祖母と孫。
大学3年、夏。
まだ月はじめだというのに、財布の中にはほとんど金は残っていなかった。
理由は分かってる。 4月の新学期になっての教材費と、新歓コンパで新入生たちに酒をおごりまくったからだ。 そしてその後のGWで仲の良い友達4人でちょっと遠出の旅行。
とはいえ気前よく奢ったかいあってか、俺好みの可愛い新入生もサークルに入ってきたし、旅行も楽しかったので後悔はしていなかった。 ただ、現実的に金が無いので仕送り日まで節約に節約を重ねて生活しなきゃな、ってだけの話。 一浪して県外の大学に進学した俺は親に沢山迷惑かけたので追加で仕送りしてくれなんて申し訳なくて言えない。 単発バイトでも探して当面を乗り切るつもりだった。
激安スーパーでモヤシと豆腐を買って帰宅。 最近は暑いし冷ややっこ丼にしようかなと思う。
むんとした熱気に耐えながら俺は今住んでいる「裏野ハイツ」へついた。
ここは住みやすいところだった。 ま、少しボロイので友達を呼びたくないってのが難点だけど、逆に友達を連れてきて騒ぐことが無いおかげでハイツの住民とはそれなりに円満な関係が築けていると思う。
友達のところなんか下の階の部屋の住人から床を棒か何かでつつかれたり、ごみ出しのマナーがなってないと(マナーは守るべきだとは思うが)出したゴミを中年の禿げた頭の管理人に外で広げられて――ターゲットになったのは女の子だったのだけど――まぁ、色々見られたくないものとか見られたとかトラブルを聞いていたので、友達を呼べなくて正解かな、とも思う。
ハイツの103号室の前では30代のごく平凡な顔立ちの奥さんが201号室のお婆さんと立ち話をしていた。 103号室の男の子は3歳くらいで、奥さんとお婆さんのすぐ側で3輪車にまたがって母親たちの話に参加しているかのようにじっとしている。 俺が3歳くらいの時ってライダーごっこと称して走り回っていたのと比べたらこの行儀の良さは雲泥の差だ。
「あら、おかえりなさい」
奥さんが最初に俺に気づいて声をかけてくれた。 続いておばあさんも。 3歳の男の子も奥さんに促されて恥ずかしそうに「こんにちは」と言う。
こんなに穏やかに扱われたら、実家では近所の人とすれ違っても挨拶なんかしない俺でも、「こんにちは」と素直に言える。
「うちの子、うるさくして、あなたのお勉強の邪魔になってない? その時は言ってね」
「あ、大丈夫です」
老婆が目を細めて男の子の頭を撫でた。
「たっくんは大人しいから五月蠅くしたりしないもんねぇ。 奥さんも叱ったりしないでしょ?」
「いいえ、家の中では時々騒ぐから大声で叱ったりもするんですよ」
奥さんが手を大げさに振って否定した。
「えっ、ほんとですか? 全然聞こえませんよ。 それに少しくらいうるさくっても大丈夫です。 俺、勉強してませんから、そもそも邪魔になりません」
「あらあら。 うふふ。 ちゃんとお勉強はしなさいね」
そう穏やかに笑う。 とてもいい人だ。
「いやあこんにちは」
そこに50代の男性が帰宅してきた。 この人は父親と同じくらいの年頃だけど、すこし洒落ていて外資系で勤めているような凛々しさがあった。
「暑いですねぇ。 どう? 大学は楽しんでる?」
「はい」
「いいねぇいいねぇ。 大学は楽しむところだよ。 若いうちに沢山遊んで沢山経験するんだよ。 ――おや、それは夕食? 懐かしいなぁ。 私が大学生の時も金がなくて豆腐やモヤシは重宝したもんだ」
「あらあら。 大丈夫? ちゃんとご飯、食べてるの?」
まるで本当の甥っ子か親戚のように気軽に声をかけてくれる。
「203号君は、肉じゃがは食べきれるかい? アレルギーは?」
お婆さんが言った。
「あ、食べきれますよ。 アレルギーが無いのが自慢です」
「あら、じゃあ」
奥さんが我がことのように顔を明るくして201号室さんに目を向けた。
その視線を受けて、少し遠慮がちにお婆さんが言う。
「私の作った、肉じゃががたくさんあって、いま103さんにおすそ分けしたところなんじゃが、よかったら食べるかい?」
「美味しいのよ~」
「いいねぇいいねぇ。 私も食べたことはあるよ。 絶品だ」
二人にそう勧められると断りにくく、俺は素直にいただくことにした。 貰ったそれは、おばあちゃんの肉じゃがという感じで旨かった。
翌日、朝から大学に行くついでに器を返そうと器片手に部屋を出たら、ちょうどゴミ捨てのついでに立ち話をするお婆さんと奥さんがいた。
「昨日はごちそうさまでした」
軽く会釈して器を返すと、今どきの子にしてはちゃんとしている、と褒められる。 出勤時間帯に重なっているせいだろうか、50代の男性も部屋から出てきた。
