雨とナイフと
雨が降り続いていた。
僕は服も体もびしょびしょに濡れながら、ただ黙って歩道をゆっくりと歩く。最近は嫌なことが続き、なにもしたくない気分だった。
しかしさすがに、先ほどから寒さがじわりじわりと足のつま先から頭の旋毛にかけて、底冷えしていた。家に帰ったらなにか温かい飲み物を飲もう。
僕は家路を急ぐ。ただゆっくりと歩いてたが、今は家まで一心不乱に足を動かす。途中水溜りを踏んでしまい、褐色の水が跳ねた。その水は、僕が着ていた制服であるワイシャツの白を薄く黒に染めた。ああ、なんてことだ。
しかし足は止めない。考えてみれば、服など洗えばいい。それでも汚れが落ちなかったら、捨てればいいだけだ。なにも面倒なことはない。
数分歩いた後、ようやく家の前に着こうとしていた。
「・・・・・・・・・・・・」
ここで僕は足を止めた。
家の前に明らかに動くめくものがあった。それは物ではなく、生き物だ。しかし、その正体は木が邪魔で確認できない。
最初は猫か犬だと思った。けれど、違った。近づいてみると、それは紛れもなく人間だった。それもまだ幼い女の子。小学校中学年ぐらいといったところか。
僕は渋面になっていると思う。なぜなら、僕は子供が苦手だからだ。
少女は僕をただ黙って見つめてくる。僕と同じで、傘すら差しておらず、びしょびしょだ。少女の黒く長い髪の先からは滴が垂れている。
一体なぜこんなところに。迷子? それとも留守番? 待て待て。ここは僕の家だ。
「おにいさん、だれ?」
ふいに少女が訊いてきた。
「え・・・・・・」
予想していなかった言葉に、僕は言葉を失う。生まれたばかりの赤ちゃんに喃語ではなく、成熟した言語で話しかけられたような気分だ。
待て待て。
僕は気を取り直して、こちらから訊く。
「君は、どうしてここにいるの?」
「わたしをどこかに連れてくの?」
疑問で疑問。埒が明かないし、どうやら誤解されてる。これを解かなければ、後々大変なことになりそうだ。
「えっと、僕は卯月雪緒。白木蓮高校の一年生。この家に住んでる」
少女の後ろを指差す。
おっと、重要なことを伝え忘れていた。
「とくに怪しい者じゃないよ」
そう言って、ぎこちなく微笑んでみせる。
さて。うまく言えただろうか。
「そうなの・・・・・・」
そう言って、少女は安堵からなのか微笑んだ。年相応の蕾が咲くような明るい笑顔。
どうやら一難去ったようだ。早く家に入ろう。
その旨を伝えようとした時、少女はおもむろに口を開く。
「じゃあね」
言葉を失った。そう、文字通り。息が苦しく言葉を発せられない。そして、なぜか腹部に鈍い痛みがある。腹痛だろうか。そう思って、腹部を見る。
「え・・・・・・?」
腹部には鉄製のナイフが、まるで芸術品のように直立に刺さっていた。刺されている部分からは、僕を動かす血液が惜しげもなく流れ続けている。僕は血液の流出を止めようと、手で押さえる。しかし、止まらない。ワイシャツは刺された箇所を中心にみるみる赤色に染まっていった。
ああ、これはもう無理なんだろう。その場に、仰向けになる。そして、僕は無意識に目を閉じた。
顔に冷たさを感じた。雨が当たっているのだろう。
・・・・・・待て待て。
こんなことを一体だれが? なぜ僕は刺されている?
言葉にならない疑問の数々が、僕の脳内を駆け巡る。
寸断された意識のなか、僕は目をゆっくりと開けた。
視界にあったのは、黒い雲と無数に降り注ぐ雨、そして、さきほどの少女だった。まさかこの子が?
「これで楽になったでしょう?」
子供なのに、なんて残酷なことを言ってくるんだ。
「じゃあ」
そう言って、少女はぱたぱたと走り、視界の外に出て行った。
「・・・・・・・・・・・・」
僕は死ぬ。最後は独り、か。それも悪くないのかもしれない。
雲の合間から、光が差し込む。雨はやむのだ。そして、僕は死ぬ・・・・・・。
目から涙が溢れた。血で真っ赤になった手でそれを拭う。何度も何度も拭っても、涙は止まらなかった。やがて諦め、僕はただ黙って涙を流し続けた。
そしてそのまま、僕はこの世界から消え去った――。