自白 後編
【後編】
わたしがこの事件の担当者となったのは、被疑者、彼の自首に最初に関わったからだ。彼は妻を殺したと自白し、その自白通り彼の自宅から妻の遺体が発見された。この時点での彼の容疑は「死体遺棄」であり、彼が妻を殺害したと言う証拠は彼の自白のみである。殺人事件として立件出来る物的証拠が揃うまでは「死体遺棄」容疑での身柄拘束となる。
わたしは彼が死体遺棄容疑で逮捕される瞬間、彼が見せた一瞬の表情を見逃さなかった。ほっとしたのと同時に微笑みを浮かべていた。その表情にわたしは違和感を感じた。それは彼が嘘を吐いているというものだった。もし上司に彼が嘘を吐いていると報告し、上司からその理由は問われた時、わたしは「勘です」と答える以外出来ない、そんな直感のみの感覚だった。
わたしは彼の事情聴取を行った。彼には親類と呼べる人間はおらず、妻の方の親類は彼の世話をするつもりはないらしい。また彼は妻の治療や介護の為に貯金や財産を使い果たしており、弁護は国選弁護人が就くことになった。国選弁護人はKと言い、優秀とは言い難いが非常に情に厚く熱心な弁護人らしい。さっそくKは彼の精神鑑定を要求してきた。当然の要求だろう。誰が考えても彼の介護疲れを疑う。しかし彼は「自分には責任能力がある」と言ってその要求を拒んだ。
彼は事情聴取に協力的であり、短期間で調書が完成した。そして彼の罪状に「殺人罪」が加わり、彼は起訴された。ただし、彼は妻に対し献身的に介護していた事、彼自身は否定しているが未来を悲観しての行為である事は明らかで、それらを鑑みれば、かなり軽い刑が求刑されるとみられた。
彼の身柄が検察に移され、わたしの仕事は終わったが、まだ彼のあの笑み、死体遺棄容疑で逮捕された瞬間に見せたあの笑みが、わたしの心に引っ掛かり、彼が嘘を吐いているという自分の直感から離れる事が出来なかった。
警察の仕事は忙しい。毎日毎日新しい事件が舞い込んでくる。彼の事件は既に聞き込みを終えているが、わたしは確認の為にもう一度、彼に関わる人に聞き込みを舞い込んでくる事件の合間を縫っておこなった。
だが、再度実施した聞き込みからは、新たな証言は得られなかった。前回と同様、お涙頂戴のテレビ番組のような話を聞かされるだけだった。彼は献身的に妻の世話をしていたと。
そうしているうちに、わたしは県下で起こった連続殺人事件の容疑者捜査に、大量に動員された捜査員の一人として就くことになった。メディアも注目する事件であった為、県警も総力を挙げて容疑者を検挙する姿勢を見せたのだ。彼の事件について調査する時間はなく、容疑者の追い詰めるべく奔走する日々が続いた。街に設置されている監視カメラを片っ端から確認し、遂に容疑者を足取りを掴み、身柄を確保した時には彼が起訴されてから三ヶ月ほど経過していた。
わたしは彼の事件の調査をする時間を作ろうとしたが、前回の捜査が評価され、優先順位の高い重要な事件を担当するようになった。その為、捜査に忙殺されてしまい、彼の事件に割り当てる時間は作れずにいた。やがてわたしは「あの事件はもう終わった。あの直感は間違っている」と自分に言い訳するようにして、目の前の事件解決に没頭した。
人間は簡単に状況に流されるもので、すっかり彼の事件はわたしの中では終わった事件として記憶されていった。
わたしが彼の事件の事を記憶の中に押し込んで半年が過ぎた頃、彼の弁護をしていたKがわたしの許を訪ねてきた。
Kは彼が亡くなったと告げ、一通の封筒をわたしに手渡した。それは彼からのものだった。Kは彼が亡くなった後、わたしにこの封筒を渡すように言われていたらしい。彼は告白した通りステージⅲの癌に冒さており、起訴後、急速に癌が進行し、為すすべもなく彼は亡くなったそうだ。Kは彼の最後を見届けた時に、彼は苦痛にうなされながら「許して欲しい」と言っていたと教えてくれた。Kは公判の事は特に語らず、そのまま言葉少なく帰っていった。
わたしは封筒を開けた。便箋が一枚だけ入っており「妻を憎んでいた」ともう彼に字を書く力がなかったのだろう、殴り書きのような文字が書いてあった。
「そうか……」
わたしは彼から感じた違和感の源を知った。
彼の言葉を思い出す……
彼は「わたしは怖かったのです。わたしを見る妻の瞳が。その瞳にわたしが存在していないことが」と告白し、そして「わたしが居ない妻の瞳が……、わたしはそんな妻を逆恨みし、やがて憎むようになるでしょう」と続けた。それが虚言だったのだ。彼は既に妻を憎んでいたのだ。妻の病魔を憎んでいたのだと思いたい気持ちもあるが……。
彼は妻を殺害をした。それは未来を悲観したのではなく、妻に同情したわけでもなく、憎しみを伴った殺人だったのだ。そして最後に彼が残した「許して欲しい」と言う言葉の意味をわたしなりにこう解釈した。
「妻を殺したことではなく、妻を憎んでしまったことを妻に許して欲しかった」のだと。
彼がこのような嘘を吐いた理由だが、彼はこう言っている「わたしは妻との思い出が綺麗なまま死にたかったのです」との事から、これが彼の望んだこの事件の綺麗な終わり方なのだろう。例え自己欺瞞であっても。
しかし、彼はわたしにこの封筒を届けたのだから、最後まで彼は自分を騙し切れなかったに違いない。そう思うと、わたしは彼の不器用さに何も言葉を持たなかった。
この殺人死体遺棄事件は被告人死亡として処理され裁判は結審している。裁判の結果はネットや新聞にも掲載されることもなく情報の海に埋もれ、誰一人顧みられることはない。彼の殺意について今更真実を語ったところで何も得るものなく、誰一人として望む者もいない。
わたしはこの事件の真相をこのまま胸に仕舞うことにした。ベルトコンベアで流れてくる工業製品のように発生する事件の群に振り回され、やがて彼の事件もわたしの心の中で風化するだろう。
わたしはそれで良いと思った。
了