「おはようございます、みなさん。 どうだい203号室君、美味しかっただろう」
「ええ、はい」
「いいねぇいいねぇ。 私もここに住み始めて一人者だった当初は何度かお宅に上がり込んで晩御飯を御馳走になったもんだ。 懐かしいねぇ」
「私も息子を産んですぐ、両親が手伝いに来てくれなかったから201号室さんには色々世話をやいてもらって」
「いいんだよいいんだよ、身寄りのない年寄り一人暮らしだもの。 ここに住み始めた頃はハイツの住人全部あつまって表でバーベキュー大会をしたこともあるんだよ。 あの頃は今みたいに火にうるさくなかったからねぇ。 今じゃすぐ消防車を呼ばれておしまいだね。 それよりこんな婆さんを相手にしてくれてホントにうれしいよ」
「あら、本当に助かってるのよ、水臭いことおっしゃらないでください」
「うれしいねぇ」
和気あいあいと会話が弾んだ。
「203号くんも今度、お友達でも連れてお婆さんに夕食でも御馳走になったら?」
「え」
「いいねぇいいねぇ。 私たちも参加したいが、若い人はやはり友達と一緒のほうが気を使わなくていいだろう」
「これこれ、101号さん103号さん、203号さんが迷惑だからそういうことは言うものじゃないよ」
俺は考えた。 正直、金欠の俺としてはタダ飯はありがたい申し出だ。 このハイツの住人で202号102号室の人は会ったこともない。 間違いなく101、103の二人はいうなればカースト上位だ。 とするとこの二人が太鼓判を押しているんだ。 友達を連れてきても、苦情を入れられる可能性はほとんどないということだ。 それに、もしかしたらこの婆さんは。
「友達に聞いてみます。 仲良くしてるのが3人いるんですけど4人でお邪魔するのはやっぱり失礼ですよね?」
「にぎやかだから構わないよ」
「いいねぇいいねぇ。 楽しそうじゃないか」
「あらすてき」
朝からとても盛り上がった。
その日の夕方、俺はお婆さんの部屋をノックした。 婆さんなので動きが鈍く、出てくるまでに時間がかかる。 婆さんは出てくるとお茶でも、と言って俺を部屋に招き入れた。
部屋は線香臭いんだろうなと勝手に想像していたら、全くそんなことはなかった。 リビング仏壇というやつだろうか、部屋の隅に小さな箱が飾られていた。
「私は若くして夫を亡くしてね。 一人息子がいたんだけど8年前に事故でね。 孫が一人いたんだけど息子が離婚したときに嫁が連れて行って……別れた頃が101号室のぼくくらいの年頃だったから、もうずっと会ってないし、会うこともかなわないよ。 5年くらい前かね、孫が高校を卒業するというからせめてお祝いをと嫁の実家に連絡を取ってみたんだよ。 そうしたら、もうあの子はこの世にはいません、だって……。 だから迷惑だろうなとは思いつつも世話を焼いてしまうんだよね」
確かに頻繁な差し入れや好意は嫁の立場からしてみたらストレスこのうえないのかもしれない。
何にしろ、本当に天涯孤独ということが分かればなによりの収穫だった。
「じゃあ、3日後の金曜の夜にお友達3人連れてくるんだね?」
「はい。 ご迷惑でなければ」
「迷惑なんて。 言っただろう? 私は寂しい婆さんなんだよ。 にぎやかな夕食なんて嬉しいじゃないかい。 でも、1回かぎりにしておこう」
「え、どうしてですか?」
「次があると思えば期待するし、次が無いと決まってなければよけいな気を回して無理することもないだろう? 1回かぎり、そう決めておけば、もてなしに満足しようがしまいが、次が無いからこそ満足してもらったと思う事ができるし、あんたも遠慮なくお邪魔できるだろう。 嫌だろ? 社交辞令でまた呼んでくださいといったばかりに、毎週毎週、今週はどうだいと誘われるのは」
「まあ……おばあさんがそれでよいのなら」
「いいよいいよ。 ああ、そうだ。 せっかくだから一つだけお願いしてもいいかね?」
「何でしょう」
「お友達は203号室くんと同じ年頃の子で、男の子も女の子もいるんだろう?」
「はい、女の子2人、男1人です。 サークルのメンバーなんです。 彼女とかじゃないですよ」
「じゃあ、202号室の子にも声をかけていいかね?」
202号室。 気配はすれども姿を見たことはない。 干してある洗濯物から俺とそう年齢の変わらないであろう若い女性だということだけ推測できた。
「いいですよ。 俺、挨拶に行っても留守みたいで会ったことないし」
「ちょっと人前に出たくないってわけありの子でね。 せっかく若いんだから同じくらいの年頃と接してほしくてね。 ああ、もろちん202号室がいやと言えば来ないだろうけど」
