見えない記憶
ユメコに選ぶ余地はない。これ以上暴れたら、肌の上から完全に着物が滑り落ちてしまうかもしれない。
自分がまるでピンで留めつけられている蝶のように感じられる。為すがままにされてしまうだろう。
「『僕たち』って……誰のことなの?」
話をしているうちは、なにもされないかもしれない。先を促すようにユメコは口を開いた。
「僕には姉がいたんだ。淡雪のように白く美しい肌の、はかない華のような女性だ。この地に都があった頃の話だよ。僕たちは、ここで生まれて育ったのさ――」
遠い日々を偲ぶように、シンジは眼を細めた。その隙をつくように手首を相手の腕から解こうとしたが、叶わなかった。ユメコの抵抗を僅かも許さず、相手は淡々と言葉をつむいでゆく。
「東雲の家系は代々、不思議な力を持って生まれてくる者がほとんどだ。そのなかでも何かを為せるほどに力の強い者たちは、それぞれの特性を活かして『占い師』や『退魔師』、『霊媒師』などを名乗り、暮らしていた」
東京遷都までのおよそ一千年続いた帝都。
豊かな生活が続く時代もあった。だが、飢饉や疫病に苦しんでいた時期もあったのだ。
シンジたちが暮らしたのは、その後者。ひとびとは避けられぬ苦難ばかりの人生を嘆き、目に見えぬ脅威を魔性のものの仕業として恐れ、天に祈りを捧げ、また天を呪った。
人智を超える力を有する者たちは崇められ、同時にひとびとから助けを請われるのも無理のない背景であった。
「姉の力はひとびとの病を癒し、元気付けることができた。それゆえに多くのものが姉の力を必要とし、毎日たくさんの病人や怪我人、その親族たちが屋敷に押し寄せてきていた。姉は都中を者のために力を使い、疲れていた……」
姉が発現した力は『治癒』。まさに、その苦しい時期にはこの上なく必要とされる力であり、天恵であった。
呼吸に苦しむ者のつかえを取り除いてやり、腫れや痛みを和らげ、熱や血流のしこりを濾してやった。ひとびとは姉の起こす奇跡をありがたがり、感謝していたはずである。
だが、当時は現代より霊たちの影響力が強く、魑魅魍魎も跋扈していたような時代。ひとびとはそれらの存在を信じて疑わず、恐れを受け入れ、知らず知らずのうちに霊たちの存在感を助長し、強めていたのだ。
無知なることは、それ自体が力を呼び起こし、集め、互いに強めあう。
東雲一族のように力を認知されていなくても、都に住む民たちのなかには秘めた力を持つ者たちもいた。そのように伏せられたままの力が無意識のうちに強められ、公然とばらまかれていたのだ。当然、霊たちの影響力も上がるというわけだ。いくつも存在していた門から、様々なものが呼ばれ、増え続けていた。
主なる都には多くの人間が集まり、暮らしている――これほどまでに霊たちの存在が強められていた場所が、他にあろうか。むろん、現代の東京も同じであるが。
「常闇に棲む悪しき霊たちにとって、さぞ姉の行動とその生命は、遮るもののない太陽のように輝いて見えただろうね。引き寄せられ膨れ上がった霊たちは姉の体に貪りつき、その命を喰らいはじめた。僕は姉を救おうとがんばった。邪霊に噛まれ自身の手が血にまみれようとも、病霊に高熱を植えつけられようとも、全身全霊を籠めて毎日姉の体から魔を祓い続けていた」
シンジは唇を噛みしめた。血がにじむほどの凄まじい苦痛の表情。その瞳はユメコに向けられていたが、その顔を見てはいなかっただろう。見ているのは、遥か過去の光景だ。
「それでも姉はひとびとのために動くことをやめなかった。そのうち悪しき霊たちは、姉が病から救ったひとびとにも群がり、ますます悪化させてしまうようになってしまった……」
ひとびとは文句を言いはじめた。疑いは高まり、批難の嵐が姉を襲った。まるで姉が災厄をともなってきたかのように。
