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角砂糖

作者: カイリ

 裏庭へ出ると、夏を惜しむかのように強烈な陽射しが降り注ぐ。もう夕方だというのに。この暑さはいつまで続くのだろう。恨めしそうに目を細めて太陽を睨み付けてから、物干し竿にかかった洗濯物を取り込む。洗いざらしの白いシャツ。色褪せた地味なズボン。彩り鮮やかな大量のスカーフ。そして、自分が今着ているようなゆったりとした黒一色のローブ。

 全身を覆い隠す黒服。裾から覗く、細く白い腕が次々と洗濯物を取り込んでゆく。既婚女性が身に纏う黒服に包まれているのは、まだ幼い丸みを帯びた顔つきの少女。だが、落ち着きを持った深い瞳は大人を思わせる。彼女は時折額の汗を拭いながら、淡々と仕事をこなしてゆく。

「ギュル!」

 家の奥から甲高い声が上がり、びくりと跳ね上がる。

「――お義母さま?」

 恐る恐る勝手口に向かって呼びかけると、奥の扉から同じような服装をした初老の婦人が現れる。

「アズラクは片したのかい?」

「はい、さっき」

 お義母さまと呼ばれた婦人はその答えに奥へ引っ込む。そして、薄暗い廊下を渡って物置へ向かう。そこには、大量の絨毯が巻かれた状態で山積みになっていた。そのひとつひとつが麻紐で縛られ、蒼く煌くガラス細工が結わえ付けられている。その輝きに義母は満足げに頷く。

「それで大丈夫でしょうか」

 背後から控えめに声をかけられ、振り返る。先程の少女が心配そうに佇んでいる。

「仕事が早くなったねぇ。やればできるじゃないか」

 そう言って嬉しそうに少女の頭を少々手荒に掻き撫でる。

「ありがとうございます」

 アズラクというのは、絨毯に括り付けられているガラス細工のこと。丸く平べったいガラス片で、魔除けとされているものだ。このラーレリで古くから信仰され、生活に溶け込んでいるお守りで、今では外国からの観光客向けに生産されている。この絨毯もそういった観光客に販売するものだ。美しく澄んだ光を放つアズラクを一緒にしておくと、それだけで売れ行きが良くなる。

「洗濯物は?」

「全部取り入れました」

「もう少しで男たちが帰ってくるよ。忙しい忙しい」

 歌うようにそう言うと、義母は上機嫌で台所へと向かっていった。少女はその後姿をどこかほっとした顔つきで見送った。

 少女の名はギュル。十三で中学校を辞め、この絨毯屋に嫁いできてそろそろ一年が経つ。実家は農家で、絨毯の商売など何もわからなかったが、最近ようやく仕事の流れが見え始めてきた。それも、義父や義母、そして、夫の助けがあってこそだ。

「郵便でーす」

 勝手口からの呼びかけに顔を上げる。

「郵便ですよー」

「はーい!」

 慌てて勝手口まで走る。裏庭へ戻ると、郵便配達夫が古そうな自転車で乗りつけている。彼は何通かの手紙を振りかざしながら人の良さそうな笑顔で「やぁ、今日は若奥さんだ」と声をかける。ギュルは少しはにかみながら手紙を受け取った。

「ありがとう、ご苦労さま」

 配達夫は笑顔で手を振ると自転車を押し進めた。手紙の宛名を見ると、ほとんどが義父宛てのものだ。だが、そのうちはたと手を止める。目を見開いて食い入るように宛名を見つめる。自分宛てだ。手紙をひっくり返すと、そこにあったのは懐かしい名前。慌てて封を切ると便箋を取り出す。無言で目を泳がせ、読み進める。やがて、その表情が嬉しそうな微笑に染まる。ギュルは手紙を袂に押し込むと、踊るような歩みで台所へ向かった。

 台所では、義母のシターが食事の下ごしらえを始めている。家族は皆で四人。作る量も多い。ギュルも食器を用意したりと手伝っていると、家の表からにぎやかな音が聞こえてくる。

「さぁ、店仕舞いだ。こっちはいいから、旦那の世話をおやり」

 シターの言葉にギュルは一瞬動きを止め、控えめに「はい」と囁く。皿を並べ終えると、いそいそと台所を出る。

 裏庭から表へ向かうと、若い男が店先に所狭しと並べられた絨毯を一枚一枚巻いている姿があった。重くて大きな絨毯を手際良い手付きで次々と片付けてゆく。思わずその手捌きに見とれてから、自分も絨毯に手を伸ばす。

「それは重いからいい」

 顔を上げると、相手は軒先に出ている小さなテーブルと椅子を顎でしゃくって見せる。

「あっちを片付けろ」

「はい」

 素直に返事をするとテーブルを畳み、中へ引き入れる。椅子も両手で二つ抱えて店の中へ並べる。その間にも、彼は絨毯をあらかた片付けてしまった。

 少年と呼ぶには大人っぽい顔立ち。青年と呼ぶには初々しすぎる。端整な顔立ちだが鋭い眼差し。彼がギュルの夫、ハリールだ。ギュルより五つ年上の彼は十九歳。絨毯屋の三代目だ。父親が地方で仕入れてきた絨毯を店で売るのが今のハリールの仕事だが、いつか店をもっと大きくしたいと願っている。

「お疲れさま」

「ああ、喉が渇いた」

 その言葉に、ギュルは台所へ引っ込むと盆にやかんとチューリップ型のグラスを持って戻ってくる。かすかに湯気を立てる紅茶(チャイ)を注ぐと夫に差し出す。ハリールが一口に飲み干すと、幼な妻は心得たようにお代わりを注ぎ足す。

「今日はよく喋る観光客がいて参ったよ」

「奥まで聞こえてきたわ。賑やかだったわね」

 ハリールは苦笑いを浮かべながら妻と一緒に居間へ戻ってゆく。

「まぁ、大事な収入源だからな。丁重におもてなししないと」

「そうね」

 夫が疲れた様子でソファに座り込むのを見てから、ギュルは遠慮がちに声をかけた。

「ねぇ、今いい?」

「どうした」

 テーブルの籠に盛られたナッツに手を伸ばしながら顔を上げる。ギュルは期待と不安に満ちた表情で袂から手紙を取り出す。

「あのね、今友達から手紙が来て、婚約式に二人で来てほしいって」

「婚約式?」

 ハリールは口にナッツを放り込んでから尋ね返した。この国では、婚約が決まると互いの親族や友人にお披露目する婚約式を盛大に行う。地方によって様式が異なるが、両親に婚約の承諾を得た後、神に祝福を願う儀式を行うのが主な内容だ。

