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四の話「居場所」


 その日の学校は朝からどこか浮ついていて、私自身もいつもより冷静ではなかった。

 長期休暇の前日のような高揚感よりも少しだけ張り詰めた、けれど悪意のないそのまなざし。

 教室にいる誰もがその一点に視線を集めては、ひそひそと話をする。

 私もその中の一人だった。

「ねぇ、あれって」

「きっとそうだよ。もう何年も学校来てなかったって噂の……」

 きれいな女の子だと思った。

 同い年の子たちとは違って少し大人びた容姿に、どこか強い覚悟を宿した瞳。私たちが着ている新しい制服とは違い、着古した旧制服も相まって彼女はある種異様な存在だった。

「でも、どうして今頃登校してきたんだろう?」

「さぁ、もう二十歳くらいになるって先生が言ってたし、自分がいた頃の生徒がいなくなったからとかじゃない?」

「うーん、じゃあいじめられてたとか?」

「それはないんじゃないかな?」

 私は近くで彼女のことを話していた友達の会話に割って入った。

「どうして? 自分のこと知ってる人がいたら気まずいっていうか、嫌な思いをするから、今まで不登校だったって考えるのは、ふつうじゃない?」

 もちろんその可能性が一番高いのは否定できないけれど、私はどうしてか確信めいた口調で言い放った。

「あれは、たぶん心に傷を負ってるんじゃないかなって、思うの」

 同じような、けれど違う類の、心の傷。

「それじゃあ、傷心で学校休んでたってこと?」

「まぁ、そうじゃない。学校を長い間休んじゃうほど辛い経験なんて、想像もできないけど」

 私は、まぁそれでもカラ元気でどうにかやってこれているけれど、彼女が受けた傷は、私の何倍ものものだったのかもしれない。

 そう思うと私の心は軋み、悲鳴を上げるように痛みを訴える。


 ”あなたはただ、黙ってついて来ればいいの”


 あの記憶が、彼女の心と呼応するように鮮明に思い出される。


 ”いい? 今日からあなたは私のものなの。だから、私の言うことは絶対なの。わかった?”


 今でも私を縛り付ける一言。

 それを言ったのは誰だっただろうか。

 これを言われた私は、いったいどう感じていたのだろうか。

 目をそらしてきたせいか、傷だけが化膿して私を蝕んでいき、肝心なところがあやふやになっていく。

 こうやって嫌なことも時間と共に忘れていってしまうのは、どこかでその重みに耐えられなくなった私への救済なのだろうかとちょっとだけ考えたけれど、きっと違う。

 これは、私に対する罰なのだ。

 何もかもを忘れたように生きていこうと考えてしまった私に対して、永遠に拭えない傷を与え、その傷がうずく度に私は過去を思い出すのだ。

 私に幸福は訪れない。

 私の傷が癒えることはない。

 神様は実に残酷だ。

 褒美なんて願っても与えてくれはしないのに、罪に対する罰はきっちりと等価以上で科してくる。

「……ねぇ、聞いてる? おーい、めぐみさーん」

 私は友達に耳元で名前を呼ばれ、思考の海から現実へと引き戻された。

「あ、うん。ちゃんと聞いてなかったよ」

「聞いてなかったのかよ」

 そうだ、今は別に感傷に浸っている場合ではない。

 ここは学校だ。いつものように笑顔で、何事もないように繕わないと。

 どこにでもいる、普通の高校生を、演じないと。

「だからさ、あの子、急に学校に来たのはいいし、別にどうして学校休んでたのかなんて興味ないけど、このままじゃ浮いちゃわない?」

「でもさ、こういうのって、一番最初に声かけるのって、ちょっと勇気いるじゃない。そこでだ、学年一顔が広いめぐみが声をかけてあげてさ、みんなが声かけるハードル低くするってどうかなと、私たちは思ったわけよ」

 まぁ、こんな性格を演じてるせいで、学年で私を知らない人はいないって言われるほどにはなっているけれど。それでも最初の一言、ましてやいかにも事情が複雑そうな子に話しかけるのは、私でも臆してしまう。