「くるって言ったらいいですね」
「ありがとう」
世話好きのばあさんのことだ、心配してたのだろう。
そんなことを思いながら俺は婆さんの部屋を後にして202号室の前を通って203号室の自室に戻る。
いつもひっそりとしている202号室の前を通った時だ。
いきなり扉が勢いよく開き、白い手が俺の手を掴んだ。 びくっとして見ると。
「あの婆さんには近づくな」
かすれる様な早口で女の声がした。
「えっ」
驚く俺の手をはじくように離し、勢いよく扉が閉じられた。
手を掴まれた感覚があるので、夢ではない。
それでも俺は夢を見たかのようにしばらくその場に立ち尽くした。
扉の隙間から見えた暗闇に浮かぶ隣人の顔は。
恐ろしく美しかったのだ。
***
親元を離れて生活している友達も食事会には乗り気で、その週の金曜日にはさっそく食事会が開かれた。
201号室さんは、俺たちが来たのがとても嬉しかったのだろう、すき焼きを御馳走してくれると言った。
食事はすき焼きだけではなかった。 肉じゃが、白和え、トンカツ。 「若い人がどれだけ食べるか何がたべきれるか分からなかったから」という老人らしく、本当に久々に孫を迎えるかのような張り切り具合だった。 ビール、焼酎。 酒も沢山だ。
俺たちは遠慮するよりも喜んで食べたほうが201号室さんが喜ぶと思い、喜んで箸をのばした。
味は確かに旨かった。 少しだけ実家が懐かしくなる。
「ちょっとどいて」
少しかすれた声で俺の後ろを女が通った。 「すんません」と言いながら俺は身を小さくする。
女は202号室の女だった。 すこし身長が高めの細い女だ。 ストレートの黒髪は肩の付近でぱっつんと切られている。 細いけれど体幹はしっかりしている感じがして弱弱しくはない。 ただ、やはり彼女は抜群に美人だった。
「202号室さんも年は同じくらいでしょ、仲良くしてあげてね」
はい、と元気よく返事をしたのが男性陣だけというのがすこし滑稽だった。
俺とつるむ女の子たちは自分より遥かにランクが上の女に少し敵対心を抱いているようにも思えた。
沢山食べ、201号室さんとも沢山話す。 最近関節が痛いとのことなので、女友達1がバイトで販売しているサプリメントを勧めた。 サンプルを丁度持ってきていたので渡す。 すこし酒も回りはじめてきた。
「きやっ!」
小さな悲鳴とともに、俺と男友達1のズボンにテーブルの上の酒が大量にこぼれた。
「あらあら、大丈夫かい、早く脱いで脱いで」
201号室さんが慌ててバスタオルを2枚持ってきた。 手が滑って酒をこぼしたのは202号室さんだった。 両手を合わせてゴメンナサイと謝る姿がかわいいので怒る訳にもいかなかった。
ズボンは201号室さんが歩いて10分のコインランドリーに持って行って洗ってきてくれる、と言い出した。 当然断ったが、まだ夜も更けていないし、小一時間で済むから若い人同士で話しなよ、と201号室さんは嬉々として家を出て行った。
そうか、202号室さんと仲良くなって欲しいんだ。
それに気づいたからこそ、好意に甘えた。
201号室さんがいなくなった途端、女友達1と2が素の顔を出し始めた。
「203号室くん、かなり気に入られてるわね」
「まーね、俺、好青年だから」
「言う~。 あ、さっきはサプリ勧めてくれてアリガト。 今月のノルマ、達成してないから助かったわ」
「どういたしまして」
「継続会員になってくれたらいいんだけどなぁ。 結構高いから、どうかな」
「家を見る限りあんまりお金もってるようには見えないよね。 家具も普通だし」
案の定、こいつらはちょっと高めの健康食品を売りつけられないか考えていたようだ。
「天涯孤独だから横やりは誰も入れないと思うけど、同じハイツの人なんだから俺がここに居づらくなるような販売はするなよ」
思わず釘をさす。 その時だった。
「お婆さん、めちゃくちゃ金貯めこんでるわよ」
202号室さんが皿を片付けながらぼそりと言った。
「そこの棚の上、小さい仏壇があるでしょ、その仏壇の引き出しを開けてみてごらんよ」
えー、そんなぁ、勝手に~、と女友達1と2は言いながらも、好奇心から言われるがままそこに行き、引き出しを開け、「ひっ」と声をつまらせた。 やはり他人の部屋を勝手にあさるのは良くない。
「おいお~い、やめとけってば」
「いいから、ち、ちょっと来てよっ、すごいからっ!」
「はぁ?」
女達が慌てたので腰にバスタオルを巻いたまま俺たちも側に行く。
引き出しの中には通帳が数冊。 そのうちの一つを女が開いて、残高の欄を指さした。