「この間言っていた友達か? チチェクとかいう」

「そう、チチェクよ」

 妻の嬉しそうな笑顔にハリールの表情もゆるむ。

「婚約が決まったのか。良かったな。行こう」

 夫婦で招待されるというのはこれが初めてだ。ギュルは嬉しそうに手紙を見つめた。

「相手の人は何の仕事をしているんだ?」

「確か、葡萄農家の跡取りさんだって言っていたわ。チチェクの家は柘榴農家なの」

「ふぅん」

 ハリールが再びナッツを口に放り込む。ぼりぼりと小気味良い音を立てていたかと思うと、手を上げる。間髪入れずにギュルがグラスを差し出す。ラーレリではチャイが好んで飲まれるが、ハリールは特にチャイ好きだ。

「なぁ、せっかくだ。式の前に皆で食事でもしないか」

「えっ」

 思いがけない言葉に目を丸くする。ハリールは機嫌良さそうに笑うとチャイを飲み干す。

「久しぶりに友達に会いたいだろう。俺も、どんな人か会ってみたい」

「本当にいいの? 嬉しい……!」

 久々に目にする、妻の年相応な無邪気な笑顔。ハリールはちょっと照れくさそうに頷くとソファから立ち上がる。そして、壁に掛けられたカレンダーに指を這わせる。

「カーンの店に予約を入れておこう。十五日がいいかな。――いや、駄目だ、この日は木曜日か」

 夫の言葉にギュルが身を乗り出す。毎週木曜日は、ギュルが実家に帰って家業を手伝うことになっている。

「別に、一日ぐらい大丈夫よ」

「駄目だ。親父さんが困るだろう。十四日にしよう」

 生真面目な夫は、一度決めたことを簡単に破るようなことはしない。ギュルは感謝をこめて呟いた。

「ありがとう、あなた……」

 そんな二人に、台所から声が上がる。

「お父さんが帰ってきたよ! さぁ、晩御飯だ!」

「はい!」

 

 バスを降りると、熱い陽射しと埃が出迎える。チチェクはポケットからメモを取り出すと、不安げに辺りを見渡した。目に映るのは、どこまでも広がる葡萄畑。今まで乗っていたバスは、猛烈な排気ガスを撒き散らして行ってしまった。メモを読み返し、目印の白い看板を探す。あった、あれだ。彼女はカバンを肩に掛け直すと歩き始めた。

 ゆらゆらと陽炎が揺れる農道では、誰ともすれ違わなかった。やがて農道は一軒の大きな屋敷へと導いた。あそこが、婚約者の家。チチェクはどきどきと高鳴る胸を鎮めようと深く息を吸い込んだ。

 婚約者、シムディの家は葡萄農家。白い漆喰が目に眩しい。古そうだが大きなトラックが玄関に乗り付けてある。チチェクは恐る恐る開け放たれた玄関を覗き込む。

「……ごめんください」

 思い切って声をかける。が、返事がない。チチェクは思い切って玄関へ入ってみた。陽射しが遮られ、涼やかな空気が体を包む。肩からカバンを下ろし、思わずふぅと息をつく。

「誰だい」

 不意に返ってきた声にひゃっと飛び上がる。

「あ……!」

「やぁ、チチェク!」

 奥から出てきたのはシムディの父、モルだった。白髪混じりの頭に、人懐っこい笑顔。太鼓腹にシャツがはち切れそうだ。

「こんにちは、モルさん」

「暑い中ここまで来たのかい。さぁ、お上がり!」

 モルは嬉しそうにチチェクを招き入れた。

「シムディさんはいらっしゃいますか?」

「あいつなら農園の様子を見に行っているよ。そろそろ帰ってくる頃だ」

 あまり飾り気のない居間へ通されると、チチェクはソファを勧められた。緊張した顔つきで腰を下ろす息子の幼い婚約者に、モルはいそいそと瓶とグラスを持ってくる。

「うちの葡萄ジュースだよ。絞り立てで美味しいぞ!」

「ありがとうございます」

 なみなみと注がれた葡萄ジュース。深い赤紫の液体から漂う甘く芳しい香り。チチェクは鼻を近づけてその甘酸っぱい香りを胸に吸い込んでから口をつけた。柘榴とは違う濃厚な甘さ。思わず目を大きく見開く。

