*踏み入れた世界
ラクベスは眼前にいる黒い影から目を離さず、バッグに手を掛ける。
そのとき──
「おい、そこの奴! そこから離れろ!」
思いもしない第三者の声に、二人はどういうことなのかと瞬刻、動きを止めた。
「あんただよ。目の前に悪霊がいる。日本語通じるか?」
三十代前半と思われる男は手に数珠を持ち、どうしたものかと戸惑うラクベスに歩み寄る。
「おいおい。中に人がいたのかよ」
パーシヴァルはそれに、まじかよと頭を抱える。結界を張ると同時に範囲の中にいる者を追い出す術を施すことも忘れていた。
これは二度目の失態だ。
「悪霊?」
「そうだ。俺がなんとかするから、早く公園から出るんだ」
日本語が通じると解った男は公園の外を指差し、ラクベスをせき立てる。
「おい、お前! 邪魔だ。こっちに来い!」
予想もしない男の出現に、パーシヴァルは顔をしかめて呼びつけた。
「なんだあいつ。コスプレの撮影なら、よそでやってくれ」
眉を寄せてラクベスを見上げる。
「あなたは」
「俺は室田 冬助。霊能者だ。解ったら早く向こうに──」
黒い影は苛ついたのか、言い切るよりも先に唸りを上げて男に飛びかかった。室田はそれに恐怖を覚えて体を強ばらせる。
やられる──!? 室田が目を閉じた刹那、鈍い音がしてすぐ側に人の気配を感じ、恐る恐る瞼をあげる。
「……あんた」
視界に入ったラクベスの背中に、自分は護られたのかとハッとして彼の左腕に数本の爪痕を見る。
「怪我は」
「無い、けど」
気遣う声に応えつつ、護ってくれた腕からぽたりぽたりと滴る赤い液体に息を呑んだ。
受けた傷は浅くはないはず。なのに、青年は痛がる様子も見せず黒い影から少しも目を離さない。
なんて精神力なんだと室田は思わずたじろいだ。
「それなら良かった。パーシーの元へ」
ハンカチを取り出し、右手と口を使って腕に巻き結ぶ。やはり傷は深いのか、白いハンカチがみるみる赤く染まっていく。
「おら! 早くしねえか!」
仲間の怪我に、さすがのパーシヴァルも忍耐の限界だ。白いモヤを飛ばして室田を掴んだ。
「幽体!?」
驚いている室田を意に介さず、引っ張り込んで幽体を戻す。
「お前がいたらラクベスが力を出せねえんだよ」
邪魔すんな!
「なんなんだよ、おまえら」
やおら怒られて室田も面白くない。
パーシヴァルは室田の問いかけに少しのあいだ思案して、
「霊術士だよ」
「なんだよ、それ」
ただの外国人じゃねえのかよ。
聞き慣れない言葉に顔をしかめる。着ているマントには何やら不思議な力が付与されてでもいるのだろうか、見つめていると心が妙にざわついた。
「お前は、あいつを倒せない。俺たちは、倒せる」
念を押すように手まで使って説明する。
「あんな悪霊くらい──」
「あれは悪霊じゃねえよ。人間だ」
室田はそれに、黒い塊を凝視した。
「嘘だろ。あんな禍々しい奴が?」
人間が、あんなものになれるのか?
黒いもやを纏い、輪郭がはっきりしない影は血のごとく真っ赤な目をぎょろつかせ、まるで獣のように這いつくばって眼前の人間を見上げている。
あれを人間だなんて、どうして思える。
「魔物化が始まっている。逃がさないようにしてんだから、余計なことはするんじゃねえ。ここで大人しくしてろ」
言い捨てて表情を苦くした。
「それなら、俺の結界が」
「お前の結界は初めから役に立ってねえよ」
「なんだと?」
「弱すぎてあいつには効力がない」
むっとした室田には視線を向けず、ラクベスと対峙している影にあごを示す。
「なんなんだよ、こいつら」
室田は口の中でつぶやいた。
それなりに霊能者としてやってきて、それなりに普通の人間とは違った経験をしてきた。見えないものが見えるというだけで、畏怖の念を抱かれてきた。
その俺がいま、まさにこいつらに畏怖している。
──赤い瞳は、見下ろす碧の目の決意を感じ、若干だが気後れしていた。
「石動 春仁」
ラクベスはゆっくりと男の名前を発し、バッグからマントを取り出して刺激しないようにとそれを羽織る。
本来なら、追い詰めているあいだにするはずの作業であったが影の動きがあまりに速く、その余裕がなかった。
ラクベスは己の不甲斐なさに奥歯を噛みしめる。
「相手は人間なんだろ? どうするんだよ」
「俺たちは人間相手にも訓練を受けている」
どうしてそんな訓練が必要なのかと、室田はパーシヴァルを見つめた。
「あらゆる状況に対応出来るようにな」
こういう場合にも役に立つ。まあ、お前の登場にいささか狼狽えちまったがと肩をすくめた。
答える前に浮かべた笑みは、彼らの背景にある何かしらの重たいものなのだろうと室田はそれ以上、尋ねることはしなかった。
何より、たったいま起きていることを追うだけで脳が手一杯だ。自分にはまったくなかった世界に飛び込んでしまったことに、室田は少しの後悔を覚えた。
しかし、今さら逃げ出せない。逃げたくない。
逃げたいと思いながらも、心の底ではこれを見届けたいと心臓が高鳴っている。ラクベスという青年がどう闘うのか、室田はそれが見たくて仕方がなかった。