鬼さん、こちら。
肩で息をするくらい必死に走ったのは、半年前の体育の補習ぶりだ。そう思いながらマコトは保健室のベッドの下に潜り込み、震える足を何度も叩いた。
「くそっ…かくれんぼなら得意なんだけどな…」
空人が来るまでの僅かな時間を利用し、マコトは自分の感情と戦っていた。
「…ぁああ…ああああぁあ」
(ヤツの歌っ…!)
空人の歌声と共に踊る心臓が、押さえた口から飛び出ようとする。
「こっちだ!ノロマ野郎!」
聞こえてきたのはシンヤの叫ぶ声と、獲物を見つけた化け物の喜びに満ちた慟哭。
「ぁあああああああああああああああ!!!」
---30分前---
「囮って…俺達が化け物を引きつけるって事かよ!」
「落ち着けよシンヤ。納得出来ないのは俺もだ。けど今は凛さんの言う通りにするしかないだろ…」
言い争う二人を尻目に、凛は説明を続けた。
「お腹に呪印を刻まれた以上、ヤツはどこまでも追ってくる。死にたくないなら、必死に空人と鬼ごっこをしなさい。幸いにもこの結界内の空人は一匹よ。隙を突いて、私が何とかする」
「何とかするって…具体的にどうするんですか?」
マコトの質問に凛は「期待してて」と言った。
「いい?ヤツは足が遅い。そして目が無くて、扉を開けるとかの行動は頭が悪くて出来ないわ。その代わり、耳が凄く良い上にテレポートを使うの。結界の中にいる限り呪印を感知して必ず追ってくる。離れれば感知されにくくなるけど、それも時間の問題ね」
元陸上部のシンヤは得意の走りを活かして、あちこちへ逃げ回っては大声で空人を挑発した。
「ほらこっちだよ!捕まえてみろって!」
シンヤが廊下の角を曲がると目の前に壁と間違う程の巨体が待ち構えている。
「っ!?テレポート…!」
捕まる寸前で足を切り返し反対方向へ走る。これを繰り返す事25分、シンヤはマコトを庇いながら汗まみれで奮闘した。
空人の呪印は恐怖の感情に強く反応して、感知されやすくなる。凛のその言葉を聞いた時から、シンヤの中で作戦は決まっていた。
ベッドの下で息を潜めるマコトも、シンヤの作戦に気付いていた。
「ごめんなシンヤ…お前も怖いだろ…」
少し息切れを感じたシンヤは、階段の影に隠れながら移動した。
「待ってろよマコト…俺が守る…」
階段の下から急に歌が聞こえ、シンヤは思わず足を滑らせた。
ゆらり、ゆらり、一段、また一段。
階段を登る異形は、大きく手を広げてシンヤに迫る。
転んだ音を聞いて駆けつけたマコトの目に映ったのは、震えるシンヤと、シンヤの三段下で歌う空人だった。
躊躇せずシンヤの腕を掴んで引っ張りあげようとするが、力の抜けきった人間は重い。咄嗟の判断で持ち上げられる重量ではなかった。
ピシッという音が鳴る。
空人の仮面が割れる音だ。
階段に差し込む赤い日差しが、正門で見た最悪の光景を思い出させる。
だが空人の口は後ろから伸びた大きな手によって塞がれ、そのまま階段の踊り場まで引きずり降ろされた。
鉄筋コンクリートの校舎に叩きつけられる巨体と、それを見下ろす巨体。
「空人が…二匹?」
マコトは思わず掴んだシンヤの腕を離す。
見下ろす巨体は、駄々をこねる子供の様に暴れる巨体を抑えつけて仮面を掴む。
「ぎゃあああああああああああああ!!」
空人の断末魔に、マコトとシンヤは息を呑む。
突如現れた空人は、剥がした仮面を握り潰した。
その瞬間、黒く大きい身体がブクブクと泡を立てながら消えていく。
地獄の様な光景に、二人は指一本動かせずにいた。
泡が完全に消えたと同時に、生き残った空人は白い煙りに包まれた。
「シンヤ君、よくやったわね」
煙りの中から聞こえた声は、凛の声で間違いなかった。
「空人が…凛さんに…」
凛は動揺を隠せないマコトの肩をポンと叩いた。
「期待しててって言ったじゃない」
二人を連れて正門に来ると、凛は結界を破る準備をしながら自分の正体と今の状況を説明し始めた。
「実は私のお腹にも呪印があるの。1年前に空人に襲われて、あなた達と同じくある人に助けて貰った。その時は酷く混乱していて気付かなかったけど、無事に家に帰ってからその存在を目の当たりにしたの。私には顔の無い女が見えていた。すぐに助けてくれた人の所へ向かって、付きまとう女について聞いたわ」
凛は何もない所をじっと見つめ、また話し出す。
「それはお前にしか見えない、お前の感情と心の象徴、能力の具現だと言われた。自分にしか見えない女と暮らしながら、私はその人の所で働いたわ。呪術や亡霊、悪魔や異能を、世界はひた隠しにしている。巻き込まれる人々を見殺しにしている。そんな人達を救いながら、自分達に刻まれた呪印を消す方法を探し、呪術や異能についての研究もしているの」
「凛さんの師匠がいるって事か…」
「ええ。でも死んだわ。油断は人を簡単に殺すものね。だから今は私一人よ」
地雷を踏んだと思い、シンヤは目をそらす。
「あなた達、協力してくれないかしら。どうせ呪印を付けられたら一人で生きていけないわ」
「凛さん…俺…」
マコトが凛を真っ直ぐ見つめる。
「あなたにはもう見えているのね。顔つきでなんとなくわかったわ」
真っ黒なレインコートを着た子供が、マコトの横にぴったりくっついている。
「凛さんにも見えてないんですね」