「美味しい……! 美味しいです、モルさん!」

「お父さんって呼んでもいいんだよ」

 そう言われて思わず顔がかぁっと赤くなると石のように固まってしまう。そんな未来の嫁をにこにこと見守っていたモルだったが、不意に背後から物音が響いてくる。

「おい、困ってるじゃないか、親父」

 汗を拭いながら居間に入ってきたシムディに、チチェクはほっとした様子で腰を上げる。

「シムディさん」

「いらっしゃい。親父が変なことを言い出さなかった?」

「変なことって、ひどいな、おまえ。こうしておまえの嫁さんをもてなしてやっていたのに!」

「いいから、行ってくれよ、親父」

 少し突っ張った言い方にモルはぺろりと舌を出すと肩をすくめて居間を出てゆく。

「ごめんね、いつも冗談ばっかり言ってる親父なんだ」

「葡萄ジュースをいただきました。とっても美味しいです」

 チチェクの言葉にシムディは素直に笑顔を見せた。

「そうだろう、うちの葡萄は本当に美味しいよ」

 シムディはチチェクの隣に座り込むと、手にしていた数冊のノートをテーブルに並べる。

「兵役に就いていた間の農園日誌だよ。俺がいない間に駄目になった葡萄がいくつかあってね。今からまた対策を立てないと」

「大変ですね」

 どこか緊張した様子のチチェクに、シムディはおどけたように両手を広げてみせる。

「俺が帰ってきたからには、葡萄たちの目を覚ましてやるさ。俺は暢気な親父とは違うからね」

 そして、自分もグラスに葡萄ジュースを注ぐと、はるばるやって来た婚約者に尋ねる。

「ところで、今日はどうしたの」

「はい、実は」

 そう言いながらチチェクはカバンから一通の手紙を取り出す。

「私たちの婚約式の招待状を友達に送って……、その返事が来たんですけど、式の前に食事をしたいって」

「食事?」

 葡萄ジュースで喉を潤してから、身を乗り出して手紙を覗き込む。顔と顔が触れそうなほど近い距離にチチェクは思わず体を固くする。

「友達が、俺たちを?」

「は、はい。もう結婚している友達で……、その旦那さまがせっかくだから式の前に食事をしたいと……」

「へぇ。なるほどね。俺は構わないよ」

 チチェクはほっとした様子で表情をゆるめたが、再び手紙に目を落とした。

「何だか、旦那さまがとても楽しみにしているみたいで」

「お友達夫婦はどこの人?」

「イプリクです。そこで、絨毯屋を営んでいて」

 チチェクが住む町クゼイ県や、シムディのギュネイ県に比べ、イプリクは大きな街だ。

「いいね。婚約式の前に二人でどこかへ行くのも悪くない」

 二人で、という言葉にチチェクの顔がぽっと赤くなる。それを隠そうと咄嗟に葡萄ジュースを飲み干す。

「しかし、君の友達ということは、同じ年頃だろう?」

「はい。その子は同級生で、去年結婚しました。旦那さまは五歳上だと聞いています」

 そして、ふと不安げに眉を寄せるチチェクに、シムディは首を傾げる。

「どうしたの」

「……どんな旦那さまなのかなって……」

 チチェクは低い声で続けた。

「その子は学校を続けたかったのに、旦那さまが許してくれなくて。学校を辞めなくてはならなくて……」

「チチェク」

 落ち着いた呼びかけに、チチェクは顔を上げた。年上の婚約者は、穏やかな表情のまま諭した。

「女性が学業よりも家業の手伝いを求められるのは、この国ではまだ多いことだ。友達の旦那さまが冷たい人だとは限らないよ」

 思わず言葉を失ってじっと相手の瞳を見つめる。自分は学校を続けられるのに、勉強好きだったギュルがどうして学校を辞めなくてはならなかったのか、ずっと悶々と思い悩んでいたのだ。だが、本当はどうなのだろう。学校へ行くことだけが幸せとは限らない。ギュルも言っていたではないか。「優しくて働き者で、私にはもったいない夫だ」と。チチェクは控えめに微笑を浮かべた。

「……そうですね」

「こうして食事に誘ってくれるということは、きっと自慢したいぐらい素敵な旦那さまなんだよ」

 そこでシムディはにっと笑った。

「俺も負けないようにしないと」

 チチェクは今度こそ頬を真っ赤に染めた。


 台所で二段重ねのやかんがしゅんしゅんと鳴いている。音を聞きつけたギュルが慌ててコンロの火を消し、下のやかんのお湯を上のやかんに移し入れる。そして、銀のスプーンで茶葉をどっさり入れる。絨毯屋には毎日たくさんのお客がやってくる。そのひとりひとりにチャイを振舞うのが慣習だ。だから、一日に作るチャイの量は大変なものだ。茶葉を蒸らしている間、ギュルは立ち上る湯気をぼんやりと見つめた。

 先日届いた親友チチェクの手紙を何度読み返したかわからない。結婚の話を持ちかけられたばかりの彼女は不安でいっぱいの顔をしていたが、相手は優しい上に学業に理解のある人らしい。それでも結婚に対してまだ不安が残っているであろうチチェクのために、できるだけ力になってあげたい。だが、それと同時に羨ましい思いがこみ上げてきて仕方がなかった。自分も結婚前に何とか学校を続けさせてくれないかと頼んだが、夫も夫の両親もそれを許してくれなかった。学校で勉強をしたかった。その思いは今も胸に燻り続けている。

 そして、結婚してすぐのことだ。

「学校には行かなくていいから、せめて本を買ってほしい」

 そう願い出た新妻に、ハリールは眉を寄せて首を傾げた。そして、真剣な眼差しでゆっくりと言い含めた。

「ギュル、そんなにがんばって偉くなろうとしなくていい。生きていく上で必要なことは全部俺が教えてやる。心配するな」

 そうじゃない、と言いたかったが、それを口にする勇気はなかった。そして実際、夫は幼い自分のために色々と教えてくれる。それは彼の真心だ。ギュルは、その優しさを素直に受け入れながら暮らしを続けている。これでいいのだ、と言い聞かせながら。

 そんなことを考えながら、開け放たれた窓から街の通りを眺める。学生らしい少女たちが大きなカバンを抱えて楽しそうに話しながら歩いてゆく。その一方で、豊かな髪を惜しげもなく晒した女性が颯爽と歩いている。最近この辺りでも見かけるようになった、いわゆる都会的な装いをした女性だ。ギュルは自らの体を覆う黒服に目を落とした。既婚女性が身に纏うマントのように大振りのローブ。近年では、若い内はこのようなローブを着る必要はなくなったが、ギュルは舅や姑の希望もあってこの服を身につけている。そして、それはギュル自身を守るためでもあった。

 夫と婚約を交わしてすぐの頃、こんなことがあった。ハリールがギュルのためにイプリクの街を案内していると、ふたりを未婚の男女と勘違いした男が罵声を浴びせかけてきたのだ。家族以外の男女が肩を並べて歩くなど、もってのほか。イプリクのような大きな街だとそういった古い考えを持つ者は最早少ないが、それでもそういった行動に顔をしかめる人々は根強く存在する。少し短気なところがあるハリールがかっとなって言い返したため、あわや喧嘩になりそうな雰囲気になってしまった。幸い、すでに婚約式で指輪を取り交わしていたため、ふたりが許婚であることが証明され、それ以上の騒ぎにはならなかった。だが、ギュルはとても怖い思いをした。そのため、彼女は自分からこの黒服を身につけている。だが、黒服は体のほとんどを覆い隠し、すべてが黒一色に染まってしまう。学校に通っていた頃は、同級生たちと美しいスカーフを見せ合っては楽しんでいたが、それももうできない。それを思うと時々寂しくてたまらなくなる。

 そんなことを考えているうち、芳醇な紅茶の香りが漂ってくる。ギュルは気を取り直すとやかんの蓋を開け、角砂糖を次々と投入する。と、表の方が騒がしいことに気づいた。いくつかのグラスにチャイを注ぐと盆に載せ、店先へと向かう。

「だから、何度も言うようにこれだけは駄目だ。一リラスだってまけられない」

 夫の激しい口調に顔をしかめる。生真面目で融通の利かない夫だが、客相手にこんなに激しい口調になることは滅多にない。恐々と店先へ顔を覗かすと、外国人らしき男が頼み込むような仕草で話しかけている。

「これ必要。たくさん数必要。だから値引きしてほしい」

 大体そんなことを言っている。だが、ハリールはがんとして受け付けない。

「本物のアルトゥン織りだぞ。安くはできない。他へあたってくれ!」

 外国人は残念そうな手振りをすると背を向けた。ハリールは腰に手をやると苛立たしげにふんと鼻を鳴らす。

「……あなたは、アルトゥン織りだけは安くしないわね」

 そう言いながら、店の奥で広げられている絨毯を撫でる。しなやかで柔らかな手触り。気が遠くなるような細かな織り模様。触れると艶やかな光彩が浮き上がる。他の絨毯よりも丁寧な扱いをしろと、普段からきつく言われているものだ。