一族の者たちは、みな都を守るのに忙しかった。頼りにしていた父は宮廷の要人でもあり不在であった。
「僕にはどうしようもなかったんだ。この僕には!」
シンジの腕に力が籠められ、ユメコは押さえつけられた体に焼けつくような熱と痛みを感じた。シンジの感じている悔恨と自虐の感情が、こちらにまで突き刺さっているのだ。
「すでに東雲一族の力では、都に降りかかった災厄を完全に処理しきれなくなってしまっていた。慢心と自負ゆえに対策は後手、後手へとまわり、首も回らなくなった。やむなく他所から同じような力を持って活動している者たちを呼び寄せた。父たちにも選択肢はなかっんだろうけど、愚かなことだね――そのなかに相澤一族の、あの男がいたんだから……!」
東雲と似たような力を持つ別の一族、相澤家。そのなかでも当主にあたる人物は、まだ若い男だった。長身で、おとなの男性。魑魅魍魎とも渡り合える実力と、深く有益なる知識の持ち主。当時のシンジにはないもので溢れていた。
悪しき霊たちと必死に戦いながらも呑みこまれかけていた姉。疲れきっていた姉だが、悲壮なほどにはかない、まるで散りゆく前の満開の華のように美しかった。
相澤の男はそんな姉に語りかけ、災厄を引き起こしている悪しき霊たちを浄化する方法をもちかけた。
「姉は悪しき霊を祓う儀式についての話を聞き、そのもっともらしい方法と、苦しんでいるみなを助けることができるという甘い言葉に乗せられ、その男の言うがままに、かつてないほど大規模な儀式を執り行うことに同意したんだ」
姉は疲れていた。その体と精神は、儀式に耐えられるとは思えなかった。
だが姉は、反対するシンジをやんわりと押し戻し、男のもとへ歩んでいったのだ。
「それが最後に見た、姉の生きていた姿だった」
すべての災厄を祓い、消し去ったとき……あろうことか姉の生命も吹き払われていたのだ。
ようやく駆けつけてくれた父は、娘を愛するあまり、その男を呪った。シンジも同じだ。恨みのままに殺そうとした。
だが、果たせなかった。相澤一族であるその男の力もまた、東雲一族の最たる父と同等の力の保有者。
争いは熾烈を極め、容易に決着をつけることができなかった。
「結局、最後に父は倒れ、死んだ。死に際に父は言った。僕に後を託すと。相澤を根絶やしにするまで――子孫ひとり残さず、血を引く最後の人間が倒されるまで。僕は呪術をかけられ、死ぬことができない体になった」
ユメコはシンジの瞳を見た。そこにある想いが何であるのか、図りかねていた。
――怒り、だけではない。憎しみでもない。悔しさ……だけでもない。なぜ?
「あなた、もしかしてお姉さんの――」
「相澤一族を滅ぼす、それが今の僕の存在理由のすべてだ」
シンジは、ユメコの言葉に覆い被せるようにして語気を強めた。
「ひとり残らず、その血が途絶えたときはじめて、この呪縛から開放されるんだよ」
「ちょっと待って! 復讐なんて何になるっていうの。そんなことお姉さんは望んでない。だってそのとき都はどうなったの? 滅びることはなかったでしょう? 歴史にもそんな事実はなかったんだもの」
「君になにがわかっているというのかな。……知ってた? 僕が存在し続けるもうひとつの理由。そのひとつはね……」
シンジの眼の焦点が、ユメコに合った。吐息がかかるほど間近で覗き込まれ、双方の淡色の瞳が薄闇の中で交錯した。
秘密をささやくように、シンジがユメコの耳朶に唇を寄せる。
「僕の力は特殊なんだ。攻撃的な力はないけれど、東雲一族を永遠に繁栄させることができる。そのためには、隔世遺伝で強い力を継いだ女性を娶らなくてはならない。その意味がわかるかな」




