屋敷の正体
「そうか……あなたは、そのひとの死を望んでいないのね」
脳裏にひらめいた言葉を口にした瞬間、鋭い衝撃が耳をかすめた。
あえて振り向かなくてもわかる。撃ったのだ、マモルが。
「なにをしている!」
シンジが激昂し、背後を振り返ると同時に掴みかかった。
「わたしの役目は、東雲家の存続。当主であるシンジ様を守るのが任務。代々この名を与えられたものは、その任に従うのみ。その娘が妨げとなるのなら消し去――」
「……ウ……」
言葉の中途で胸を押さえたシンジに、マモルは続きを呑み込んだ。くずおれかけた体を慌てて支える。
反射的に銃をおろし、地面に向けた隙をユメコは逃さなかった。
ダッ、とばかりに駆け出す。
「待て!」
気づいたマモルが銃口を向けた瞬間、まばゆく輝く光の塊が宙を舞った。
薄闇に慣れていた瞳には、突き刺さるほどに凄まじい輝き――それはうさぎのかたちをしていた。
「恵美先輩!?」
障子を開きかけたユメコが思わず声をあげる。だが、振り返ったうさぎの透ける瞳をみて我に返り、すぐに障子を開け放ち、部屋を走り出た。
「くそっ! マモル、なにをしている、追え!」
背後から怒りと狼狽が入り混じったような叫びが聞こえる。
「逃げないと……とにかく外へ」
出口を求めて焦りながら、ユメコは周囲を見渡した。
闇に沈む廊下は長く、真っ直ぐだ。先ほどの部屋は和室のように思えたが、屋敷の造りや装飾にはどこか違和感がある。いぶかしくはあったが、今はそれどころではなかった。
黒々とした廊下や手すりは、本物の木材が使われている。柱が立ち並び、片側には部屋らしい空間が区切られるようにして並んでいる。
古い匂い。一瞬、タイムスリップでもしたのではないかと思った。
だが、灯りがなくても空は明るい。完全な闇夜ではなかった。遠く微かに聞こえるのは、無数の車の走る音ではないだろうか。
「都市の明かり……ここは京都だって言ってたものね」
そのことに気づいたユメコは、一気に現実に引き戻された思いがした。ほっとする安堵と同時に、あまりの非現実的な状況に改めて気づき、心底怖ろしくなった。
「ショウ……まさか本当に。ううん、とにかくここに居ちゃいけない」
目の前に広がっているのは、庭だ。その向こうには、真っ直ぐにそそり立つ壁が見える。
「あれを越えられれば」
背後からの声や騒々しい音に追い立てられるようにして、ユメコは木の廊下から庭へと飛び降りた。
想像以上の高さに、つんのめるようにして転がり、なんとか起き上がる。角が削れているなめらかな敷石で助かった。
少し走れば、木の植えられた場所がある。手前にあるのは、橋だろう。池かなにかがあるに違いない――はまってしまわないよう、気をつけないと。
「ムダだよ、ユメコさん」
シンジのものらしき声が聞こえたが、ユメコはそのまま走り出した。
裸足のままなので、敷石は丸くとも足首に響き、痛かった。けれど立ち止まるわけにはいかない。
「はぁ……はぁっ」
焦りと緊張、そして絶望感にも似た想いが喉を締め付けていた。すぐに息があがってしまう。
短い橋を渡り、木立を抜けると、すぐ目の前に壁があった。外壁だ。けれど背の低いユメコには、よじ登ることが難しいほどに充分な高さがある。
「なにか足場になるものは……」
闇に眼を凝らして見回すが、どの樹木も細く、塀から僅かに離れている。
「そんな……なにかあるはずよ。どこかに、なにか手段が……あった!」
それは扉であった。塗り固められた堅牢な壁に、まるで非常口か点検口のような扉があるのだ。
ユメコは張り出している根か石のようなものに足を取られながらもその扉までたどり着き、押してみた。
引こうにも、手がかりはない。よく見ると、ボタンの並ぶパネルのようなものがある。
「ゼッタイに捕まるわけには――!」
覚悟を決め、全身で扉に突進した。
「……あぅッ!」
肩からぶつかったので、凄まじい痛みと痺れが首まで駆け走ったが、気にしてはいられない。
すぐそこまで荒々しい足音が近づいているのだ。
無我夢中でもう一度、もう一度と体当たりをすると、扉がガクリと外れた感触がした。慎重に指を引っ掛け、引っ張ってみると――開いた!
