犬神彰の良くわかるかもしれない日本史 ~ 源平合戦は平平合戦である
こんにちは、犬神彰です。
世間一般ではよく言われる「源平合戦」ですが、
これ、実は源平合戦じゃなくて「平平合戦」なんですね。
源氏が平家を倒したんじゃなく、地方に土着化した平氏が平家を倒したの。
もっと正確に言えば、関東に流刑されてきた源頼朝を神輿に担いだ地元の平氏が、
京都で権勢を振るっていた伊勢平氏=平家を倒そうとして挙兵したのが源平合戦の実態。
元々関東は坂東八平氏と言うくらい、平氏が根を張っていた土地だった。
平将門公が挙兵して武威を振るえたのはそれだけ関東で平氏が勢力を誇っていたからなんですね。
それくらい関東は平氏王国だったから、
同じ平氏の流れである平家の棟梁、平清盛が安心して源頼朝を流罪にしたんだけど、
こんなことができたのは、関東に土着した平氏の間では都の政治権力に対する不満が渦巻いていたことに気付けなかったからなんですね。
平家に非ざれば人に非ずで有頂天になってたから、清盛には地方武士の不満がわからなかったんだ。
そういったところでつまづいた平家が木曾義仲の挙兵で都を追われ、頼朝を神輿に担いだ坂東平氏が義仲を討って壇ノ浦に平家を滅ぼして、これが平家物語の結末なんですね。
さあ、平家を滅ぼしました。
でも、それで終わりじゃなくてここから源家物語が始まります。
関東の平氏に担がれて晴れて征夷大将軍になった源頼朝が鎌倉で武家の政治を始めますが、
頼朝自体は都生まれの人だったので、次第に都とその文化が恋しくなっていきました。
簡単に言うと、源頼朝は白塗りの麻呂になっちゃいます。
本当に白塗りにして「~でおじゃる。オホホホ……」と言ってたのかどうかはわかりませんが、頼朝が重力(都)に魂を引かれていったのは間違いありません。
ここで「さあ、大変」と危機感を抱いたのは北条政子を頼朝の嫁に送り出した伊豆平氏の北条氏でした。
自分達が担いだ神輿が勝手にヘンな方向に走っていこうとする暴走車両になっちゃんたんですね。これでは実家である北条氏まで責任を問われて関東の武士団の中で孤立しかねない。
そんな中、実に都合よく源頼朝は落馬して死んじゃいます。
これ、実は北条氏による暗殺で、共謀罪の主犯は頼朝の奥さんになっていた北条政子ではないかと言われています。
まさか、そんな、という意見もありますが、自分が産んだ二人の息子の頼家や実朝の死に際しての態度を見ているといちがいに否定はできないんですね。
さて、そんなこんなで源頼朝の子孫は子を残さずに皆死に絶えて源家将軍は頼朝、頼家、実朝の三代で何が何だかわけが分からないうちにあっという間に途絶えてしまいます。
源家の栄華は、自分が滅ぼした平家の栄華よりも短いくらいです。
そういうわけですから、平家の滅亡と違って源家の滅亡には華がありません。
こんな感じで源家物語はいつの間にか終わっちゃって、坂東平氏の興亡物語に移ります。
さて、こうして始まった平氏物語の主役は北条政子の実家である北条氏ですが、
北条氏には源平合戦が平平合戦だということをよく表しているところがあるんですね。
話は80年後に飛びます。
蒙古襲来、元寇に際して武家政権を率いた時の執権、北条時宗の執事に平頼綱という人がいますが、
この頼綱という人の先祖をたどっていくと、その父は平盛時で祖父は平盛綱。
尊卑文脈によればこの平盛綱という人は平資盛の子供で、平資盛は平重盛の次男。
平重盛は平家の棟梁、平清盛の嫡男です。
ちなみに平頼綱が「平」頼綱だったのは、苗字となるべき領地を分け与えられていなかったので名乗るべき苗字がなかったせいでした。
領地が与えられなかったのは平家の落ち武者だったからかもしれませんね。
それで話をもどしますと、これ、どういうことなんでしょうね。
源家の嫡流は三代で倒れると北条平氏が鎌倉の武家政権を掌握して得宗専制で権勢を誇ります。
そういう中で、滅ぼされた平家の子孫が北条氏の執事になって仕えています。
驕り昂るほどに栄えた平家を滅ぼした源家があっという間に滅び、源家を神輿にした平氏がその後政権を握って栄えました。
一方、源氏の血筋は義仲にしても、頼朝にしても、義経にしても、賑やかし要員ではあってもメインディッシュにはなってはいません。
一時は華々しく注目を集めますが、歴史の流れの中で見ていくと主流にはなっていないんですね。
そういうことを見ていくと源平合戦は平平合戦であったとしか言いようがないんですね。これが。
一度、宇能鴻一郎風の文体で異世界転移モノが読んでみたいなぁと思います。
わたしはピッチピチの男子高校生。
年は17歳なんですけど、わたしのクラスごと異世界に召喚されちゃったんです。
あこがれの異世界召喚だったのに、筋肉ムキムキでツルッパゲのおじさんがいきなりわたし達に迫って来たからびっくりしちゃって。
……とかそんなの。