囚われの身
ぼんやりと入る光の筋。まず感じたのは、緑と青を感じさせる古い香り、微かに響く水の音だ。ほの暗い空間に焦点が合うにつれ、眺めているのが天井だとわかった。
どうやら、仰向けに寝かされているらしい。
「……ん、ここ……は……?」
ユメコは光の差し込む方向に顔を向けた。
夜――だろうか。障子らしき格子の向こうから、ほんわりとやわらかな灯りがまるで月の光のように投げかけられているように感じられた。物音ひとつせず、薄闇に沈んでいる部屋は、室内の様子を把握するには暗すぎた。
それでも、自分が布団に寝かされているのだということはすぐに気づいた。頭の芯にしびれのような感覚があるのは、何か薬でも嗅がされたのかもしれない。
拉致されたのだ、という事実を思い出し、ユメコは目を見開いた。
寝かされているのは和室――ベッドで寝起きしている身には馴染みのあまりない、床敷きの布団だ。
「まさか……やだ」
着衣を手探りで確かめてみて、ゾクリと冷たい感覚が駆け走った。服が替えられている――まるで着物のような形だが、旅館に揃えてあるものより遥かに上質な仕立てのようだ。女らしい心配にゾクリとなるが、不穏な感覚は体に残っていない気がした。ドキドキと高鳴っていた鼓動が、ほんの僅かだけおさまる。
「誰が、こんな」
つぶやきかけてハッと気づいて口を押さえ、そろそろと音を立てないように起き上がる。
――だいじょうぶ。手や足も動いてる。とにかくここがどこか、誰が何のために連れてきたのか……、ううん、それよりはやく逃げないと。
動いたことで乱れた着物の前を掴んで合わせながら、ユメコはゆっくりと立ち上がった。
「障子なら鍵はないよね、いざとなったら――」
「いざとなったら、何だい?」
息が詰まるかと思った。
驚きのあまり悲鳴を上げかけたユメコは、反射的に身を引いた。バランスを崩して尻餅をついてしまった視線の先に、座椅子にもたれかかるようにしてゆったりと座っている人影が見える。
「もう気がついちゃったんだね。君の寝顔、なかなか可愛かったんだけど」
少年らしい声に、やわらかな物言い。だがこの状況では、それがひどく不自然で恐ろしく感じられた。何より、その声にははっきりと聞き覚えがある。
「……あなたは……!」
「屋上で話して以来だね。あのときは連れの者が君を傷つけてしまって、申し訳なかった。でもこうして無事でいてくれて、本当に良かったと思うよ」
ようやく目が慣れてきた。
こちらを眺めていた人影は、確かに一度見えたことのある少年――屋上のヘリポートで逢った、車椅子の男の子だ。こんなに薄暗い部屋でなければ、ユメコ自身とそっくり同じ、その淡色な髪と薄い色の瞳が見て取れたであろう。
「……シンジ……あなたは東雲神事?」
「よくわかったね。正解だよ」
あのときは車椅子に座っていたはずだが、足が動かないわけではないようだ。古風だが上質な着物を身にまとったシンジは、もたれかかっていた座椅子から身を起こすと、ゆっくりと立ち上がった。ユメコまでの距離は、ほんの数歩。
ユメコは背を向けることなく、少年の一挙手一投足を見逃すまいと目を開いて向かい合ったまま、じりじりと後退した。蹴ってしまった布団は乱れ、背が何かに突き当たる。逃れる道を探して振り向きたい衝動に駆られたが、目の前の相手から視線を逸らすのはあまりにも危険だと思われた。
幾つか年下に見える外見の少年。だが、ユメコは狡猾かつ老獪な輝きをその瞳の奥に見た気がした。やわらかな微笑を浮かべてはいるが、違和感がある。
「いや……来ないで!」
しびれるような感覚は、体がまだ完全には回復できていないことを警告している。思うように動いてくれない足に、再び、ドキドキと心臓が鼓動を速めてしまう。
「逃げられないよ、ユメコさん」
その言葉は、屋上で聞いたものと同じだ。
混乱に空回りしかけていた思考が一気に収束する。全身がカッと熱くなった。
「――あなたの体に流れている血は、恵美先輩のものでしょう! どうしてあたしを……ショウのことも、もしかしてあなたが……!?」
「元気がいいね。さすがは東雲の血筋だ」
シンジは屈みこむようにしてユメコの目の前に来ると、その顎に手をかけた。振り上げたユメコの腕を、いともたやすく掴んで止めてしまう。
「暴れるなら容赦はしないよ」
「どうして――あ」
臆することなく言葉を継ぎかけたユメコだったが、その視界が回転した。浮遊感とともにぐるりと壁と天井が入れ替わったと思ったときには、背中をつけて倒れこんでいた。
「……どちらにせよ、君には協力してもらわなくちゃならないから」
シンジはユメコの手首を掴んだまま、自分のからだごと圧し掛かるようにして布団の上に押し倒していたのだ。見かけも体格も歳若い男の子のそれだが、相手の脚の間に片足を入れつつ足首を絡めて自由を奪った姿勢といい、抵抗する動きを封じてしまう容赦のない体重のかけ方といい、明らかにおとなの男の動きであった。
跳ね除けようと全身に力を籠めるが、僅かも揺るがない。
ユメコは蒼白になった。
着物の裾はまくれあがり、細くしなやかな脚があらわになっている。胸元ははだけかかっており、すぅすぅとする部分が緊張のあまり血の気をなくし、冷たくなっている。
「残念。逃げられないよ」
シンジはにっこりと笑ってみせた。その無邪気な笑顔に、ユメコがぞくっと身を震わせる。
「い、いやァッ!」
ユメコは全身で拒絶の悲鳴を上げた。
突然、胸に苦痛を感じたようにシンジが表情を歪めたが、すぐに微笑を取り戻した。
「どうしたの? そんな程度じゃ――この僕は殺せないね」
シンジは震えるユメコを組み敷いたまま、相手の瞳を覗き込んだ。
「怖がらなくていいよ。それとも僕を否定するのなら、全身全霊を籠めてくれなくちゃ……憎悪と拒絶が君の力を引き出すのなら、このまま進めたほうが良いのかな?」
「どういうこと!? あたしはあなたのことなんか、ぜんぜん知らない。力……なんて、あたしは持っていないのに! あなたがあたしの両親と遠縁なのかもしれないけど、あたし親族のことなんかぜんぜん聞かされていないもの! お願いだから、放してッ!」
「じゃあ、話してあげるよ。……君を放しはしないけれど、ね」
なおも抗おうと身じろぎをするユメコに、少年はため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「かつてこの地に都があったとき、僕たちはこの世に生を受けた」
突然はじまった昔話に、ユメコが戸惑う。
「この地……?」
「そうだよ。まあ、聞くだけでも損はないと思うよ。そう、ここは京都さ。僕たちの生まれ故郷、すべての端を発する地。――僕たちの生の営みを狂わせた奴がいたんだ」