ユメコは歓声を押し殺して無言のまま扉を抜け、外に出ようとした。
危ういところで踏み止まる。
「これは……!」
ぐらりと眩暈を起こしそうになりながらも、扉の端を掴んでなんとか落下をこらえる。
危ないところだった――壁の向こうには何もなかった。ここはビルの屋上だったのだ!
地面どころではない。百メートルの高さはありそうだ。
流れる光の筋とランプの帯は、まぎれもない高速道路だ。その向こうには、賑やかにあふれる都市の輝き。都心に比べると遥かに静かではあるが、そこにあるのは確かに見知った文明の織り成す見事な夜景であった。
「でも京都にこんな高いビルが……?」
つぶやいたユメコの背後から、シンジの声が答えた。
「知らないのかい? 京都だってこの辺りでは緩和されていて、これくらいのビルは建設できるんだ。僕は世俗が嫌いだ。少しでも離れた場所に居たいが、そうもいかない事情もある。だからこのEクラウドグループ本社の上に屋敷を建てたんだ」
「屋上に屋敷を……」
「もちろん僕の思い出深い造りは完全に再現できなかったけれどね。でも、なかなかいいものができたと思わない? 現代の技術のおかげだね」
ざりっと音がして、暗闇のなかからくっきりとその人影が浮かび上がった。長身のマモルと、その腕に抱えられていたシンジだ。
「来ないで」
ユメコは固い声で言い、暗い空中に身を乗り出した。外壁がそのままビルの壁につながっているわけではない。細い通路のような間隙がある。
点検用の通路なのだろう。だが、満足な手すりがあるわけでもない――ユメコは迷ったが、すぐに意を決した。
戻れないなら、進むしかない。
「黒川夢子、こちらへおいで。悪いようにはしないよ」
「嫌です」
そろり、そろりと足を進める。壁に張り付くように体を横向きにして、がくがくと頼りない膝を奮い立たせながら。
「どうして? ……あたしたちを放っておいてほしかった。カビが生えてしまうくらい昔の因縁に、どうして今を生きているショウを殺す必要があったというの?」
「関係ない、と言いたいのかい?」
「当たり前だわ。それに、あなたは誤解してる」
ユメコは今や数メートルも移動しており、扉からこちらを覗き込んでいるシンジたちからは手の届かない距離になっていた。
シンジは舌打ちして、自らもユメコの立つ細い外縁に身を乗り出した。
「シンジ様!」
鋭くたしなめるマモルの声が闇に響く。
「煩い。僕のことに口出しするな!」
シンジの鋭い物言いに、マモルの声が途切れる。
ユメコはその間にも足を進め、ふたりから距離を置こうとしていた。
進行方向と足元に視線を走らせ、再び背後を振り返ったとき、そこにシンジの姿があった。
「君は僕のものだ。どうしてそこまで刃向かう? 今までの転生で、これほどに拒否されたことはなかった」
今までの娘たちは屋敷のなかで、従順になるよう幼少のころから育て上げてきたのだろう。
それはユメコにも容易に察しがつく。ユメコは父と母のおかげで、そのような人生を送らずに自由なままここまで育ったのだ。
「ゼッタイに嫌よ。あたしはあなたのものなんかじゃない。あたしが、あたしが好きなのは――」
「その名を口にするなッ!」
凄まじい形相でシンジが叫んだ。
同時に、ユメコまでの距離を一気に詰めようとしたのだった。普通ならば、飛びかかられる距離であっただろう。
だがここは足元の幅の余裕のない、細い通路。片方は指のかかるところもない壁であり、もう片方には満足な手すりもない、虚空へと続いている。
それ以上は無理なほどに屋敷の敷地面積を取ろうとして、これほどの余裕しか残らなかったのであろう。
シンジの足が、通路の床を踏み外した。