「おまえも、アルトゥン織りがどうやってできるか知っているだろう」

 ギュルは顔を上げた。

「ええ。子どもが織っているのでしょう?」

「十歳から十五歳の子どもが織っているんだ。途方もない時間をかけて!」

 そう言ってグラスに手を伸ばそうとするが、ギュルは夫の手を遮った。

「あなたのはこっちよ」

 別の盆に用意しておいたグラスを手渡すと、彼は黙って一気に飲み干した。そして、大きく息を吐き出すと、少し落ち着いた口調で言葉を続ける。

「アルトゥン織りは小さな子どもにしか織れない。この繊細な模様を織り出すには、小さくて細い指でないと駄目なんだ」

 ハリールは目を細めて絨毯を見つめる。

「昔はもっと小さな……、七つや八つぐらいから働かせていたらしい。高価な値で取引されるから、アルトゥン織りの産地は恐ろしいぐらい栄えていたらしい」

 ギュルは痛ましげに眉を寄せた。幼い子どもたちが小さな手で必死に絨毯を織っていたと想像するだけで胸が痛む。

「共和国になってからは、小さな子どもにひどい労働をさせるアルトゥン織りが批判されるようになった。それで今度はアルトゥン織りそのものが存続の危機に晒されたんだ。だから、織り手の年齢や労働時間が細かく取り決められた。そうやって文化を守ろうとしているのに……」

 ハリールはアルトゥン織りの絨毯を大事そうに持ち上げた。

「外国人が安く買い叩いて、本国で法外な値段で売り飛ばしているらしい。俺はそんなことは絶対に許さない。正当な対価でしか、俺は売らない」

 近年、ラーレリ共和国には外国人観光客が急増し、ラーレリならではの特産物が多く取引されるようになった。だが、それと同時に粗悪品が横行したり、逆に価値のあるものが二束三文で買い叩かれたりと、深刻な問題が起きている。ラーレリの主要な特産物である絨毯も例外ではない。ハリールの父親などが、こうした問題を解決するために同業者たちと何度も話し合いの席を持っていることを、ギュルは知っていた。

「……悪い人がいなくなればいいのにね」

「一度、昔アルトゥン織りを作っていた女の人に会ったことがある」

 その言葉に思わず振り返る。夫は思いつめた表情で呟いた。

「節くれだった指で、ごつごつに曲がっていた。今でも震えが止まらないって言っていたよ。……もしもおまえがそんな風に働かされたらと思うと……」

 眉間に皺を寄せ、引き結んだ唇で前を見据える夫に、ギュルはかすかに微笑んだ。優しい人だ。自分は、その優しさに守られているのだ。


 それから数日後。ハリールの招待を受け、チチェクとシムディはイプリクの街までやってきた。自分たちが住んでいるのどかな田舎町に比べるとずいぶんと賑やかな街だ。昼頃に到着した二人は、のんびりと街の観光名所などを巡り歩いた。露店で買ったソフトクリームを街路樹の陰で食べる。自分たちに不審な視線を送ってくる者はあまりいない。チチェクがそれを口にすると、シムディは肩をすくめて見せた。

「親子だと思われているのかもね」

「まさか!」

 思わず吹き出すと、二人は声を上げて笑い合った。

 やがて日が暮れ始め、街はオレンジ色に染まってきた。暑さが和らぎ、涼やかな風が吹き抜ける中、待ち合わせの駅まで向かう。仕事を終えた人々が続々と集まってくる駅前。人混みに慣れていないチチェクが不安そうに立ち尽くし、そんな彼女の手をシムディが握り締める。夕日に照らされた頬が更に赤みを増すが、チチェクは黙ってされるがままにしていた。と、その時。

「チチェク!」

 はっと顔を上げる。見ると、黒服を着込んだ少女が手を振っている。その隣には、まだ若い青年。

「ギュル!」

 チチェクの顔がぱっと弾ける。二人は駆け寄ると人目も憚らずに抱き合った。

「おめでとう、チチェク!」

「ありがとう……!」

 二人が嬉しそうに声を掛け合う様子を男たちは微笑を浮かべて見守る。

「まるで姉妹みたいだね」

 シムディが笑いながら言うと、ハリールも黙って頷いた。一頻り再会の喜びを分かち合うと、チチェクははっとしてハリールに向き直る。

「あ、挨拶が遅れてすみません……! 私、チチェクといいます……」

 ハリールははにかんでちょっと頭を下げた。

「ハリールです。婚約おめでとう」

 そして、シムディに向かって右手を差し出す。

「シムディです。お招きありがとう」

 チチェクは親友の夫をじっと見つめた。細面で鋭い眼差しが印象的だが、笑うと人懐っこい表情になる。自分よりも五つ上ということは、兄のリュズギャルと同じ年頃だ。

「知り合いのレストランを予約してあるんだ。きっと満足してもらえると思う」

 自信たっぷりな表情でそう宣言すると、ハリールは客人を手招いて先導した。大通りの人波を縫って歩いてゆくハリールとギュル。人波に呑まれないよう、さりげなく妻を守るハリールの仕草にチチェクは思わず目が釘付けになる。そして、すぐ隣でも自分を守ってくれている存在がいることに気づいてどきりとする。

「すごい人の数だね」

 通り過ぎる人々を腕で押しやりながら呟くシムディにチチェクは言葉が口から出ず、黙って頷いた。

 やがて一行は大通りから筋をひとつ入り、ハリールが一軒の建物を指差す。

「ここだよ」

 あまり高くない建物。白い壁に店名の飾り文字が電球に照らし出されている。階段を上がって入口へ向かうと、若いウェイトレスが出迎える。

「予約をしているんだ」

 ハリールの声に気付いたのか、奥から大柄の若者がやってくる。

「やぁ、来たね! 若旦那!」

「だから、若旦那はやめろって」

 店主らしき男は豪快に笑いながらハリールの細い肩を叩く。

 店は結構な盛況ぶりだった。ハリールが予約をしていなければ席はなかっただろう。どちらかと言うと若者の姿が多い。テーブルには白いクロスが掛けられ、花瓶や水差しは手作りの吹きガラスで揃えてある。ちょっと洒落た若者向けのレストランのようだ。チチェクがちらりと周りのテーブルを見やると、料理のボリュームはそこそこあるように見える。お洒落でボリュームもあるとなると、若者に人気だろう。