 それでも、と私は思う。

 それでも、私はどうしてかあの子と話さなければいけないような気がした。

 だから、私はその一歩を踏み出す。

 ほかの誰でもない私のために。

 そして、きっと同じような痛みを抱えた彼女のためになると信じて。



 放課後になると、教室どころか、学年中の誰もがそのことを気にすることはなくなっていた。

 人と人との距離は、非常に間隔が取りずらくて、ふとした時に互いが互いを傷つけてしまいかねない。

 常日頃からそんな繊細すぎるくらいにそれを気にしていた私だからか、彼女は他人との距離感の取り方が異常なまでにうまいことに気付いた。

 誰もが気にしてはいながらも、盲目的に、まるでそれが当たり前で正しいかのように近づこうとする他人と、的確で正確な距離感で接する彼女。

 ものの数分で自分への奇異とも言える視線を好意的なものに変え、お昼休みにはもう何年も前から友人であったかのように違和感なくクラスへと溶け込んだ。

 しかし、私にはそんな彼女が、とてつもなく恐ろしく思えた。

 私が踏み出した一歩が、みんなが近づいたと感じたその距離が、彼女にではなく、見当違いな場所へと向けられているような、そんな恐ろしさ。

「……私は、いつだっていろんな視線にさらされ続けてきたからね。目を見れば私をどんな風に思ってるかわかるよ」

 私は一緒の帰り道だった彼女に、素直に彼女へ抱いていた感情を話すと、そんな答えが返ってきた。

 正直、ひどいことを言った自覚はあったので、怒られることも覚悟をしていたのだけれど、なんだか肩透かしを食らった気分だ。

「私は、居場所で、拠り所だから。彼我の距離を適正に取れないといけないのよ」

 居場所で、拠り所、か。

 その言葉にはどこか温かみがあって、彼女がそれを大事にしていることが分かった。

 それが私に向けられているものではないと理解できていても、私はその言葉に、温かさに救われた気分になってしまう。

 思い違ってはいない、思い上がってはいけない。

 これは私の居場所ではなく、ほかの誰かのための居場所であり、これは私の拠り所ではなく、彼女が大切に想っている誰かの拠り所なんだ。

「落ち込まないでよ。確かに私じゃあなたの居場所にはなれない。でも、きっと誰よりも近しい、そうね、親友になれるんじゃないかなって、思うんだ」

「…………」

 精一杯のやさしさが、私にはつらかった。

 いや、どうしたらいいのか分からないのだと思う。

 人のやさしさに触れる機会が、あまりなかった私にとって、彼女はまぶしすぎるのだろう。

 同じような傷を負いながら、似たような境遇に晒されながら、私と彼女の間には雲泥よりも大きな差がある。

 どうしてだろう。

「……私は、強くなくちゃいけなかったから。支えるために、どこにも行かないように、その手を離さないように」

「……私には、そんな風に想ってくれる人は、もういない」

「いいや、それはたぶんあなたの思い違いだと思うよ」

 だって。と私の後ろを指さす。

「あれは、あなたを一番心配してくれる人たちなんじゃない?」

 そこには、後をこそこそと付けてこちらを見ていた友人たちが、私に見つかって気まずそうに立っていた。

「あ、あれぇ? 奇遇だね、めぐみ」

「わ、私たちも偶然駅前で用事があるの思い出してさ」

 そんな風に、聞いてもいないことを話し出す友人たちを見て、私は不意に、何年振りかも分からないほど昔の、自然で穏やかな笑顔が心の奥の底から湧き出してきた。

 そんな私の笑顔を見て、友人はほっと胸をなでおろした後、こちらに駆け寄ってくる。

「じゃあじゃあ、どうせならめぐみ達も一緒に遊びに行かない?」

「いいね、それがいいよ」

「うん、それじゃ、親睦会も兼ねて今日は遊び倒すよ!」


 何かが劇的に変わったわけではない。

 相も変わらず私を取り囲む現実は非情で、光が見えないけれど、それでも何もかもをあきらめるにはまだ早い気がする。

 だって、私には今、こうして手を取ってくれる友人がいて。

 私よりもずっと大人な親友がいて。

 そして、ほんの一筋の、頼りなさそうな、けれど懐かしくて、いつの間にか忘れていた未来への光が、確かにそこにあるのだから。



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