老将
気持ちのいい青空です。雲のない、でも時々、風が銀杏の葉を揺らす音が聞こえます。何枚もの黄色の葉が風に舞いながら吉田の庭に降ってきました。
吉田はリビングでソファーに腰かけてじっと目を瞑っています。外から、部屋から彼はあらゆる場所から聞こえる音に静かに聞き入っていました。
風が木々を揺らす力強い音、葉がそっと降ってくる優しく乾いた音、自動車がゆっくり走る時の少しだるそうな音、規則正しく一定のリズムを刻む正直者の時計の音。
様々な音が混じり合い一つの演奏を奏でているようでした。吉田は目を閉じながら両腕を顔の高さに上げます。ゆっくりと腕を上下に振ると演奏の指揮を執ります。始めはゆっくりと、だんだんと力強く指揮は黄色の葉を吹き上げているようでした。そして一気に静かにゆっくりと、心を落ち着かせるように優しい指揮になります。舞い上がった黄色の葉がふわ、ふわっと静かに降ってきました。
「あら、お邪魔したかしら」
夫人が部屋の奥から紅茶を二つ、丸く白いお盆に載せてきました。両手を上げたまま驚いて振り向いた吉田は、くすくすと微笑む夫人と目が合います。すぐに目を離して恥ずかしそうにコホンと咳ばらいを一回しました。両手をお行儀よく膝の上に置いて。
夫人は隣に腰かけてテーブルにお盆を置きます。はい、と言って少し顔の赤い夫にカップを手渡しました。
「本当にもうよかったのですか?」
夫人は優し気に問いかけました。
「何がだね」
「引退のことですよ」
ああ、と呟くと吉田は窓の外に目を向けます。しかし、吉田の目には舞い散る銀杏の葉も、吸い込まれそうな青空も入っていませんでした。その目はただただ遠くの、これまでの指揮者としての過去を思い起こしていました。
「いいんだ。もう何も残っていない」
「何がですか」
不思議そうな顔をして夫人は夫の横顔-皺が深く刻まれた夫の顔はまるで荒く削った木の彫刻を思い起こさせます-を見つめます。
「何もかもだ」
そう言うと吉田はふううと吉田は呼吸をしました。そして、また遠くを見つめました。夫人は夫の荒々しい横顔を見つめていました。
夫人は実は、気づいていました。夫がまだ指揮を続けたいことを、そしてもう若い頃のような指揮を執ることができなくなった自分に夫が気づいたことも。
「音楽は自分のような人間に残された最後の自己表現だ」
よく夫は自分の仕事をこう表現しました。それは、お世辞にも人付き合いが上手と言い難い、むしろ最も苦手だと思う口下手な彼らしい表現だと夫人は常々思いました。感情を自由に正直に他人に表せる音楽は、そんな彼に残された最後の他人との接触方法とも夫人は知っています。
だから、指揮で自分を表現できないと悟った夫が引退したことを夫人はよく理解していました。でも、本当はもっともっと指揮をしたい夫の気持ちも同時に理解していました。
「ねえ、あなた」
夫人は夫の手をとり言います。顔と同様に深い皺が刻まれて乾いた手はまるで木の皮のように武骨で、でも温かみがあります。
「お散歩に行きませんか。こんなにいいお天気だもの」
夫人の誘いで吉田は近くの公園まで散歩に出かけました。風は冷たく、まるで冬を急いで運んできているようです。二人は手を握り合いながら公園へと入っていきました。
お昼前の公園は閑散としてます。イヤホンを耳にした女性とすれ違ったぐらいでした。二人は噴水の前まで来ると近くの椅子に腰を下ろします。
「寒くないか」
ぶっきら棒に吉田は夫人に問います。顔は噴水を見たままでしたが。
「いいえ、大丈夫ですよ」
本当は思っていたよりも風が冷たく夫人は散歩に出かけたことを少し後悔していました。でも、夫が-気の利いた言葉を言うのが苦手な-気遣ってくれたことが嬉しくて温かな気持ちになりました。
吉田はじっと噴水を見つめたままでした。
「子どもの頃に魔王を聞いたことがあってな」
突然、夫が言い出すので夫人は何だろう、と思い夫の顔に目を向けます。が、吉田は構わず噴水を見つめて続けます。
「シューベルトの魔王。衝撃だった。子どもながらにそう思った。こんなにも美しいものが世の中にあることを初めて知った」
吉田は表情を変えずに、でも優し気な目で続けます。