「シムディさんは葡萄農家だとお聞きしています。ここのワインもそうかな?」

 席に着きながらハリールがそう尋ね、シムディは笑いながら頷く。

「美味しければうちの葡萄を使っています。間違いなくね」

「なるほど!」

 男たちは機嫌良さそうに笑い合った。その様子に、チチェクとギュルは思わず微笑み合う。互いの伴侶が打ち解け合えば自分たちも嬉しい。ハリールは店主のカーンを呼び、自分たちにはワインを、そしてまだ幼い妻たちには葡萄ジュースを注文した。

「それじゃあ」

 グラスを手にしてハリールが声を高める。

「我が友、シムディとチチェクの婚約を祝して」

 それを耳にしたカーンが奥からグラスを持って駆け付ける。一同は笑いながらグラスを掲げた。

乾杯(シェレフェ)!」

「シェレフェ!」

 口に含んだ葡萄ジュースは濃厚な味わいだった。美味しいけれど、シムディの家でご馳走になった絞り立ての方が断然美味しい。こっそりそう思いながら、チチェクはグラスをテーブルに置く。シムディがグラスをちょっと持ち上げる。

「残念。品種が違う」

 その言葉にハリールとギュルも笑う。

「婚約式の準備は進んでいるのかな。楽しみでしょう」

 ハリールの言葉にシムディが大袈裟に両腕を広げてみせる。

「憂鬱だよ! コーヒーのことを考えるとね!」

「ああ、やっぱり!」

 思わずハリールもおかしそうに笑い声を上げる。この地方の婚約式では、儀式が終わると新婦が招待客にコーヒーを振舞うことになっている。が、新郎のコーヒーだけは不味くするというしきたりがあり、どんなに不味くとも新郎はそれを飲み干さなければならない。それは、今後妻が作る料理をきちんと残さずに食べる、という決意表明なのだ。

「本当に不味くしちゃうの?」

 チチェクが身を乗り出して尋ねると、ギュルは笑いながら頷く。

「覚えているよ。生姜の絞り汁にカモミールの煎じ汁がたっぷりでね。体に良すぎて涙が出た」

 ハリールの感想にシムディが手を叩いて笑う。

「チチェクはもう何を入れるか決めたの?」

「うん……。一応ね」

「お手柔らかに頼むよ」

 一同が笑い声を上げる中、ウェイトレスが料理を運んでくる。茄子の肉詰めに、チーズ揚げ、豆のスープなどが並ぶ。

「美味しいね。これは良い店に連れてきてもらった」

 客人に喜ばれ、ハリールは素直に嬉しそうな表情で料理を口にする。

「シムディさん、兵役はもう終わったのですか?」

 ギュルの問いに頷く。

「うん、先月ね。大学を出てすぐ兵役に就いて……。終わる間際に婚約の話があって。ハリールくん、兵役は?」

「再来年の予定です」

 ラーレリ共和国には徴兵制があり、男子は二十歳から四十歳までに一年半の兵役を課される。シムディはワインで喉を潤すと息を吐いた。

「大学に行ってる間にお袋が亡くなってね。……できればお嫁さんの姿を見せてやりたかったな」

 チチェクはどきりとして顔を上げた。そんなことは今まで口にしたことがなかった。

「では、結婚はすぐに?」

 ハリールが手を休めて問いかける。

「いや、彼女が中学校を卒業するのを待つんだ」

 その答えにハリールは目を大きく見開いた。

「だけど、葡萄農園はどうするんです? 他にご兄弟は」

「いや、兄弟はいない。これからは親父と一緒にがんばらないとね」

 親友の表情が不安そうに強張ったことにギュルが気づく。ハリールは眉をひそめた。

「お袋さんが亡くなられて家業が忙しいなら、早く家に入ってもらった方がいいんじゃないですか?」

「あなた」

 慌てて夫の袖を引っ張るギュル。チチェクはすっかり萎縮して顔を伏せている。が、シムディは柔らかな表情を崩さずに答えた。

「大丈夫。うちは子どもの手がいるほどじゃない。一年ぐらい待てるよ」

 シムディにとっては何気ない言葉だったが、ハリールはその端整な顔をわずかに歪めた。

「俺は、妻が子どもだと思ったことはないです」

 低い呟きに少女たちは息を呑んで黙り込む。それでもシムディは表情を変えない。

「妻のおかげで俺は商売に専念できます。親も喜んでいる」

「良いお嫁さんじゃないか」

 シムディは笑顔で身を乗り出す。

「良いお嫁さんはお金を積んでも得難い存在だ。君は幸運だよ」

 そこで、ハリールは自分が口にした言葉の意味に気づいて赤面する。隣の妻も頬を染めて俯いている。チチェクは思わずほっとして婚約者を見上げた。

「ハリールくんは絨毯屋だったね。うちにも一枚誂えてもらおうか、チチェク」

「はい」

 二人が和やかな雰囲気で言葉を交わす様子に、ハリールは顔を赤くしたまま頭を掻く。

「……上手だな、シムディさんは」

「君が正直者だからだよ」

 シムディは満足そうに笑うとグラスのワインを飲み干した。

「俺は大学を出てはいるけど、農家の経営者としては経験がまったくない。絨毯屋と葡萄農園じゃそれこそ畑違いだけど、君から学ぶところは大きいと思う。色々話を聞かせてほしいな」