「当たり前よ。それはあなたの心ですもの。もっと自分を理解したら、それを使いこなせるかもしれないわね。どんな能力かは、その時にならないと分からない。ちなみに私の能力は『ありきたりな女』触れたモノ、感じたモノ、見たモノに姿を変える事が出来るわ。生命体に限定されるんだけどね」
「じゃあ、あの時の空人はやっぱり…」
「ええ、私が変化したものよ。シンヤ君はまだ自分の心が見えないかしら」
「…はい」
シンヤがまた目を逸らしたのを、凛は見逃さなかった。
それから一週間、何事もなく学校に通った。
授業をサボったことをハゲ山に叱られている時も、シンヤはどこか上の空だった。
マコトはシンヤに感謝している。また助けられたと、昔の思い出に浸る。
幼少の頃から仲が良く、近所で有名なカミナリオヤジの家に石を投げてイタズラをしては、シンヤの言う作戦に助けられていた。
「俺がジジイに追いかけられてる間に、マコトは逃げろ!」
その時からシンヤは足が速かったが、大人を撒けるわけもなく、シンヤだけ捕まって怒られるばかりだった。
いつも指を咥えて隠れているマコトの所に、涙目のシンヤは笑顔で帰ってくる。
「また仕返し、してやろうぜ」
マコトは幼いながらに劣等感すら覚えていた。
「マコト!ぼーっとすんな!購買行こうぜ」
マコトの肩をシンヤが叩く。
「悪い。ちょっと懐かしい事思い出してて」
こうして二人で歩いていると、いつもの日々に戻ったんだと感じる。
永遠に続く階段も、凍りつく廊下も、過去の事なのだと思える。
そして夕方になる前に、マコトとシンヤは凛と合流して話をする。
凛曰く、呪印がついている限り恐怖の感情は極力抑えた方がいいらしい。
その為に日が暮れる時間は三人で夕陽の射さない部屋で話し込む。何かあっても、この三人なら大丈夫だと思えるだけで、恐怖を抑制する事に繋がるのだ。
他愛ない話の間も、時々シンヤは目を閉じてため息をつく。
今日だけで通算十数回目のため息に、凛が言う。
「シンヤ君、いい加減諦めたらどう?あの日からずっと見えてるのよね。見えているのがストレスになってるのは、身体に悪いわよ」
その言葉にマコトが驚く。
「シンヤも見えてたのか…?」
「ああ」
「どんなやつなんだ?」
シンヤが大きく顔を上げると、ソレは少し笑う。
猿の顔に羊の角を生やした頭、身体はゴツゴツした筋肉に覆われていて、爪は鋭く伸びている。
「我はキサマの心。我の名は『鬼』 力を欲せ。其れだけがキサマに残された道だ」
自らを鬼と名乗る化け物は間違いなくシンヤにしか見えておらず、この台詞をずっと耳元で囁き続ける。
「凛さん…もし自分の心が、自分が思っている以上に獰猛なら…俺はどうしたらいい?」
凛は少し考えて答えた。
「心を制するか、心に呑まれるか。それはシンヤ君の自制心、感情を抑制する力によって左右するわね」
シンヤが睨みつけると、『鬼』は首元まで顔を近づけてこう言う。
「我が欲しいのはキサマだけだ」
首に焼けるような息がかかる。
それを見て、マコトも「心」を見下ろす。
制服のズボンを掴んでぴったり張り付いた黒い子供は、マコトを見上げる。
「…き…ば…」
マコトはまだ、自分の心の声を聞き取れずにいた。
どんなに耳を近づけても、その声は小さくか細い。
「それがどんな姿をしていたとしても、心は自分自身の事を一番よく知っていて、その本質に気付いて欲しがっているの。それがあなた達にとって劇薬だったとしても、何にでも効く特効薬だったとしてもね」
シンヤと凛と別れた後、マコトは月を見ながら帰った。
その日の月はくり抜かれた様に綺麗な三日月だった。
「…きの…く…き」
マコトのズボンをぐいぐい引っ張りながらその子は言う。
「…きの…く…き」
繰り返し繰り返しそう呟く声は、マコトには全て届かなかった。
「そう焦るなよ」
マコトがフード越しに頭を撫でると、頭上で光る月が少し満ちた気がした。
次の日、授業中にある事件が起こった。
クラスメイトの女の子が体調不良で倒れたのだ。
倒れた際にめくれたシャツから出た下腹部にハッキリ刻まれた呪印は、マコトとシンヤの感情を大きく揺さぶった。
『鬼』は高笑いし、黒い子供はしきりに自分の名前を叫ぶ。
しかし二人の意識は自分達の心の声が聞き取れない程、遠く遠くの位置にあった。
登場人物
田崎マコト
空人に呪印を刻まれた事で、自分の心が具現化した。マコトには心の声はハッキリ聞こえておらず、心はその度に不満そうな態度をとる。
中井シンヤ
マコトと同じく心が具現化したが、自分の心の凶暴さを認める事が出来ずに目を背ける。
それはシンヤにとって最も恐怖を増幅させる存在だった。
凛
以前は恩人と共に空人を追っていたが、恩人の死別を乗り越え、今は自分がマコトとシンヤの恩人となっている事に不思議な感情を抱いている。
「ありきたりな女」は凛の心の名前であり、生命体である限り、どんな姿にでも変化できる。
変化の質は本人の知識量に依存する。
空人
人の魂を貪る為に地獄から這いずり上がってきた化け物。
視力と知能は低いが、聴力が非常に高い。
テレポートを使うので、一度見つかり結界を張られると逃げきる事が難しい。
頭部の仮面を破壊するのが唯一の倒す方法である。