駆け引き
「隔世遺伝によって現れた濃い血と力を、一族のなかに組み入れなおさなくてはならないんだ。そのためには――」
「やめてえぇぇッ!」
掴まれていた手首を放された瞬間、ユメコはこぶしを相手に叩き込んだ。
「ごめんなさい!」
思わず謝ったのは性分だ。驚いたように動きを止めたシンジの下から、身を転がすようにして抜け出した。必死に腕と足を使い、部屋の反対側までのがれる。
ユメコはふらつきながらも立ち上がった。
「いいパンチだね。そのあたりは姉とは違うみたいだ」
早くも赤くなりはじめた頬を手の甲でこすり、シンジもまた立ち上がっている。ぞっとするような、冷たい表情。最初に見たときの、人好きのする笑顔はすでにない。
ユメコは部屋を見回した。障子は左側面、奥に立つシンジの背後には、隣部屋とつながっているらしい襖がある。広い部屋であり、障子まではシンジまでと同じほどの距離があった。
相手は車椅子に座っていたはずだが、足が悪いわけではない。たぶん体そのものに負担をかけないための移動手段なのだろう。
現に、シンジは心臓の上あたりをきつく押さえている。呼吸も僅かに乱れているようだ。
ユメコは、障子まで駆け走る数呼吸分の行動を脳裏に描いてみた。なんとか間に合うかもしれない――ユメコは喉をごくりと鳴らし、覚悟を決めた。
だがそのとき、シンジの背後の襖が勢いよく開かれた。
そこに立っていた相手が誰であるかを見て取り、ユメコは硬直した。撃たれたときの記憶が、否応なしに脳裏によみがえる。
「マモル」
少年が、背後の気配に呼びかけた。
「殺してはダメだ。だが、手足なら構わない」
微かな金属音が響き、マモルが片腕をあげてユメコに向ける。黒いスーツの長身は闇になかば溶け込んでいたが、その淡色の髪と瞳ははっきりと見て取れた。
屋上でユメコを撃った相手だ。躊躇なく。今度もまた正確に、指示されたとおりの箇所を撃つだろう。
「ショウ、ショウ、たすけて……」
もともと小柄で細いユメコは、腕力に自信があるわけでもない。ましてや銃口をぴたりと向けられて、いったいなにができよう?
「相澤の男を呼んでもムダだよ。死んだ人間に手出しはさせない。たとえそれが霊であっても」
「……え。今、なんて……」
ユメコは呆然となった。
「ショウになにをしたの。まさか、いなくなったのは」
視界がぶれる。自分が膝をついたこともわからなかった。
「君には僕がいる。はじめて君を見たとき、君はまだよちよち歩きの子どもだった。そのころは母親似だったね」
シンジはひどく優しげな声で語った。
「姉の面影を受け継いでいなかったらどうしようと心配したけれど、杞憂で良かったよ」
しかし、その表情や瞳は拭いようもなく冷たいものだった。
「わからないのかい? 君は姉の生まれ変わりなんだよ。証はその髪と瞳、僕たちと同じ色素の薄さだ。君を見つけたとき、嬉しかった。分家の端のほうで生を受けているなんて、予想外だったけれど」
「……まさかおとうさんは、それを知っていたの? だから――」
「まさか」
シンジは笑った。
「けれど別のことであれ、理由はあったんだろうね。親族との婚姻を嫌がったとかさ。家を出て姓を捨て、ぜんぜん血のつながりのない他家の娘と結婚したんだから」
まぁどっちでもいいんだけど、とシンジは笑って言葉を続けた。
「こうして君を産んでくれたんだから、相手の女性にも感謝しなくちゃね。僕たちは、君が少女から女性となり、適した年頃になるまで待っていた。熟すまでもう少しかな、とね。だけど、僕たちは焦ることになった――あろうことか君は、僕たちが目を放していた隙に、相澤一族の者と付き合いはじめてしまったのだから」
「そ、それの、なにが問題だというのよ」