「……俺で良ければ」

 少し恥ずかしそうに微笑を浮かべながらそう答えると、ハリールは隣のギュルをちらりと見やる。幼な妻も笑顔で頷いた。


 料理を堪能した四人はやがてレストランを後にした。

「とっても美味しいレストランに招待してくれてありがとう。また婚約式で会えるのを楽しみにしているよ」

 シムディの言葉にハリールは微笑んで握手を求めた。

「はい、またお会いしましょう」

「チチェク、またね」

「うん」

 少女たちが名残惜しそうに手を取り合っているのを見て、シムディが声をかける。

「じゃあ、帰ろうか」

「はい」

「お気をつけて」

 シムディは笑顔で手を振ると駅の方を指差し、チチェクの手を引いていった。二人の後姿を見守っていたハリールとギュルだったが、やがてハリールが踵を返す。

「帰ろう」

「はい」

 すっかり日も暮れ、暗闇に露店の明かりが目に眩しい。昼間の暑さもようやく和らぎ、乾いた夜風が二人の間を通り抜けてゆく。

「……なぁ、ギュル」

 黙りこんでいたハリールが口を開き、振り返る。夫は腕組みをしたまま、どこか思いつめた顔つきで言葉を続ける。

「俺は小学校しか出ていないけど、絨毯の商売はできる」

 ギュルは真顔で夫の言葉に耳を傾けた。

「良い絨毯を仕入れて、お客に満足してもらって、家族を養えるだけの財産を蓄える。学校にはそれ以上のことができるのか? 俺には信じられない」

「私は信じていたわ」

 妻の返事にハリールは歩みを止めた。ギュルは真っ直ぐに夫を見上げた。

「私の父さんを知っているでしょう? 学校に行かずに農家を継いで、誰よりも美味しい野菜をたくさん作るのに、計算ができないから市場でどれだけ誤魔化されてきたか」

 ギュルは少し苦しげに目を伏せた。

「だから、私が学校で勉強をして、手伝いができるようになってからはとても喜ばれたわ。弟たちはまだ小さいし、計算はできない」

「ギュル」

 夫が何か言いたげな顔で名を呼ぶが、それを遮るように言葉を続ける。

「家の手伝いができるように毎週実家に帰ってもいいってあなたが言ってくれた時、とても嬉しかった。父さんも母さんも喜んでくれた。私、幸せ者だわ」

 それきり二人は向かい合ったまま黙り込んだ。だが、やがてギュルの表情がわずかにゆるむ。ほんの少し顔を赤らめ、遠慮がちに口を開く。

「……さっきも、すごく嬉しかったわ。こんな私でもあなたの役に立てているんだと思ったら……」

「それは……」

「あなたは見栄っ張りなことやお世辞は言えない人だもの。……でもね」

 少し不安そうに眉をひそめ、恐る恐る囁く。

「私たちの子どもが将来、学校に行きたいと言ったら行かせてほしい」

 そこで口をつぐみ、黙って見つめてくる幼い妻。ハリールは小さく頷いた。

「……そうだな」

 そして、妻の手をそっと握ると黙って歩き出した。


 それから数日後。

「どうだい?」

チチェクは母が作ってくれた婚約式の衣装を前に、感極まって言葉を失った。

「いい生地が手に入って良かったよ」

 言いながら、母ヤズは娘に衣装を当て、二人で姿見の前に立つ。鮮やかな深い青色の生地に、金糸で縫い取られた煌びやかな刺繍。ゆったりとした金色のズボンを合わせ、当日は清楚な純白のベールを被ることになる。チチェクは鏡の中の自分を見つめたまま、小さく囁く。

「……綺麗だね、母さん」

「本当に。楽しみだねぇ」

 しみじみとした口調で呟くヤズの言葉に、婚約という事実が一気に現実味を帯びる。チチェクは不安そうに顔を強張らせた。

「……ねぇ、母さん。私、本当に大丈夫なのかな……」

「チチェク」

 ヤズは安心させるように娘の顔を胸に押し付けた。

「大丈夫よ、自信を持ちなさいな。あんたは世界で一番綺麗で幸せなお嫁さんになるの」

 そう言って優しく頭を撫でてくれるヤズに、思わず胸が詰まる。母も、同じ不安を潜り抜けてこうして家庭を築き上げてきたのだ。父と一緒に。二人がそうして寄り添っていると、不意に部屋に入ってきた兄がぎょっとして立ち止まる。

「……どうしたんだ?」

 リュズギャルは妹の晴れ着に少し眩しそうな目でそう呟く。

「いや、大丈夫よ」

 ヤズは笑顔で答える。

「それより、どうしたんだい」

「ああ……、チチェクにお客さんだ」

 チチェクは目を丸くして「私に?」と問いかける。

「ハリールっていう人」

「……ハリールさん……!」

 その名前に慌てて玄関へ向かう。

 土間には、所在なげに立ち尽くしたハリールの姿があった。不意に現れた自分に驚いた様子のチチェクに、ハリールは気まずそうに頭を下げる。

「ごめんね、突然」

 チチェクは笑顔で顔を振る。

「ハリールさん、先日はお食事にご招待していただいてありがとうございました。とても楽しかったです」

「本当に?」

 思いがけない言葉にチチェクは首を傾げる。ハリールは少し気恥ずかしげに目を泳がせた。

「君に、少し嫌な思いをさせたかもしれないと思ってね」

 ああ、とチチェクは思った。学校を辞めて家庭に入るべきだと言ったことを気にしているのか。だが、チチェクは穏やかに微笑みかけた。

「大丈夫ですよ。気にしないで下さい」

「君は良い家にお嫁に行けるね」

 ハリールはいつでも真っ直ぐな思いをそのまま言葉にするのだろう。誤解は受けやすいかもしれないが、チチェクは好感を持った。

「私も、安心しました」

「何が」

「私の大事な友達の旦那さまが優しい人で」

 鋭かった眼差しが一瞬丸く見開き、やがて恥ずかしそうな照れ笑いが広がる。そこへ、奥からヤズがチャイのグラスを盆に乗せてチチェクに手渡す。受け取ったチチェクがグラスを「どうぞ」と差し出す。

「ありがとう」

 そう言ってグラスを唇につけた瞬間、「熱っ!」と声を上げる。

「あ、ごめんなさい……! 熱かったですか……!」

 慌てるチチェクにハリールは口許を押さえて手を振る。

「だ、大丈夫。俺が猫舌なだけだ」

 が、思わずまじまじとグラスを見つめる。熱さもさることながら、こんなに甘いチャイは久々だ。

「……あのぅ、もしかしてわざわざそのことでここまで……」

 恐縮したように囁くチチェクに、ハリールが目を上げる。

「……うん、それもあるけど」

 そして、ちょっと迷った素振りを見せた挙句、彼はこう切り出した。

「君に聞きたいことがあって」


 婚約式の当日。チチェクの家には親族や友人が詰め掛けて大騒ぎになっていた。大して広くもない居間に、大勢の人々が身を寄せ合っている。その中に、ギュルとハリールの姿もある。二人は、美しい衣装に身を包んだチチェクの姿に微笑みあった。

「綺麗ね」

「そうだな」

 緊張で顔を強張らせたチチェク。いつもと違い、顔には白粉を塗り、鮮やかな紅を引いた唇はきゅっと閉ざされている。その隣には娘の緊張を解こうと優しく声をかけ続ける母、ヤズ。その向かい側には、上機嫌で歌声を披露し、親族から喝采を浴びている父のヤームル。そんな父親に少し呆れながらも黙って見守る長男、リュズギャル。幸せそうな家族の様子に、ギュルは微笑を浮かべた。いつかは、自分もこんな景色を作れるのだろうか。そんなことを考えていると、不意にぽんと肩を叩かれる。

