事件の幕開き
「――確かに、奴らしくはないが」
逢坂刑事が言った。来客用のものであるソファーの背もたれにドッカと背を預け、風流も何もないロックウール素材の無骨な天井を見上げる。
「何か……あったとしか思えないんです。ショウならきっと――」
ユメコは自分の膝に置いた掌をこぶしの形にしたまま、唇を噛んだ。そうしていないと喉からこみあげるものを抑えていられなかったからだ。
そのとき廊下から、バタバタと派手な足音が響いてきた。
「お、お、お待たせしましたっ」
部屋の扉が開くと同時に、小宮が飛び込んできた。まさに「飛び込む」というにふさわしい勢いで、床に置かれていた重そうな箱に蹴躓き、体勢を整えようとして思わず片手を振り回した。その手が棚のどこやらへ当たり、積み上げてあった厚いファイルが何冊も床に落ちて盛大な音を立てる。
「あっ、つ、ツツツ……」
「ばっかヤロウ! でっかい音たてて騒ぐんじゃないッ!」
当然のように逢坂刑事の怒鳴り声が響いた。そちらのほうが大きな音だ、とはふたりともさすがに突っ込みはしない。
「すすす、すみません。それよりこれ、ユメコさんジャスミンティーで良かったですか?」
転びかけていたときもしっかりと腕に抱えて落とさなかったペットボトルのひとつをユメコに差し出し、小宮は取り繕うに早口でつけくわえた。
「何がいいのか聞くのを忘れてしまって、きれいなパッケージだからユメコさんにはいいかなと思って……」
「とりあえず、座れ」
不機嫌そうな声音に、小宮がようやくソファーに座る。
「すみません。ありがとうございます、刑事さん……」
ユメコは押し付けられるように手渡された飲み物を見つめ、ようやく我に返ったように礼を言った。
逢坂刑事は、目もとを赤くして憔悴した様子のユメコを見て、ため息をつくように言った。
「――嬢ちゃん、あいつだっていい歳のオトナなんだ。事情があって一日や二日くらい家を空けることだってあるだろうに」
「え、で、でもっ」
かぁっ、とユメコの頬が熱くなる。
「そうかもしれませんが、でもこんなこと初めてで。いつも必ずそういうときには連絡があるんです。何かあったとしか思えないんです!」
「むぅ……」
逢坂刑事は言いよどんだ。目の前のテーブルに置かれていたファイルを手に取って開く。隣にいた小宮が覗き込んできたので、バンと音をたてて閉じてやった。そのファイルには、目の前に座っている少女に話してよいものかどうかまだ判断のつかない事実が記されている。小宮にもまだ話していない内容だ。
「さて……困ったな、どうするか」
「あ、す、すみません」
逢坂刑事の言葉に恐縮し、ユメコは慌てて頭を下げた。
「変なことになってしまったし、お仕事の邪魔にもなってしまって……でも、すごく心配で、他に訊けるところがなくて――」
「あ、いや! そういう『困った』ではないんだ」
逢坂刑事のほうも慌てて手をあげ、ばたばたと振った。隣で小宮が非難がましい視線を向けてくるのをギロリとにらみつけ、彼はゴホンと咳払いをした。
「嬢ちゃんが愛人だの隠し子だのという誤解はいいんだ、言わせておけ。だいたいあいつら、俺が何歳だと思っていやがるんだ、四十三だぞ。それに、ここまで来るのに嬢ちゃんも必死だったんだろう。まあ……次からはちょっと気をつけてくれ。相澤との繋がりは、おおっぴらにするわけにもいかんし――」
年齢のところで「えーっ!」と声をあげた小宮にカミナリを落としておいてから、逢坂刑事は言葉を続けた。
「心霊事件というものは、あくまで内密なんだ」
「ちょっ、ちょっと整理してみるのはどうでしょう。僕もさっき席を外していましたし、聞いていない話もあるかもしれませんから」
小宮が打たれた頭を押さえ、重苦しい場に割って入った。
「そうだな」
「はい」
ユメコも素直に頷いた。ふたりに話を聞いてもらえることになり、気持ちが少しは落ち着いた。しっかりと顔を上げ、話しはじめる。
「昨日の夜八時、あたしが家に帰ったときにも、ショウは戻っていなかったんです」
本当は、相澤翔平――ショウと大学のキャンパス内で待ち合わせをしていたのだ。けれどその日の講義が終わり、待ち合わせの場所に着いてみても、彼の姿はなかった。
「珍しいな、と思いました。いつもは先に来ていて、遅れることになっても携帯に連絡が入ってましたから。何だかショウって、そういうことはマメというかきっちりしていて」
「それは嬢ちゃんが相手だから、だろうぜ」