「桁が、1、2、……あ、800万か、結構貯めてるじゃん」
「馬鹿、よく見て、桁は8つ、8千万よっ!!」
「うっそっっ??」
「やばい、こっちの通帳にも1千万入ってる」
「こっち、500万」
「こっちは1500万だぜ??」
コツコツ、コツコツと貯めたのだろう、年金の文字がずらりと並ぶ。 中には保険の解約金か何かだろうか、100万という大金がいきなり振り込まれていたりもした。
「めっちゃ貯めてるでしょ?」
202号室さんがクスクスと笑った。
****
俺はその日からゲンキンだなと思いつつも、201号室さんと仲良くなった。 仲良くなったといっても前みたいに挨拶をし、立ち話をし、201号室で晩飯をたまに御馳走になり、美味しいものを食べに連れて行ってもらったりした。 一人じゃお店に悪いからと遠慮していたとのことだったので、コース料理やバイキングにもご一緒した。 女友達1は大量のサプリメントを売りつけた。 定期購入こそしてくれなかったが、グルコサミン、コンドロイチン、カルシウム、ビタミン、コラーゲン、どれも「爆買い」レベルの購入だったので女友達1はトップの成績を残すことができた。 女友達2は自分のバイト先であるブティックに201号室さんを連れていき、服やアクセサリーを買わせたようだ。
せっかく綺麗な服を買ったから旅行に行きたいわと言うので、箱根温泉に一緒に行った。 もちろん部屋は別だけど料金は201号室さん持ちである。 俺は201号室さんと一緒にいると、父方の祖母を思いだした。 幼かった俺の要望を何でもきいてくれた優しい祖母。 大学に入って実家を出てから連絡をほとんどしていないことを申し訳なく思った。 201号室さんと同じで一人暮らしの祖母。 どんなに寂しいことだろう。 俺は久々に祖母に連絡をとった。 ばあちゃんは電話があったことすごく喜んでくれた。 ばあちゃん孝行もいいな、と思った。
3ヶ月たって。 俺はだいぶん遠慮がなくなった。 バイトしなくても201号室さんが小遣いくれたし、誕生日には30万くらいする時計もプレゼントされた。 もちろんしてもらってばかりではダメだと思い、もらった小遣いで露店のキーホルダーとか買って渡した。 201号室さんはちょいちょい大学付近まで散歩に来るようになったので、ばったり会ったときは買い物の荷物をもって一緒に帰ってあげたし、文化祭では、手作りアクセサリーのところで売れ残っていた指輪を見て「あの売り子さんが可哀想だね」といたく同情していたので買ってあげた。
俺はとても老人想いの好青年だと、自画自賛した。
その頃、男友達1と女友達1、2が「予定があわないから」と一緒につるむことが減ってきた違和感に気づかぬまま。
たぶん3ヶ月で100万は201号室さんにお金をつかわせたと思う。 それでもまだ婆さんの預金は腐るほどあるので心が痛むはずもなかった。
ああ、ただ。
心は痛まなかったけれど、なんだか周囲の視線が変だなっては、気づいてた。
ま、ポンポン金だしてくれるばあちゃんがいて羨ましいって視線だと、信じていた。
ある日。
俺はサークルに足を向けた。 今日はサークルはないと知っていたが、部屋に置いたファイルを取りに行ったのだ。 部屋の前で、中から人の話す声がした。 声は女友達1と2、そして男友達1だった。
「ほんと……やりすぎだって」
「金ってこわいねぇ」
誰の話だ、と聞き耳をたてた。
「203号室君**がそんな奴だって、びっくりだよな」
――俺?
俺が慌てて扉を開けると女友達1、2はキャッと小さく飛び上がって、「ま、まあ、いいと思うよ」なんて誤魔化しながら逃げるよう部屋を出て行った。 取り残された男友達1に俺はつめよった。
「陰口かよ」
「っていうか、まぁ、俺たちはついていけない、ってだけ?」
「はっ?! 気前よく金くれる婆ちゃんがいて羨ましいだけだろ?」
「ぱーっか、羨ましくなんかねぇよ。 死んでもお前になりたかねぇわ」
「はっ? 負け惜しみがっ」
「負け惜しみ? いやもう人生終了なお前に対してどう負けおしめと」
「――はっ?」
男友達1はかなり冷静に見えた。
「俺たちもう就活だぜ? あ、お前は201号室さんがいるから働かなくてもいいだろうけどさ」
「何言ってんだよ、働くにきまってるだろ、就活するに決まってるだろ」
「はいはい。 お幸せに。 手段選ばない奴が就職なんかできるのかね」
「なんだてめぇ!?」
「フェイスブックで201号室さん♪」
男友達1はにやりと割ってそう言うと俺を突き飛ばすようにして部屋を出ていた。
――フェイスブックで201号室さん?
