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死神と老将  作者: 黒田
3/4

夫人

 夕飯の食器を洗い終えると夫人はコーヒーをカップに注ぎます。自分と夫の2つのカップに入れられたコーヒーは湯気を立ち上らせました。豆の香ばしい匂いに包まれるとすこし幸せな気持ちを感じます。書斎から聞こえてくる音楽に耳を澄ましながら夫のカップに少しだけお砂糖を落としました。


 書斎では夫が音楽に聞き入っています。閉じた目は時々ピクッと動いていたので、夫人は眠っている犬を連想してにっこりと笑いました。コーヒーの良い匂いに気づいたのか年老いた犬は眠たそうに目を開けました。にっこりと笑う夫人に目が合うと照れたように横に反らします。夫人はそんな夫の姿から、また犬を連想してくすっと笑いました。


 「珍しいですね、あなたがピアノの曲を聴くなんて」

 そっと机にコーヒーを置くと、夫人は夫と向き合うようにソファーに腰をかけました。

 「チャイコフスキーの10月ですね」

 「今日、散歩をしている時に聞きたくなったんだ」

 「あら、ロマンチックね」

 夫はまた照れてしまったようで、黙って夫人の運んできたコーヒーを飲みました。

 「でも、私、この曲はあまり好きでないんです」

 ゆっくりと枯れて朽ちていく樹木を連想させるようなピアノの悲しく淋しい演奏を聴いて、夫人は正直に言いました。

 「聞いていると悲しくなるんです。ゆっくりと終わりが近づく気分になります」

 「そうか」

 夫はソファーから体を起こして音楽を止めました。その代わりに棚から一枚のCDを取り出して新たに機械に入れて再生ボタンを押します。


 弱く、でも長く伸ばされたバイオリンの奏でる音が流れます。弱弱しくゆっくりと単調な音が、でも次第に重なり合っていきました。重なる音は弱くでも時に力強くはっきりして、沈んだり浮いたりを繰り返していきます。

 「アダージョですか」

 「今日はこういう曲を聴きたいんだ」

 不満そうな妻の声に、申し訳なさそうな声で吉田は言います。夫人はというと機械を操作する夫の背中を見てにこりと笑っていました。何年か前、ラジオで偉い人が亡くなった時に流れたこの曲を夫人はあまり好きではありませんでした。しかし夫の正直な気持ちを前に、今日は我慢しようと思ったのです。