逢坂刑事が腕を組んで鼻を鳴らした。彼が待たされることは別に珍しいことではないからだ――もっとも、場所を間違えていたのがどちらだったのか言い合いになったことも何度かあったけれど。
「それだけユメコさんが大切なんですね」
つぶやくように言った小宮が、なぜか肩を落としている。だが、次の瞬間ガバッと起きなおり、こぶしをにぎって力説した。
「でも、今日はこんなにユメコさんを心配させて泣かせているんですから、許せませんっ!」
「落ち着け、小宮。……それからとりあえず座れ」
「あ、は、はい」
「それで嬢ちゃんはその場で待って、連絡がないから不安になって家に帰った、というわけか」
「そうです。地下の駐車場には、車がありませんでした。携帯はずっと繋がらないままで、すぐに留守電になってしまいます。でも聞き込みや張り込みか何かで遅くなっているんだと自分に言い聞かせて、ご飯でも作って待っていようと」
「ユメコさんの手づくりのごは――テッ!」
「黙って聞いてろ」
「……時計が十時を過ぎたとき、事務所に電話をかけてみようと思ったんです。それで携帯を取り上げたとき、家の電話が目に入ったんです」
ユメコは話を続けた。
「家の電話の留守電も確かめてみよう、そう思ったんです。でもランプも点滅していませんでしたし、何も入ってないや、ってすぐに思ったんですが、念のためと思いなおして、着信履歴を見たとき……一件だけ、入っていたんです」
「着信が?」
「はい。家の電話にかかることって、ないはずなんです。仕事の電話なんかは全部携帯電話か事務所の電話にかかってきますし、忙しくしていらっしゃるショウのお父さんも滅多にかけてくることがありませんし」
「父親……相澤コンツェルンの統括、相澤一志か」
「はい。でも、それは見たこともない番号でした。都内でしたら03から始まりますよね? でもその番号は075で始まっていたんです」
「それって、京都ですか?」
小宮が言って、ユメコが目を丸くした。「実家があっちなんですよ」と小宮が照れて頭をかいた。
「そうだったんですか。そのとおりです、調べてみたら京都からの番号みたいで――でも、ぜんぜん心当たりがなくて……。着信のあった時間は、あたしが大学に出たあとでした。ショウはあたしのあとから家を出たはずですし、もしかしたら何か関係があるのかなって……それで、かけてみたんです。その番号に」
「おいおい、危ないことを――それで?」
「『その番号は現在使われておりません』ってアナウンスが」
刑事ふたりは顔を見合わせた。その表情が引き締まったものにかわる。かかってきた電話番号が、その日の夜には繋がらないとは、明らかに普通ではないことだ。
「それで今朝、こちらに来たんです。一晩中待っても連絡なくて、繋がらないし、もうどうしたらいいのかわかんなくなってしまって」
ユメコの瞳に、また涙の粒が盛り上がってしまう。
泣き腫らして真っ赤になった目の小柄な女子大生が、逢坂刑事に会わせてくれと直接警視庁に訪ねてきたのだ。けれど連絡もなしにほいほいと取り次いでもらえるはずもなく――しかしそれでもユメコは引き下がらなかった。ユメコ自身も自分が何をしていたのか、どうやってここまでたどり着いたのか、はっきりと思い出せない。それほどに必死だったらしい。
そんなユメコが案内されたときには、逢坂刑事と何かあったのかと課内でいらぬ憶測が生じていた。そこへ小宮が出くわして、騒ぎはますます大きくなってしまった、というわけである。
さきほど逢坂刑事が「困った」と言ったのがそのことだと、ユメコは思ってしまったのだ。
それも無理からぬことだろう、とただひとり逢坂刑事は思っていた。彼が「困った」と言ったのは、別の件があったからだ。その件のことは、ユメコも、同じ刑事の小宮ですら知らないのだから……。
逢坂刑事はため息をつき、再び天井を見上げた。
今、三人がいるのは、彼が相澤と話をする際によく使っている資料室の隅に設置されている来客用ソファーだ。どこかの応接室で使われなくなった備品が回されたものである。経費節約というやつだ。座り心地はよいが、新しいものではない。
「相澤は自分から話すと言っていたが……そんな状況ではなくなったのかもしれん」
逢坂刑事はソファーの背もたれから上体を起こし、手にしていたファイルに片手を乗せた。問いかけるようなふたりの視線を受け、逢坂刑事は決心したようにひとつ頷いた。
指をかけ、ゆっくりとファイルを開きながら、彼はおもむろに話しはじめた。
「いいかふたりとも。これから話すことはすべて真実だ。心して聞くんだぞ」