その謎の言葉に首をかしげて、俺はスマホを取り出し、フェイスブックで201号室さんを検索した。
「わああああああああああああああああああああっっっっっっっ!!!!!」
そこに写っていたものはとんでもないものだった。 しかもイイねの数は1万を越していた。
201号室さんが写真3件を追加しました。
*月*日
歳がこんなに離れていても大事にしてくれる203号くんを愛してる(はあと
201号室さんが、まるで婚約会見の写真のように頬の横で文化祭で買った指輪を左手の薬指にはめてポーズしている写真。 指輪のアップの写真。 指輪にキスする201号室さんの写真。
201号室さんが写真4件を追加しました。
*月〇日
二人で温泉旅行♪ ここのお風呂は混浴なのよ(きゃあ☆ はずかしい
浴衣姿で胸をきわどいところまではだけさせた201号室さんの写真
旅館の風呂の写真
浴衣を着て廊下を歩く俺の後ろ姿の写真
旅館の豪勢な食事の写真
「え、え、……何だよ、これ」
俺は貧血を起こしそうになりながら画面をスクロールさせた。
まさか201号室さんが俺にそんな感情を抱いて勘違いしていたとは。 指輪だって、旅行だって、ただの「婆さん孝行」なだけで深い意味はないと伝えなければ。
確かにこのフェイスブックを見る限り、201号室さんは俺にべたぼれで、――そう、俺が201号室さんをだましているように男友達1達が勘違いしても仕方はないだろう。
それにしても少し考えればわかるだろ? 老い先短い婆さんの妄想だってことくらい。 22の男と78の婆さんなんてつきあうはずないじゃないか。
早く帰って201号室さんと話し合おう、そしてこの写真を削除してもらおう。
なんだよ、あの婆さん、俺に気があったのかよ。
だから飯を食わせてくれたのかよ、女友達のノルマ売り上げに協力してくれたのかよ。
年齢を考えろ、年齢を。
「歳の差があっても愛し合えるってステキです」みたいにコメントしてんじゃねーよ、知らねぇ奴。
「応援します」とか、絶対に嘘だろ、この――同じ学校の奴???
ちょっと待ってくれ、学校の奴らにばれてるのか? 止めてくれ止めてくれ。 これは写真削除だけじゃなくて「訂正文」をUPしてもらわないと誤解されたまんまだ。
でもなんでみんな馬鹿みたいに信じ切ってるんだ? 婆さんと大学生なんて関係もてるはずがないことくらいちょっと考えれば――
「え?」
勢いよくスクロールしすぎた先に、それがあった。
201号室さんが写9件を追加しました。
△月*日
結ばれました。(*ノωノ)キャー
年の差も関係ないと言う、彼のその熱意にうたれました。
何十年ぶりかに女になることができました。(≧∇≦)b
203号室君、若いけど張り切りすぎて爆睡中♪ そんなに気持ちよかったのかな?
俺の部屋の写真。
俺の脱ぎ散らかした服の上に女物の下着が置いてある写真
俺の手に恋人握りでつながれたババアのしわしわの手の写真
赤い薔薇の写真
封が開けられたゴムの写真
パジャマの前をはだけさせてベッドに寝そべる俺の写真
俺の胸に顔をうずめて自撮りしている写真
そして。
俺が上になって、俺の唇と婆さんの唇がべっとりと引っ付いた――キスの写真。
さらに。
スタンプでぼかしてあるけど、まるで婆さんが俺のものを口で咥えているように、いや、そうとしか見えない写真――!!!!
「ヴっ」
胃液が急に上がってきて俺は慌ててトイレに駆け込んで吐いた。
気持ち悪い、おぞましい。
でもどうして?
俺は一度も201号室さんとそんな関係になったこともないし、部屋に上げたこともない。 だけど確かに写真は俺の部屋で写真の人物も俺だった。
抑えきれぬ吐き気と闘いながらトイレの個室にこもっていると、誰かは知らない学生が笑いながらトイレに入ってきた。 二人は俺がここにいることを知らないのだろう、小便の雑談がてら話をはじめた。
「マジ? 応援してますとかコメント書いたの?」
「マジマジ。 ほら、歳の差があっても純愛は応援すべきじゃん?」
――お前か? あのコメントはお前なのか?
