自白 前編
本作は、森鴎外著「高瀬舟」を影響を受け創作しています。
この物語はフィクションです。警察、司法当局の対応は物語に合うようにしてあります。
【前編】
JR博多駅の西側出口を出て、はかた駅前通りを西に向かい五百メートルほど歩くと、北に祇園大通り、南にこくてつ通りを交差する地点、H警察署入口と言う名の交差点にたどり着く。その祇園大通りを北に百メートルもない場所にH警察署が建っている。その風貌は、他の警察署と同じ様に、近代的なビルディングであり、旭日章と警察署の名が掲げられていなければ、そこが警察署であると誰も気付くことはないだろう。
九月末日、その日は朝から雲一つない快晴で、秋空特有の現象、空が高く感じられた。風も頬に弱く感じられる程度で、肌寒くもなく、暑く感じる事もなく、心地よく散歩するには持って来いの天気だった。
オフィスが集中する一帯が朝夕の通勤時間帯並に混雑する時間、昼休みの時間も過ぎた頃、まるで今起きてそのままここに来ましたと言っても過言でもない老年の男性が、H警察署入口の交差点を北に向かって歩いていた。その老人は灰色のジャージを上下を着込み、上着はだらしなくジッパーが空いており、少し沁みが付いたシャツが覗いている。髪もぼさぼさで櫛を入れた形跡がない。足許のサンダルは底が擦り切れるほど使い込んでおり、いつ底に穴が空いてもおかしくない状態だ。右手には明らかに安物と分る三つ折り財布が握られており、その厚さからその中はほとんど空であることを窺わせる。そして何と言っても、その顔に覇気や生気と言ったものが全くない。目は前を見据えているが、その目には前方の対象物が何物であるか判断している様子は感じない。口許も辛うじて閉じられているものの、全く力が入ってはいない。強めのビル風でも吹けば、思わず口が開いてしまいしそうだ。
その老人はH警察署の玄関前で立ち止まり、そこが確かに警察署であることを確かめるように、玄関の軒先の上にある文字「H警察署」を見詰めた後、再び歩を進めた。その玄関口に向かって。
警察署の玄関はガラス張りになっており、戸外の光を取り込み明るい雰囲気が漂っている。玄関を通るとホールの奥に案内書がある。老人はそこに足を運び、対応した女性警察官に向かって、何の前置きもなく突然、
「妻を殺しました」
と告げたのだった。
一瞬驚いた様子を見せた女性警察官はすぐに捜査第一課に内線電話を掛け、応援を要請した。
その間、老人は手錠を掛けることを促すように両手を差し出した状態を維持していた。
「お話をお伺いたいので、少々お待ちください」
と女性警察官は相手を刺激しないように努めて冷静にその老人に話掛けた。老人は女性警察官の声が聞こえてないかように、姿勢を保ったまま崩さない。まるで自分自身に罰を与えているようだった。女性警察官は何かあればいつでも動き出せる態勢を崩さず、それでいて顔は受付嬢よろしく愛想笑いとかしか思えない微笑みを貼り付かせていた。
一分も経たず捜査第一課のDとTが駆けつけてきた。女性警察官がほっと息を吐いたのは言うまでもない。
「お待たせしました。申し訳ありませんが、お話を詳しくお聞かせ願いませんか? 奥に部屋がありますので、そちらの方へ」
とDが優しく老人の背を押し移動を促した。Dが老人に寄り添い、Tは二人に何かあればすぐに行動に移れる態勢を維持しながら、人目の付かない位置にある署員専用エレーベータで取調室のある四階まで上がった。我が国の法では現行犯逮捕以外、何の証拠もない状態では手錠など掛けることは出来ない。老人はその間、終始俯いたままで一度も顔を上げることはなかった。
取調室は部屋の中央にテーブルがひとつあり、部屋の隅には供述調書を取る机があるだけで他には何も置いていなかった。外からの光をふんだんに取り入れる窓には、おそらく自殺防止や逃亡防止の為だろう、格子が嵌めてあった。部屋はドラマや映画にあるような暗い雰囲気はなく、病院のカウンセリングコーナーと遜色ない清潔さと無機質な明るさがある。
老人は簡単な身体検査を受けた後、Dに言われるがまま、部屋の奥側にあたる椅子に座った。そしてDは向いの入り口側に席を取った。この時、Tは隣室にいた。この取調室を監視できる部屋であり、また取調室からはこの部屋から監視されていていることは分からないようになっている。人払いさせて自白を引き出す時や、人がいない時の態度から証言内容を確実にするのに非常に役に立つ設備である。
「何か飲み物……といっても麦茶しかありませんが、お飲みになりますか」
Dの問いかけに老人は黙って首を横に二度振った。
老人とDが対面してもう十分以上は経っていた。老人は自分の住所と氏名、妻の氏名を言い、その後、「妻を殺した」と言った後、中々言葉が上手く出ないようだった。
その間、隣室でいたTはさっそく老人の発言が正しいのか、そして老人の妻の安否を最優先事項としてウラ取りを指示していた。
Dは老人が話し出すのを辛抱強く待った。老人は「妻を殺した」と言っても何の証拠はない。今はまだ老人は容疑者ですらないのだ。そんな人物に取調べ特有の駆引きなど使えはしない。Dは老人の顔を観察した。老人の視線は座っている自分の体と机の間に置かれている。そして不自然なくらい動かない。疲れを隠す事もしない口許には必要以上に深い皺が刻まれており、ごま塩のような無精ひげが何とも言えない哀愁を誘う。