相澤とのことを指摘されて頬がカァッと熱を帯び、ユメコはうろたえた。
「問題だよ。相澤と結ばれるようなことがあったら、君の力は消えてしまうんだから」
「……え?」
そのとき、先ほどから銃を持たないほうの手で耳元に手を当てていたマモルが、おもむろに口を開いた。
「相澤の血は、もうすぐ完全に途絶える。相澤一志の搬送された病院の監視係から連絡が入った――容態が急変、心配停止状態になった、とね」
その言葉に、ユメコは息を呑んだ。こぶしが震え、ひと呼吸置いたのち、ユメコは掌をきゅっと握りしめた。決然と顎をあげ、膝に力を籠めて立ち上がる。
銃口を向けられていることも忘れたかのように、ユメコは叫んだ。
「あなたたち、なんてことをしているの! 自分たちがなにをしているのかわかってるの、人殺しなのよッ!」
「相澤も人殺しだろ? 姉をだまし、その命を贄として儀式を完成させたのだから。僕から姉を奪い、結果的に父までも奪った。そして僕の、天寿をまっとうするという人間としての正常な命の営みもね」
「あなたは誤解してる。あなたのお姉さんは、結果的に亡くなってしまった……けれどたぶん、民を救おうとしていたその男性に賛同したんだと思う。気づいていないの? 話を聞いただけのあたしにだって予想がついたのに」
「それは姉が騙されていたからだ」
「お姉さんが亡くなったのは、本当に悲しいことだと思うよ。あなたの気持ちだってわかる。でも結果的に都は助かった……お姉さんは恨んでいないと思う。そんな気がする」
「どちらにしても、姉はもういない。僕も生き続けることに倦み飽きた。君にわかるかい? 大切な相手を失い、その転生した器だけを何代も腕に抱きながら永らえ続けてきた、僕の気持ちが。僕はもう終わりにしたい。けれど相澤の血を根絶やしにしても、僕の魂は救われないだろうね」
「……どうして? 呪縛から解き放たれて死なない体から開放されるんでしょう」
「死が終わりだと、君は思っているのか」
「違うというの?」
「体が朽ち果てても、魂は残る。往くべきところへ向かうことを心から望まなければ、どこにも行くところはないんだ」
「じゃあ、いったいなにが望みなの?」
「僕を完全に消し去って欲しいだけさ。君の力で」
「力……?」
ユメコは激しくかぶりを振った。
「あたしには力なんてないってば! ショウのお手伝いもできなくて、手助けがなければ霊も見えないのに。いつもあたしはお荷物で、守られてばかりで――ショウを、守ってあげることもできなかった……」
語るうちに涙があふれ出し、頬を転がり落ちていく。ユメコは自分を抱きしめるように腕を自身の体に回し、嗚咽を堪えた。
シンジの声が闇に響く。
「いいかい。悲しむんじゃない、僕を憎悪するんだ。この僕を心底憎んでくれないと困るんだよ。そんな気になれないなら――さっきの続きを最後までするかい? どのみち僕も君も終わるんだ。ならば姉の面影を愛しみ、堪能してから逝きたいかな」
シンジの言葉に、ユメコが拒絶するように首を振る。
「ぜったいに嫌よ!」
その瞬間、まるで衝撃を受けたかのようにシンジが胸を押さえ、体をくの字に折った。
シンジの喉から押し出された苦痛の声に呼応するかのように、カチリ、と微かな金属音がその背後から響き渡る。
「く……。マモル。言いつけを二度も背いたらこの僕が許さないよ」
シンジはそう言ったが、マモルの構えた銃口はまっすぐにユメコに向けられていた。
正確に狙っているのは、こちらの心臓だ。ユメコにはそれがはっきりと分かった。
肌を刺すような殺気。それは素人のユメコであっても感じ取れるほどに強いものであった。シンジの言いつけに背こうとしている――なぜ?
ユメコは、気圧されまいと必死に抵抗しながらもマモルを見つめ、必死に考えを巡らせた。