「嘘つけ。 絶対に金目だろ。 あいつの友達が言ってたけど、婆さん、億ちかい貯金があるらしいぜ?」
「億か~。 捨てがたいな~。 でも俺はあんなバーさんとヤれねーなー」
「しかもかなり頻繁にやってるよな」
「相当いいのかなぁ?」
「全世界に実名配信だぜ? そのうちテレビ局が取材するんじゃね?」
わははははは、とふざけた笑い声がトイレに響き、奴らは出て行った。
俺は幽霊みたいにゆらりと誰もいなくなったトイレから出て、人目を避けるように大学を後にした。
よろめきながら歩いていると、途中からふつふつと怒りがこみあげてきた。
怒りの力は俺を全力疾走させ、俺はあっという間に裏野ハイツに辿り着き、201号室さんの部屋へ倒れこむように入った。
「あらあら203号室ちゃん」
今となってはこのちゃん付けの呼び方すらおぞましくて仕方ない。 俺は201号室さんの胸元を両手で掴んだ。
「ふ、フェイスブック……、な、何なんだよ、あれ! 」
「ああ、あれ? 気づいちゃったの? 素敵でしょ」
201号室さんはニコリと笑った。
「沢山の人が応援してくれてるの。 頑張ってー、幸せになってー、って。 ありがたいわよねぇ」
「何笑ってんだよ! さっさと削除しろ、いや、してくださいよ!」
この婆さんはネットに疎いせいで自分のしたことがどれだけ重大なことなのか理解していないと思った俺は、すこし冷静に、途中から優しくお願いするような言い方に変えた。 何しろこの婆さんは俺にベタぼれなんだ。 怒るよりも諭すほうが話が早いはずだ。
婆さんは一度パチクリと目を見開いてから、ニッコリと微笑む。
よしやった、分かったくれたらし――
「い・や・よ♪」
まるで10代の女子高生のような口調で婆さんの口から拒否の言葉が出る。
「ど、どうしてっ?」
「だってぇ」
婆さんは俺の前からするりと逃げだすと、くるりと半回転して背中を向け、顔だけ見返り美人のように振り返りながら、右人差し指を一本口元に当てて気持ちの悪い上目遣いで俺を見た。
「楽しいのよ」
「えっ?」
「イイねの数が増えていくのがとても楽しいのよ。 大勢の人がイイねだけじゃなくてコメントしてくれるのよ。 こっちから何がしてあげたらお節介と顔をしかめるような職業や年齢の人まで、お節介にも応援してくれるのよ。 ああ楽しい。 アップする度にイイねが全世界にどんどん増えていくの。 奇跡だわ!」
ダメだ。 ネットの反応が刺激的だったのだろう、ババアはまだ夢の中みたいだ。
「でもですね、俺と貴方はフェイスブックに上げられていたような関係じゃありませんよ?」
ババアは心外とばかりに真正面からこちらを向き、眉を寄せて頬を膨らませる仕草をした。
「そんな関係よぉ。 旅行にも行ったわ、指輪も買ってくれたじゃない。 あちこちデートしたわよね? これを付き合ってると言わずに何なのかしら? だから私は203号ちゃんが望むまま、高級な時計も買ってあげたし代金も私が支払ったのよ。 お友達の女の子の進めるくだらないサプリメントも買ったのよ。 ぜんぶ203号室ちゃんの立場を立ててあげたのよ。 違うというなら全部返してくれるかしら?」
やはりとは思ったが、覚悟のうえだった。
「返します。 時計も返すし、今まで俺に使った額がいくらかは知りませんげとちゃんと返します。 だから」
そこまで言うと俺の言葉を遮るように201号室さんが天井を見上げてのけぞるように高笑いした。 呆然とする俺を尻目に気のすむまてせ201号室さんは笑うと、目を三日月のように細くしたまま、ゆっくりと顔を下して俺を見た。
「フェイスブックの写真」
「?」
「不思議だと思わなかった?」
「……」
201号室さんは手品師のように鍵をひとつ、ひょいと目の前に出した。
俺は自分のズボンのボケットに手をあてる。 俺のカギはある。 だけど。
「最初うちに飲みに来たときに、洗濯のついでに合鍵を作らせてもらったよ」
スッ、と血の気がひく。
婆さんは宝物のように大事そうに鍵を胸に抱いて、横目で部屋の隅にあるアルミ缶に視線を向けた。
「としをとるとね、病院がたぁんまりと薬をくれるのよ。 一人じゃ飲みきれないくらい。 胃薬風邪薬……そして眠れないと何度も言えば睡眠薬もね。 おかげでウでチお腹いっぱいになって部屋に戻った後は何しようとも朝までぐっすりだったでしょ?」
胃酸が喉元まで上がった。
「203号ちゃんは覚えていなくても、私は楽しませてもらったわぁ。 寝ている身体を動かしてポーズとらせるのはちょっと重かったけど、あるのよぉ。 もっと過激な二人の愛の時間の写真も。 そうそう、私が寝ている203号ちゃんに上からキスした写真も上下さかさまにしたら、まるで203号ちゃんが情熱的に迫ってるように見えたでしょ? あの写真は傑作だったわぁ」
婆さんの言ってることがすぐには理解できず頭がクラクラした。
「ああら、よいお顔」
ババアがそんな俺の顔を舐めるように見つめ、ささやいた。
「私がここまで楽しんでるのに、勘違いがあると思って?」
――このババア!!!!