老人はDの視線を感じたのか、老人は気まずそうにDに小さく頭を下げ、無言の時間帯をまるで自分にその責任があり謝罪しているかのようだった。そういった態度を取ったにも関わらず、老人はまた俯きがちになった。
Dの感覚では十分ほど実際には三分ほど、老人はこの状態を維持していた。それから、突然老人は顔を上げた。その表情には決心を窺わせるものがあった。Dは老人が何を話すかを誘導することも出来たが、今はその時ではないと思い、老人の話すがままにさせる事にした。
老人再び自己紹介をはじめた。先程よりは詳しく。
「わたしはR.Mと言います。XXXX年二月十七日に島根で生まれました。ここ福岡で金融関連の会社員をしていましたが、今は無職です。XXXX年にT.Aと結婚し、それから三十年余り連れ添ってきました」
Dは老人と思っていた人間がまだ五十半ばだと知って、少し驚いた。彼は若さとか生命力とか、そういったモノに無縁に見え、それ故あまりに老けすぎていた。
そこでまた数分の沈黙があった。
Dには彼が何を口ごもっているか、判る気がした。妻を殺した原因に関わる事を話そうとしているのだと。
「私たちには子供はいません。決して裕福ではありませんでしたが、それなりに仕合せだったと今考えればそう思います。妻が病気、アルツハイマーを発症したのは五年前です。妻の言動がおかしいと気付いた時にはもう遅く、まるで砂山が崩れるようにアッという間に妻は完全に壊れてしましました。本当に壊れたのです」
彼は堪え切らなくなったように嗚咽した。その声が響き、部屋の空気を支配した。
Dはその空気を拒否するように固く目を瞑り、ただ彼が落ち着くのを待った。Dは彼に話掛ける事はしない。なぜならDは彼が話している相手を知っているからだ。彼が話している相手とはDではない。彼の心にいる誰かなのだ。彼はDをその心にいる誰かを具現化した影だと思っている。彼は自身の中で自己完結している状態であった。その現象は犯罪を告白する場合によくみられる心の現象だった。
彼は十分近くの時間を掛け、落ち着きを取り戻した。
「すいません……」
と一言言葉にした後、再び彼は沈黙の海に沈んでいった。
Dは彼の口許が小さく動いているのに気が付いた。残念ながらDには読唇術の心得がなかったので、彼が何を言ってるまでは判らなかった。
彼はDの視線に気付いた。そしてゆっくり息を二度ほど吐き、唇を噛み締めた後、口を開いた。
「わたしは残りの人生を病気の妻に捧げようと決めました。それが今までわたしを支えてくれた妻への恩返しだと思ったからです。しかし、病気の妻の看病や世話をすることは思いのほか体力がいりました。正直きつかったです。勿論、自分独りで抱え込まないように役所や専門機関に相談させてもらいましたし、ヘルパーの人も雇いました。これだけの人に支えられたなら、きつくともやって行けると思いました」
彼はまた口を噤み、固く唇を閉じた。それからゆっくりと右手を胸にあて、そのまま動かくなった。
それからまた沈黙がこの部屋を覆い、ここに存在していない機械式の時計がカチカチと静かに時間を刻んでいるような不思議な錯覚が、ここにいる二人を包み込んでいるようだった。
やがて、彼は両手を組んだ。組んだ手をじっと見つめながら、
「わたしは今癌に冒されています。ステージⅲだそうです。調べて頂ければ、すぐにわかると思います。これを聞けば、わたしが妻を残して死ねないから無理心中を謀ったものの、死ぬ事ができす自首と思われるでしょう……、それは違います。わたしは自分の為に妻を殺したのです。将来を悲観して……、それも違います。わたしは怖かったのです。わたしを見る妻の瞳が。その瞳にわたしが存在していないことが」
彼は手を見るからに力を入れて握っていた。それからゆっくり組んだ手を解き、堪えられないと言った風に頭を下げ、何度も首を振った。まるで世界中の罪を一身に受けるように。そして、その状態で口を開いた。
「私は妻の瞳が怖かったのです。わたしが居ない妻の瞳が……、わたしはそんな妻を逆恨みし、やがて憎むようになるでしょう。わたしは妻との思い出が綺麗なまま死にたかったのです。なのに、わたしは死ぬ事もできす。一番大切な人を殺した罪に苛まれているのです。それだけでなく、卑怯な事に、自首をして自分の罪の意識を軽くしようとしている」
彼は顔を上げ、大きく右手を振り上げて、机を叩こうとしたが、ゆっくりとその腕を下ろし静かに右手を膝の上に置いた。
「わたしはどうしたらよかったのでしょうか……」
その時、Tが入ってきて、彼に対して「妻T.M死体遺棄容疑」を告げ、身柄を確保した。
Dは、その瞬間ほっとして笑みさえ浮かべている彼の顔を見て、気持ち悪いと感じた。そして強烈な違和感を感じ取った。それは常に虚言に接している人間の感覚が反応したものだった。
「彼は何か嘘を吐いている」そうDの第六感が告げている。だが、Dは彼が何を嘘を吐き、何の為に嘘を吐いているかまでは分かりかねた。もしかしたDは自分の直感が外れているかもしれない事も考えたが、それは即座に否定した。Dはそれくらい自分の直感に自信があった。
今から本格的な調書を取りは始まる。事実は晒される事になるだろう。DはTに一言入れて立ち上がり、トイレに向かった。