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死神と老将  作者: 黒田
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夫人と第9番

 -この曲を聴いていると、思い出すわね-

 夫人は夫の横に座りスピーカーから流れる曲に耳を傾けます。夫はというと、目を閉じて音楽を聞き入っています。

 夫人は、もう遠い過去の出来事になった結婚したての頃を思い出します。


 交奏曲第9番

 管楽器の強烈な不協和音から始まるこの曲。心が煽られるかのような不安さを誘う入り方。歓喜とは程遠い暗さと静けさ…。


 -私たちの結婚も、そうだったわね-

 夫人も目を閉じて聴きます。





 「僕と一緒にオーケストラに行きませんか」

 それがプロポーズの言葉だと理解するまで、(すみれ)はずいぶんと時間がかかりました。

 暗く狭いアパートの一室-菫がこっそりと「隠れ場」と呼ぶ吉田の部屋-で、吉田はまっすぐに菫を見つめて言いました。


 菫はこの頃の吉田の仕事が、分からなくなっていました。

 指揮者としてオーケストラの遠征公演に行く時もあれば、会場でチケットを売ったり売店で飲み物を売ったり、仕事がなくなったといって家でひたすら音楽を聴いている時もありました。


 「仕事が見つかったの?」

 と、菫は思ったことを口に出しました。

 が、吉田は、そうじゃないんだ、と大真面目な顔をして首をぶんぶんと横に振ります。


 「僕と、その、音楽を、これからも楽しみませんか」

 吉田は夫人の顔の横、後ろの汚れた壁紙を見るように視線を外して言います。照れたように、そして、それを菫に悟られないようにして。


 それで菫も気づいたのです。

 喜びが菫を包むと同時に、先の見えない不安が菫の背中を見つめているような気持ちになりました。





 『おお友よ、このような音ではない!我々はもっと心地よい、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか』

 再びの不協和音、それに続く切望した声がスピーカーから響きます。

 

 結婚式は数人の友人だけを招いた寂しい、しかし、幸福に満ち足りたものでした。式は『隠れ家』で催しました。友人たちが持ってきてくれた料理が並んだ食卓、弾けるような笑い声、スピーカーから流れる音楽…。暗くくたびれたアパートには似合わないものばかりが一堂に会したようでした。場違いな場所に連れて来られた食事たちは、どこか他所他所しい顔をしていると思い菫はとても面白かったことを覚えています。


 結婚から数年は貧しい生活が続きました。分かり切っていたことでしたが、指揮者で生活ができることは世界でもほんの数人-吉田はしばしば「神に愛された人」と言いますが-しかいません。『隠れ家』と愛着を込めた場所は、菫にとって次第に『牢獄』とも思えてきました。

 菫は吉田のいない『牢獄』でよく泣きました。時には静かに、時には声をあげて。


 泣き疲れたある日。菫は何に泣いていたのか、ふと分からない自分に気づきました。

 -生きるのに精いっぱいな日々、いつもお金に悩まされていた日々、暗くて押しつぶされそうに窮屈な部屋での息苦しい日々、喜びが自分を残して遠くに去っていくような悲しさを感じる日々…。もしかしたら、自分の境遇に?-

 そう思うと、なんだかおかしくなります。自分を苦しめているのは自分の心だと知って。


 それ以来、菫は泣かなくなりました。代わりにもっと夫と向き合おうと決意します。

 いまは悲しく心をすり減らす日々だが、いつか訪れる歓喜の時を信じて。夫が信じて見つめているものに、自分も目を向けようと思いました。





 声が1つ、また1つ重なり合い曲はクライマックスへ向かいます。テンポが速まり管弦楽の勇壮な音が鳴り響きました。

 -『歓喜の歌』-

 心の中で曲名を呟くと、目を開けて夫人は夫を見ます。夫はというと、まだ目を閉じています。隣にいる夫人を気遣ってか腕を広げずに、でも手だけを力強く動かして夢中になって指揮をしています。

 -私たちの人生みたいな曲-

 静かに笑みを浮かべて、夫を見つめました。


  

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