瞬間的に頭に血が上って俺の両手がババアの首を掴んで力を入れた。
「か…はっ」
ババアの目が見開き俺の手をはずそうと手首をつかんだ。
知らねぇ、死ね、死ね、死ねっっっ!!
俺が力を強めると、ババアはにたぁりと口角を上げてわらった。
「殺したければ、ころすがいい」
力を込めてるのにババアは声を出した。
「どうせあと何年生きるか分からない、何の楽しみもない婆さんさ。 殺されたって私はなぁんにも痛くない。 でもあんたは違うね。 こんなおいぼれを殺して、おいぼれの残りの寿命より長い時間を、お前さん
の大事な人生すべてを、私を殺したという罪を背負って生きるしかなくなるんだ。 死ぬまでその事実が消えないのなら、結婚とおなじだね。 さぁ、お前さんの人生に私を刻み込むがいい! たのしいねぇ……」
説得するわけでもなく、諭すわけでも、悲しみ、怒り、そんなものでもなく、本当に楽しんでいる口調にぞっとした俺は我に返り、婆さんの首から手を放すと突き飛ばし慌てて201号室を出た。
混乱からか、まともに前に進めない。 でもとりあえず自分の部屋、203号室に戻りたかった。 右に左に揺れ、壁に肩を当てながら進んだ。
202号室の前まできたとき。
いきなり扉が空いて、俺は中に引きずり込まれた。
思いのほか強い力で引き込まれたので尻もちをつくように俺は床に転がった。 202号室さんが俺を見下ろしながら吐き捨てるようにつぶやいた。
「だからあの婆さんには近づくなって言ったでしょ」
俺は肩を震わせながら頷いた。
202号室さんはため息をつくと膝をつき、顔を寄せた。
「どうせ婆さんだから、ネットなんかやってないって思い込んでたでしょ」
頷く。
「婆さんだから下心なんか無いって信じ切ってたでしょ」
頷く。
202号室さんは唇をかんで視線を逸らすと立ち上がった。
「私もそうだった」
「え?」
202号室さんは部屋の奥に進むとノートパソコンを起動させながら続けた。
「私、配信、やってたのよ。 有料のやつで、ちょっといかがわしいやつ」
パソコンの画面が白く光った。
「それ、あの婆さんにばれたことがあるの。 まったくやってらんないわよ、私の配信も身バレしないように気を付けてたんだけど、ダメだったしね」
202号室さんの指がキーボードをたたく。
「あの婆さん、実はものすごくネットには詳しくてさ。 写真の加工もページの立ち上げもお手の物よ。 だから今回のアンタのも、全部確信犯だから。 気に入られてご愁傷さま」
パン、と勢いよくenterのボタンを叩くと、202号室さんパソコンの画面をこちらに向けた。 そこは201号室さんのフェイスブックのページだった。
「あんたの人生、このままじゃ終わりよね。 でも助かる方法が一つだけある」
「な、何?」
「私、いつか仕返ししてやろうと思って探ってたんだよね。 私だって配信するくらいのスキルはあるんだから――ほら、わかる? これ、201号室さんのマイページなの」
「マイページってことは……」
「不正アクセスでログインしたのよ。 今なら文章や写真を全部削除することも、こっちに有利な内容で謝罪文を載せることも、そのあとパスワードを全く違うものに変えて、婆さんに内容を変更できないようにもできるわ」
目の前がぱっと明るくなるとはこのことだった。 俺が「お、お願いします」と言いながら四つん這いで慌てて近づくと、202号室さんは冷たい視線を向けてパソコンを閉じた。
「150万」
「えっ?」
「だから150万。 150万くれたら婆さんのページ、変更してあげる。 何よ、ただの訳ないでしょう? でも言い訳させてもらえるなら、これは私が婆さんに口止め料として払った金額なの」
「えっ?」
「言ったでしょ、配信が見つかったって。 それで今まで稼いだ儲け、全部口止め料として渡したのよ。 201号室の部屋で通帳見たとき、大金が振り込まれてたことあったでしょ。 あれ私。 だからホントに無一文。 引っ越したくてもお金もない。 私はあんたが150万くれたら損失も補填できるし引っ越しもできる。 あんたは周囲に言い訳がたち、人生やり直せる――悪い話じゃないと思うけど。 言っとくけどびた一文まけるつもりはないし、今は私の見つけたパスワードでマイページにアクセスできるけど、いつ婆さんがパスワードを変更するかは分からないんだからね。 変更されたらアウトよ。 時間はないわ」
俺はガクガクと頭を縦にふった。