「ギュル」

「ヤルン!」

 振り返ったギュルは歓声を上げて相手に抱きつく。同じ学校のクラスメイトだった友人だ。

「元気そうね、良かったわ」

「あなたも」

 妻の朗らかな表情にハリールも黙って見守る。やはり、こうして二人で来て良かった。

 そのうち、玄関の方が騒がしくなる。

「来た! 来たよ、チチェク!」

 親族の言葉にチチェクは息を呑んで顔を上げる。

 玄関の外では、シムディとモル、その親族たちが居並んでいた。物見高い近所の人々が笑顔で見守る中、モルが玄関の扉を叩く。

「お嫁さんをもらいに来た! 開けておくれ!」

 しきたりにより、新婦の親族が扉を開ける。と、一張羅に身を包んだシムディが緊張しきった顔つきで前へ進み出る。

「……お土産の、品です。どうぞお願いします」

 そう言って差し出したのは、郷土の菓子が詰められた籠と、花束。彩り鮮やかな花々に新婦の親族は満足そうに頷く。

「チチェク! 新郎さんだよ!」

 そう声を上げ、シムディの手を取って中へ案内する。新郎の登場に皆が歓声を上げる。シムディは、青い婚約衣装を身に纏った幼い許婚に言葉を失って立ち尽くした。化粧を施され、大人びた表情の中にも緊張と期待が交差する。シムディはごくりと唾を飲み込んだ。チチェクの方も、初めて目にする婚約者の盛装姿に思わず目を奪われる。純白の長衣に金色のスカーフを首にかけ、青いターバンで頭を覆う。ラーレリの伝統的な男性の礼装だ。

「さぁ、始めようか」

 チチェクの叔父、ブルットが姪のために嬉しそうな顔つきで切り出す。

 新婦の父ヤームルと、新郎の父モルが向かい合って座る。二人は両手を天に掲げ、深々と一礼する。皆が一斉に声をひそめ、辺りは静寂に包まれる。

「ヤームルよ、天のお許しを得てあなたの娘、チチェクを迎えにやって来た。あなたの娘を嫁にもらいたい」

 ヤームルは重々しく頷く。

「モルよ、この喜びと幸せが永久に続きますように」

 もう一度深々と頭を下げ、二人が共に神への祈りを詠唱する。張りのある低い歌声に皆が聞き入る。やがて、二人が揃って新郎と新婦に向き直る。

「さぁ、二人とも」

 ヤズが綺麗な細工を施した小箱を取り出す。蓋を開けると、銀色に光る一対の指輪。そのふたつを結ぶ赤い糸が鮮やかに目に映る。チチェクは強張った表情のまま指輪を見つめた。シムディが指輪をそっと取り上げる。飾り気のない、つるっとした細い指輪。だが、シムディにはその小さな金属片が指先に重々しくのしかかった。おそるおそる許婚の小さな手を取ると、ちらと彼女の瞳を覗き込む。緊張しきったチチェクは微動だにせず婚約者の手を見つめている。シムディは覚悟を決めると、右手の薬指に指輪を静かに嵌めた。

「……チチェク」

 囁きかけると、彼女は頷いてもうひとつの指輪を取り上げた。覚束ない手付きに皆がはらはらと手に汗を握る中、何とかシムディの指に指輪を嵌める。

「天のお恵みと、幸せが二人に注ぎますように!」

 モルが高らかに宣言すると、手にした鋏で赤い糸を断ち切った。途端に、わっと歓声に包まれる。瞬間、チチェクの顔がほぐれ、笑顔がはじける。大役を終えた花嫁は、ほっとした顔つきで右手に光る指輪を見つめた。一年後には結婚式を挙げ、この指輪が左手に移るのだ。そう思うと何だかくすぐったいような、恥ずかしいような、不思議な思いに囚われる。

「これからが本番だよ!」

 チチェクの親族がそう声を上げながら盆を仰々しく捧げ持つ。

「さぁ、お楽しみのコーヒーのおもてなしだ!」

 その言葉に、その場にいた全員がやんやと手を叩く。シムディは苦笑いを浮かべながら顔を手で覆い、皆が口々に囃し立てる。チチェクは含み笑いを押し隠しながら、盆に並んだコーヒーを招待客のひとりひとりに手渡して回る。

「チチェク、おめでとう、綺麗よ」

 コーヒーを受け取りながらギュルが囁きかけ、チチェクは嬉しそうに頷く。

「おめでとう、チチェク」

 ハリールの言葉にも深々と一礼し、やがて最後のコーヒーを手に新郎に向かう。皆の期待が最高潮に達し、歓声や手拍子、口笛などが吹き鳴らされる。

「……どうぞ」

 畏まった手付きでチチェクがシムディにカップを差し出す。真っ黒いコーヒーには、何が入れられているかわかったものじゃない。覗き込んだシムディが思わず顔をしかめ、皆が吹き出す。

「さぁ、ぐいっと! 一息に!」

 ブルットの声に促され、シムディは苦み切った表情でカップを持ち上げ、恐る恐る口をつけ、

「ん……!」

 眉間に深い皺が刻まれる。皆が思わず身を乗り出してにじり寄る。そして、シムディは溜らずに顔をカップから背ける。

「ちょっと……、何を入れたんだい、チチェク!」

 そう叫んで思わずむせ返るシムディに皆が大喜びで笑う。

「甘い……! なんでこんなに甘いのさ!」

 新郎の言葉にチチェクが笑いをかみ殺しながら答える。

「砂糖と……、柘榴ジュースと、葡萄ジュースと、さくらんぼジュースを……」

「本当に?」

 参った様子で大袈裟に身をちぢ込ませるシムディに、ヤームルがけしかける。

「まだいいじゃないか! 俺の時なんか唐辛子だったんだぞ!」

「黒胡椒もいれたっけねぇ」

 ヤズも口に手を当てて笑い声を上げる。

「さぁさぁ、最後まで飲み干して!」

 皆の言葉に促され、シムディは嫌々ながらも最後の一滴まで飲み干す。そして、空になったカップの底を見せると、シムディはチチェクを抱き寄せた。皆は嬉しそうに拍手を贈った。

