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受験JKと心霊探偵の事件変奏曲  作者: 星乃紅茶
第三楽章 つなぐ想いと魂のコンチェルト
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生と死の境界

 吐息が白く、白く……こごっていた。

 耳に聞こえるのは激しい水音。冷たく凍る大気を切り裂くような怒涛の響きを、止むことのない複数のパーカッションの連打のごとく奏でながら、遥か下までなだれ落ちている。

 水の進撃は長い年月をかけて大地を穿うがち、その反響は空中でも渦を巻いていた。そんな奈落へと続く絶壁の中途に、控えめな吐息をさらに詰めるようにしてへばりついている人影がある。

 黒い髪は濡れたように額に垂れ、甘さを含んだ端正な顔には似つかわしくないほどに精悍な表情を宿している。長身ゆえの手足を突っ張るようにして体を支え、落下をこらえているのだった。



 相澤は身じろぎもせず、その水音にまぎれるかすかな音を聴き分けるために耳を澄ましていた。自分の気配を押し殺し、一切の動きを止めている。

 こうして生きていることを相手に気取られようものなら、確実にとどめを刺されるだろう。上から狙い撃ちされれば、今の状況ではいかに弾道を読もうと、確実に避けきれるかどうか分からなかった。

 大量の出血跡を残し、崖から真っ逆さまに転落した――相手はそう思っている。その裏をかかねばならない。

 相澤には、もう二度と死ぬことを許されない理由があった。必ず、ユメコのもとへ戻らなければならない。

 けれど気温は低く、しかも太陽の輝きも空から完全に消え失せた刻限だ。そこにいるだけでじっとりと濡れるほどの湿度と、地形ゆえのしみるような寒さとが、容赦なく彼の体から温もりを奪い去ってゆく。

 それでも相澤は震えひとつ自分に許すことなく、流れる血色のしたたりを拭うこともなく、狭い岩の隙間手足を引っ掛けるようにして、無理な姿勢のままひそみ続けている。

 反響している不気味な水音とともに、ジャリッ、という固い靴音が頭上から聞こえる。

 闇に茂る木々の葉は重たく濡れたようにだらりと垂れ、無風ゆえにそよぎもせず、まるであの世と繋がる場所のように、生き物のたてる音の存在しない静寂が支配する空間であった。

 その言葉は、あながち的外れではないのかもしれない。この場所は、遥か昔からよく知られている自殺の名所であったから。しかも遺体があがらないことも多々あるのだという、いわくつきの現場だ。

 だから相手もこの場所を選んだのだろう。

 相澤に向けられた殺意は本物だった。

 ただしその手口はけっこう直接的なものだったことを思い返す。そのことが相澤の気にかかっていた。相手はひとをあやめることに関して素人ではないはず……にもかかわらず、だ。

 相澤は、音のないため息をついた。

 気配を消すために周囲と同化しようと意識しているので、呼吸も血の巡りもゆっくりなものになっている。このままでは、いかに鍛えた肉体であろうと、失血と寒さのために倒れることになるかもしれない。

 ――奴はまだこちらを覗き込んでいやがるのか。しつこいというか、念入りというか……それほどまでにおそれているということなんだろう。そう、俺たちを。

 それにしても。

 自分の体力があとどのくらいもつのか、正直不安ではあった。一度死んで復活した身とはいえ、相澤は決して不死ではない。このまま潜んで相手を遣り過ごしても、脱出のための体力が残らなければ、せっかくの機転も水泡にすることになる。



 やがて頭上の殺気が消え、草と岩をきしらせていた靴音は遠ざかっていった。

 他に気配が何ひとつ残っていないことを慎重に確認したあと、相澤はようやく全身の力を抜いた。

「しかし……ずいぶんな因縁だぜ。やはり、東霧しのぎりまもるは――」

 そこまでつぶやいたとき、相澤は微かな呻きとともに顔をしかめた。

 かなりの失血だ。刺されるときかろうじて急所は外しておいたが、相手の目を誤魔化し、逃れるために崖から落ちなければならなかったその無茶ぶりを思い返すと、苦いものが腹の底に染み広がる気がした。

 反り返るような崖は身を隠すのに好都合であったが、それは逆に言えば登りにくいということに他ならない。

 できれば相手をぶちのめしてやりたいところであったが、今は少なくともその時ではなかった。

「しかしまぁ、何だ。こんな格好、ユメコには見せられないぜ」

 自分の身を案じてくれる少女を想い、相澤は思わず苦笑した。

 着ている衣服のほとんどが赤黒い液体で染まっている。この体に入り込んでからというもの、相澤――翔平ショウは欠かさず毎日トレーニングを続けて、現在の体を強靭なものに鍛え上げていた。そうでなければ、今頃すでに死者として仲間入りを果たしていただろう。

 そう、この場所のあちこちに彷徨さまよい、ひしめき合っている行き場のない霊たちのように。

 今も誘惑するかのように、いくつかの霊が相澤の体にすがりついていた。苦しいなら、痛いなら、いっそ楽になっておしまい――あえて自分の力を開放しなくても、彼らがそう言っているのが分かる。

「……悪いな。俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ」

 相澤は自分の着ていたシャツを切り裂き、手早く止血布を作りながら独りつぶやいた。

「ユメコ」

 その名を声に出せば、我知らず全身に力があふれてくる。

 そう、まだ死ぬわけにはいかないのだ。

 東雲しののめ家から遠く離れていたとはいえ、ユメコが受け継いだ血は重要な意味をもっていた。そして相澤家との因縁については、ごく最近判明したことばかりだが、その事実を早く知っていようといまいと、彼らとの対決は避けられないものになる。

 相澤は何としてもこの状況から生還し、禁忌の力をもつユメコを護らなければならないのだ。

 あらかたの刺し傷に布を巻いてとりあえずの処置を終えると、上着を着なおしてからだを安定させていた岩の隙間から首を突き出した。まだ周囲の光が残っているうちに、岩壁の様子を確認する。

「それにしても……」

 あの小柄で優しげな少女が、生まれながらにして過酷なさだめを背負わされていたとは、彼にとっても驚きであった。出逢ったときにもまったくそのような気配は感じられなかったのだ。

 彼女の両親ですら、きっと何も知らないのだろう。知っていたら、娘と一緒になるつもりの男が相澤家の者だと分かったときに、なんらかの反応があったに違いない。

 だが、あの温泉旅館での自然な会話を思い出す限り、何ひとつ知らなかっただろうことは明白だった。

 そのときの思い出を脳裏に浮かべれば、引き締められていた口もとが緩んだ。

 ごく自然な、幸せな家庭。生前の郷田自身の父と母を思い出させる、厳しくも愛情にあふれた父、優しく見守ってくれる母――相澤は彼らのことを大切に思っている。だからこそ、彼らに娘を失うという喪失を与えることがあってはならない。

 そして何より、そんなことになったら相澤自身も耐えられるとは思えなかった。一度味わった悔恨の苦痛、それは言葉にできるようなものではない。

「そんなことは、もう絶対にさせない」

 頭上に延々と続く崖を見上げる。数箇所の深い傷は何とか止血することができた。あとは――。

「待っていろ、ユメコ」

 包帯代わりに巻いた布に、じわりと新たな血が滲むのもかまわず、相澤はゆっくりと手足に力をこめた。 



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