150万。 大金だが用意するしかない。 俺は慌てて携帯を取るとばあちゃんに電話をかけた。 やっぱり実のばあちゃんは優しかった。 俺が泣きながら150万ないと大変なことになるんだ、助けてと懇願すると、ばあちゃんは今すぐ金を持って駅まで行くと約束してくれた。
そうして2時間後、ばあちゃんは本当に150万をもって最寄り駅の2つ手前の大きな駅まで来てくれた。 この駅でお金をもらう事を決めたのは、ここが特急が停まるということ、最寄り駅だと201号室さんに見つかる可能性があるから、もし見つかったら何か気づかれてパスワードを変えられるかもしれないという202号室さんのアドバイスに従ったからだった。
ばあちゃんはオレオレ詐欺かと心配していたが、直接俺に会えたので胸をなでおろしていた。
しっかりしなさい、と、お小遣いだと俺に追加で1万円くれた。
ありがとう、ありがとう婆ちゃんって俺は抱きついてお礼を言った。
俺は気配を消しながらそっと202号室にもどった。
202号室には鍵がかけてないからと言われていたのでノックもせずにそっと扉を開けた。
大丈夫、201号室には何も気づかれてない。
「お金は?」
部屋の奥にいた202号室さんが慌てて近づいてきた。 俺は震える手で150万が入った封筒をそっと差し出した。 202号室さんは封筒を少し開いて中を見た。
「150万、ありそうだね。 良かったね。 おばあちゃんに感謝だ」
俺はこくりと頷き、「さ、早く、パソコンを……」と促した。
202号室さんも頷き、俺をパソコンの傍に連れていく。 2001号室さんのフェイスブックのページを開く。 更新されていた。 内容は……なぜか500万もの札束の写真がアップされていた。 203号室くんとの結婚式の費用にと思っておろしてきた、とあった。 まだあのババアは嘘をつくのか!
怒りに震えながら画面を見つめる。 202号室さんがパスワードを打ち込む。 どうぞ、エラーになりませんように、なりませんようにと祈りながら俺は画面をじっと見つめた。
パン、と勢いよくenterのボタンが押されると画面が変わった。 これは――201号室さんのマイページだ!! やった、間に合った!!
「写真削除しなきゃね。 そしてお詫びの文章も投稿しなきゃ。 一気にやらないと気づかれるからまずはお詫びの文章を書いて」
202号室さんに促される。
お詫び――お詫び。 このフェイスブックに書かれたことは全部――嘘です、冗談です? いやがらせです??? どれがいい?? 何と書くのがベストだ?
「ちゃんと考えて。 201号室さんになったつもりで。 203号室くんが書いたのがバレバレな文章だと、今度は貴方は不正アクセスで訴えられるわよ」
それは困る。 断じて困る。
俺は前のめりになってパソコンに向かい合った。 落ち着け、落ち着けと言い聞かせながら必死に文章を考えた。
202号室さんが俺からそっと離れた。
そして隣の部屋に行くと、何かを持ち出し再び戻ってくる。
202号室さんの手がゆっくりと上にあがり、俺の首元に何かを押し当てた、次の瞬間。
バチバチッと音がして、俺は意識を失った。
202号室さんが持っていたもの。 それは、スタンガンだった。
***
202号室の扉が開いて、薄暗い部屋に入ってきたのは201号室の老婆だった。
老婆は床に横たわる203号室の青年を一瞥すると、軽く足で蹴とばして、202号室の美しい住人にそっと寄り添った。
「私がこの男に80万使ったから、今回のもうけは70万かい」
「うん、そう。 ありがとう。 ばあちゃん」
美しい住人の声はいつの間にかやや低い男の声になっていた。
老婆はニコニコと微笑むと美しい住人の頭を何度も撫でた。
「いいんだよ、いいんだよ。 ばあちゃんがお前に残してあげられるのは金だけだからね。 ばあちゃんは大事な孫のあんたのためなら何でもしてあげるさ。 この男はお前の父さんにまかせようかね」
老婆はスマートフォンを取り出すと、どこかに電話をした。
「これで大丈夫」
スマートフォンを閉じて、老婆は微笑んだ。
「ありがとうね、203号室さん。 楽しかったよ」
もう目を開くことはない彼に、優しい言葉が、かけられた。
めっさ久々の「なろう」への投稿。
久々すぎて色々やり方忘れてる……。
ご拝読ありがとうございました。 zecczecと申します。
ふと覗いた夏のホラー特設ページ。 「裏野ハイツ」という設定が設けられて、ベタな話を思いついたので参加させていただきました。
時間が足らず、登場人物の名前まで考えきれなかったです、すみません。