 一通り儀式が終わると、それからはおしゃべりの時間だ。ヤズは招待客に挨拶をしながらチャイを振舞う。

「ギュル、よく来てくれたね、ありがとう」

 娘の親友にそう声をかける。

「おめでとうございます、おばさん。無事に終わって良かったですね」

「本当だよ。これからはあなたに娘が色々と相談するかもしれない。よろしく頼むね」

「こちらこそ」

 ヤズはちらりとギュルの隣のハリールを見やる。チチェクの親族の男性と話し込んでいるその横顔に、ヤズは屈みこんでギュルに囁く。

「仲良くやっているのかい?」

「……ええ、お蔭様で」

 その返事に嬉しそうに頷くと、ヤズはチャイを二人分手渡す。

「あなた、チチェクのお母様よ」

 言われてハリールが振り返る。

「初めまして。この度は、おめでとうございます」

「ありがとう」

 ヤズは角砂糖を入れた容器の蓋を取る。

「砂糖はいくつ?」

「ひとつで」

 ギュルがそう答え、ハリールは思わず妻を仰ぎ見た。ギュルは角砂糖を受け取ると、グラスの受け皿に乗せ、スプーンでざくりと割る。半分は自分のグラス、残りは夫のグラスに入れ、スプーンでしっかりかき回す。

「もう少し待ってて。冷まさないとね」

 そう囁く妻に、「半分なのか」と尋ねる。ギュルはにっこりと微笑みかけた。

「ええ。砂糖はいつも半分よ」

 しばらくかき回し、やがて「もう大丈夫」と言って差し出す。そっと口をつけると、思わず目を細める。猫舌の自分でも飲める温さ。程よい甘み。いつも口にする味に近いものだ。これが、ギュルの淹れてくれるチャイの味わい。ハリールは、胸が温かく満たされていくのを感じた。


 やがて婚約式は華々しく終わり、ハリールとギュルは帰路についた。

「良かったわね」

「ああ、自分たちの婚約式を思い出すな」

 帰りのバスの中で、二人は懐かしそうに語り合った。自分たちも一年ほど前にも同じようなやり取りをしたと思うと何だか不思議な気分になる。ああ、そうか。もう一年経つのか。ギュルはそう思うと感慨に包まれた。こうして一年を迎えることができたのも、何よりも夫の努力のおかげだ。ギュルは感謝の思いでハリールの横顔を見守った。

 我が家へ帰り着く頃には、我が家は夕暮れに染まっていた。

「ああ、疲れたわね」

 そう言いながら、ギュルは黒服のフードを脱ぎ、黒髪を手櫛で整える。

 普段はフードに隠れている、艶やかな波打つ黒髪。伝統的な宗教観では、女性は家族以外には髪や肌を見せてはならないことになっている。家の中では隠す必要はないが、商売をやっていると来客が多く、ギュルは日中では家の中でもフードを外さない。白い面立ちに映える黒髪が肩に揺れる。本当のことを言うと、ギュルの美しい黒目と黒髪はハリールのひそかな自慢だった。彼の目は思わず妻に釘付けになる。

「なぁに?」

 自分をじっと見つめる夫に首を傾げる。ハリールは照れ隠しに顔を振る。

「いや、別に」

 ギュルはにっこりと微笑む。

「待ってて、今チャイを淹れるから」

 そう言って背を向けるギュルに、「おい」と声をかける。何事かと振り向いた妻に、紙袋を差し出す。

「……え?」

 赤い紙袋。夫は黙ったまま受け取るよう更に前へ突き出す。怪訝そうな顔つきながら受け取ると紙袋を開け、はっと息を呑む。そして、中から一冊の本を取り出す。

 赤銅色の絹張りの表紙。クリーム色の滑らかな小口。箔押しされた金色の文字が、見覚えのある名前を刻んでいる。彼女が大好きだった作家の名だ。ギュルは言葉を失って本を凝視する。そして、わずかに震える指先で表紙を撫でる。

「ちゃんとした本はずいぶんと高いんだな」

 どこか突っ張った言葉に困惑気味の顔を上げる。夫は気恥ずかしいのか、頭を掻きながらそっぽを向いている。

「……ど、どうして……」

 震える声に、明後日の方向を向いたままハリールが言葉を返す。

「おまえの、友達から聞いたんだ。おまえがその小説家の作品が好きだって」

「で、でも、どうして、こんな、高いものを」

 しばらく口をつぐんでいたハリールだったが、やがて低い声で呟く。

「……そろそろ、一年だからな」

 そう言うとくるりと背を向け、居間を出て行こうとしながら言葉を継ぐ。

「ちょっと読んでみたけど、難しい言葉でさっぱりだ。読み終わったらどういうことか教えて……」

 言葉はそこで途切れた。ギュルが体当たりのようにしてすがりついてきたのだ。

「ギュル」

 激しく肩を震わせながら、ギュルは黙ってしがみついてくる。ハリールはそっとその肩を撫でた。艶やかな黒髪が自らの腕に流れ落ちる。

「……ギュル」

 耳元で囁きかけると、押し殺した嗚咽が漏れ聞こえてくる。

「……ハリール……」

 涙が混じる囁き。

「……あり、がとう……!」

 その言葉が終わらないうちに、ギュルは声を上げて泣き出した。ハリールは慌てて妻を抱きしめた。おろおろしながら背を撫でていると、不意に居間の扉が開かれる。

「あ……?」

 そこへ現れた母、シターが二人の様子に目を丸くして絶句する。そして、責めるような眼差しで自分を指差してくる。ハリールは必死で顔を振り、口を指で押さえる。シターはまじまじと嫁の様子を見つめていたが、やがて満面の笑みを浮かべると囃し立てるように手を振る。ハリールは迷惑そうな顔つきで顎をしゃくると母親を追いやった。扉は静かに閉ざされた。

「……泣くなよ」

 どこか懇願するような囁きに、ギュルは頷くものの涙が止まらない。そんな妻が愛おしく、ハリールは黙ったまま彼女を抱きしめた。


前作「柘榴畑」が好評でしたので、私自身気に入っていた登場人物・ギュルを主人公にした短編を書いてみました。前作同様、トルコ旅行で耳にした話を元にしています。あくまでも創作物ではありますが、ちょっとした異国情緒を楽しんでいただければと思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なんとも異国情緒溢れる良いお話。 年齢や性別など、今でも問題とされる話題に触れつつも、重すぎず軽すぎずのバランスが読んでいて心地よかった。 穏やかでありながら、緩やかに変化する人間の有り…
[一言] 「柘榴畑」から読ませていただきました。 雰囲気は静かなのに、登場人物の心情や考え方はもちろん、その場所の風の匂いや砂埃まで伝わってくるほどに生きた文章でした。 いい小説に出会えました。ありが…
[良い点] 丁寧に描かれていて、良質の映画を見ているようでした。 とても素敵で…。 違う文化を持つ違う国の人たちの物語なのに、すっと胸に入ってきて、共感できるってすごいなあ!と思います。 本好きの自…
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