「優し気な魔王、怯える子ども、なだめる父。嵐の激しさ、何か起こる不安。ピアノの音は力強く厳かで不気味で、でも時に優しく悲しく響く。すべてが音で、声で表現されていた」
吉田の顔の皺が緩み、優し気な顔になります。
「その時に思ったんだ。自分もいつか、こんな風に思いを伝えられたら。それはどんなに素晴らしく、喜ばしいことだろうって」
夫人は静かに夫を見つめています。
「そこからが私の戦いだった。どうすればいい、どうすれば私は思いを伝えるか。それだけだ。それだけが途方もなく難しくかった。悔しくて涙が止まらない時もあった」
「ビデオを借りては何回も見て巻き戻し、また見てとにかく研究した。バイエルン、ウィーン、ローマ、ナポリ…。どれも素晴らしいものだった。なんて素敵な音なんだろう、そして自由で丁寧で美しく思いを伝えているんだろう。優しい音はそっと触れるような繊細さで、荒々しい音は力強い迫力で、悲しい音は静かな寂しさで。どれも私の目ざすものになった」
吉田は遠くを、ビデオの前の若かりし頃の自分を見つめました。
「指揮者を志したのは高校の時だった。ヘルベルト・フォン・カラヤン。彼の指揮は何というか、音楽を越えて彼の生き様を表現しているようだった。彼は求める音が出るまで、それを徹底してオケに要求し続けた。彼の指揮で音楽は音を越えて、一つの生き物のようだった。徹底した表現の追求、その果てにある彼の伝えたい想い、感情、信念、主張…。彼は彼を音楽で表現したのだ」
ふうと深いため息をつくと吉田は夫人の顔を見ました。夫人は黙って、でも楽しそうに口元に笑みを浮かべて聞き入っています。
「少し喋りすぎたかな」
「ううん、続けて」
「私は私を音楽で表現したくて必死に学んだ。大学生の時、私は狂ったように音楽をむさぼった。憑りつかれていた、と思う。でも、当時はそれが楽しくてね。大学を出てからは長い長い雑用だった。本当に長かった」
「ええ、長かったでしたね」
夫人はそのころに吉田と結婚をしました。夫人はそのころヨーロッパに留学していました。友達と訪れたコンサートホールで夫と出会ったこともよく覚えています。当時のことを思い出して夫人は懐かしむように優し気な笑みを浮かべます。仕事が不安定だった夫が毎日すまなそうに食卓に座ったこと、夜遅くまで夫が難しそうな本を読んだり、何回も同じ曲を流しては指揮をしていたこと、満足しない指揮に頭を抱えて静かに涙をぼたぼたと落としていた夫、その隣に座って優しく夫を抱いたこと…。どれも自分の思い出で、どれもが夫との思い出でもありました。
「でも、やり遂げましたね」
「ああ、そうだな」
吉田は夫人の方を向き、静かに微笑みます。皺だらけで柔らかな顔をして夫人を見つめました。
「音楽は私に残された最後の表現だ。最後まで私は私を音楽で表現できた」
吉田は言い終わって満足そうに、でもどこか寂しそうに噴水を見つめました。噴水は大きく水を空に上げています。ちょうど12時になりました。
死神は吉田の隣に座り卵サンドを楽しんでいました。ふわふわの生地はしっとりとしてます。青空の下で食べる卵サンドはいつも以上においしい気がしました。
死神は卵サンドを食べ続けながら吉田の話に耳を澄ましていました。仕事を仕事として考えていない吉田の話に死神は深く共感しました。どこか自分に似たものを感じた死神は少し嬉し気です。
吉田と夫人は手をつなぎ自宅へと歩き始めます。死神は残って卵サンドを食べ続けました。
-音楽は自分に残された最後の表現方法-
吉田のこの言葉を死神は何度も頭の中で繰り返しました。
-まるで音楽そのものが人生のようだ-
吉田たちはもう遠くに行ってしまいました。お昼を過ぎた公園にはビジネスマンやOLが集まってきます。
-それとも、人生が音楽のようかなー
OLたちに席を譲り死神は歩きながら考えます。
-指揮者という仕事を自分のコミュニケーション方法と捉える信念、そして必死に音楽に向き合う強さ、これが彼を動かすものなのか?-
吉田という人間を少し知ったような気がして死神は嬉しくなります。同時にもっとこの人間のことを知りたい、と思いました。