕の斜め前に座っていた女性が急に悲鳴を上げて、隣の車両に走って行っちゃったんですよ!それで、隣の車両の人達が僕達がいた車両を一斉に睨んで!僕とその女性しかいなかった訳だから、僕がその女性に何かしたって思われたんですよ!こんな侮辱ありますか!お母さんに触れられまいと頑張っている日常で、わざわざお母さんぐらいの人を触りに行くわけ無いでしょう!」
母「頑張っていたのか!抱きしめてやろうか!いや、まあ、確かに。触りたくもない女性に触ったって思われるのは辛いよね。」
息子「もう電車に乗れません!」
母「時間をずらすのはどうなの?」
息子「時間は関係ありません!あの路線には巨大な虫がいるって事なんですよ!あの女性はあの虫を見て悲鳴を上げて逃げ出しちゃったんです!」
母「また突然訳の分からないことを言って来たな。何?大きな蛾でもいたの?ええと、ヨナグニサン系の?」
息子はそこで偉そうに鼻を鳴らす。
息子「見た事もない危険な虫がいました。」
母「見た事が無くてどうして危険だってわかるのよ?」
息子「蚊をピンポンボールサイズぐらいに大きくしたものでした。蚊の巨大サイズですよ?あんなのが生息している場所には僕はもう行きたくはありません!」
母は大きく溜息を吐くと自分のスマートフォンを座卓から取り上げ、それを操作してから息子に自分のスマートフォンを差し出した。
息子はスマートフォンの画面を見て、大きく舌打ちをする。
息子「最弱な虫に僕は負けたんですね。」
母「うん。ガガンボは無害だからさ、明日も学校に行こうね。」
そこで息子は再び頭をガクッと下げる。
母「どうした?」
息子「あの、大学行きたくない。大学を辞めて良いですか?」
母「どうしたの!」
息子「いえ、あの、僕は三年生になりましたけどね、最近自分が理系じゃ無いなって。文系なんじゃないかって気づいたんですよ。」
母「それは大学受験の前に気付いておこうか?」