 弱弱しかった音はだんだんと増幅されていき、どんどんと高くなります。高まったかと思うとふっと静寂になり、また弱弱しく悲し気にバイオリンが音を奏でます。

 「今日はそんなに悲しいことがおありでしたか?」

 夫人はソファーに戻った夫に優し気に話します。

 「分からない」

 夫はソファーに腰を沈めると、少し考えてから答えました。

 「分からない。だけど公園で噴水を見ていると急に寂しくなったんだ」

 「隣に私がいたのに?」

 夫人は意地悪そうに、くすっと笑います。

 「違う、そうじゃない」

 夫の困り顔が見れて、夫人はすこし満足気でした。

 「一体、どうしたんですか?」

 「その、これまでのことと、これからのことを考えると急に、ね」

 夫は答えに困ったように、ゆっくりと一語一語確認しながら話します。

 「これまで私は指揮のことだけを考えていた。舞台で、控室で、帰りのタクシーで、家に帰ったからもここで私はずっとだよ」

 夫人は夫の顔を優しそうに見つめて、時々相槌を打ちます。

 「そして先月…。先月、私はあの考えにぶち当たった」

 「指揮ができなくなった、というあれですね」

 「そうだ。これまで指揮は人生だった。人生そのものだった。何の疑いもなかった。息をするように、歩くように、話をするように、指揮をすることは当然のことだったんだ」

 夫はこれまでの生活を振り返りながら、静かに力強く言いました。アダージョはすでに終わりラフマニノフが流れています。静かに清潔な音楽は、でも力強く奏でられています。


 「そのことは、あなたがとても悩まれて出した結論でしたよね」

 「もうこれ以上、私は私を音楽で表現できない。そう考えた」

 夫は顔を俯けて言います。

 「でも、私のどこかで別の私が言うんだ。『まだまだ終わるには早いんだ』って。そんな気がどこかでしてしまっている」

 夫人はコーヒーを一口飲みます。湯気はすでに消えて、すっかりと冷えています。

 「このままどっちつかずのままが一番恐ろしい」

 一気に言い終わると、ふうと長くため息を夫はつきます。上げた顔は少し疲れていました。

 「やめてよかったよ」

 夫人はコーヒーを飲み干してカップを机に戻します。

 「本当ですか?」

 夫は黙って夫人を見つめます。もう言わないでくれ、と目で訴えかけて困った顔をしています。

 「私はもっとあなたの音楽を聴きたかったわ」

 夫人は我慢できずに言いました。ですが言った後、少し後悔して、

 「でも、あなたの決断だもの。私はそれを受け入れるわ」

 と付け足しました。

 「ありがとう」

 夫人を優しく見つめて夫は言います。話疲れたのか、カップを手にすると冷えたコーヒーを一気に流し込みました。






 「ねえ、あなた」

 夫と自分のカップを手にしながら夫人は優しい声で目の前に座っている夫に話します

 「もしも、私がね。先に死んだときなんだけど」

 「え、急に、何だい」

 夫は妻の思いがけない言葉に驚いて目を大きくしました。夫人は優しい目をして

 「もしも、ですよ」

 と強調します。

 「もしも、私が亡くなったら一つお願いがあるのです」

 夫はまだ驚いた顔をして、そして何を言うのか不安そうな目をして黙ったまま夫人を見つめています。

 「私のために指揮をしてくださらない?」

 夫人は冗談っぽく軽い調子で、でもその目は優しく懇願するように、言いました。夫はすっかり混乱していました。が、ようやく口を開きました。

 「ああ、分かった」

 夫人は、ありがとう、と言うと夫の頬に自分の頬をくっつけます。乾いてざらざらした、でも温かな体温が伝わってきました。そのままカップを手にして呆然とソファーに座る夫をあとに、夫人は台所へ戻りました。

 

 突然の婦人のお願いに吉田は訳がわからずに、しばらく考えていました。色々な考えが浮かんできましたが、その都度否定して全くまとまりません。

 吉田の向かい、さっきまで夫人の座っていた隣にいた死神も夫人の突拍子もないお願いに頭を悩ませていました。

 「どうして、あんなことを言ったのだろう」

 死神はぽつりと独り言を呟きます。

 「体が悪いのか」

 吉田はごちゃごちゃに考えが絡んだ頭を整理するように、ゆっくりと口を開きました。死神は、でも、それはないと思いました。夫人には他の死神が憑いていなかったからです。死期の近づく人間には普通、死神が憑りついています。今日、公園で出会ったOLにも知らない死神が憑いていました。それで昼食を食べ終えた死神は自分の座っていたベンチを仕事で少し疲れてる顔をした死神に譲ったのです。だから、彼女が本気で死期を悟って言ったわけでないと死神は思いました。


 しかし、吉田はすっかりとそうだと信じています。信じると両手で顔を覆いました。静かに声が夫人に聞こえないように吉田は涙を流しています。よほど夫人を愛していたのでしょう、夫人がいなくなった世界を想像してすっかりと絶望と悲しみの中にいました。

 死神は気の毒になりましたが吉田に死神の姿は見えません。どうすることもできずにただ、じっと吉田と向き合っていました。

 吉田の手から涙が流れ出てきます。涙は手の甲を伝わり袖口を濡らしました。夫人に聞こえないように必死に声を殺しました。が、時々、小さな小さな声が聞こえてきます。母親を突然、見失った子どものようだと死神は思いました。


 しばらくして落ち着いたのか吉田は顔から手を離します。目は真っ赤です。涙で濡れた顔にオレンジ色の室内の灯りが当たると、きらっと反射して光っています。腕で顔の涙を拭うとソファーから立ち上がり、機械の前に行きます。

 CDを新しく入れるとボタンを押してまたソファーに戻りました。弦楽器たちの軽快な音が流れると、一転軽やかなピアノの音が静かにでも次第に力強くなって独奏します。ピアノはそのまま一人で軽快な音を舞い踊らせます。次第に弦楽器の音がピアノと合わさっていき厳かに、しかし軽快さを残しつつ響き合いました。

 ショパンの華麗なる大ポロネーズ。死神は初めて聞くこの音楽にすっかりと酔いしれていました。心地よく弾むピアノの音は弦楽器と合わさるとより一層、素晴らしく感じました。

 吉田はソファーで目を閉じて両腕を上げています。静かに、でも軽快に音楽に合わせて指揮をしていました。まるで公演中のように音に、手に、すべての意識を集中させていました。顔に深く刻まれている皺が吉田の指揮を一層、厳かなものにします。

 -老将-

 死神はその言葉を思い出します。老いてなお迫力を失わず、全力で音楽を奏でる吉田の姿はその言葉にぴったりでした。大事な公演のために練習するかのように、吉田は何回も何回も音楽を繰り返し、夜遅くまで指揮をしました。



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