見つけた証拠
恐る恐る開いたドアだったが、中は静まり返っていた。誰もいない。
「あれ……ショウ?」
声を潜めて呼んでみたが、足元にピンク色に光っているうさぎの幻影がいるので、部屋は隅まで見渡せた。間違いなく誰もいなかった。
うさぎが動いた。ひとつ跳ねるように移動すると、ドアを入ってすぐ、ユメコがいま立っている右側の壁の前で止まった。
「先輩、ですよね……ここに何かあるんですか。って、あ――」
ユメコの目が、開いたままの棚を見つけた。うさぎが床で跳ねたので、自然にそちらに視線が移動した。
そこには、見覚えのある携帯端末が落ちていた。拾い上げ、手の中でひっくり返してみる。最新のモデルだ。相澤の持っていたものと同じ――。
「どういうことなの……ショウ?」
心臓が、どくんと鳴った。
――何かあったというの? 隙のない普段のショウなら、大事なものを落としたまま気付かないはずがないのに。
うさぎはまたもぴょんと跳ねて注意を引き、今度は一番下の棚に入り込んだ。
「何かある、のかな」
ユメコはその棚を覗き込んだ。隅のほうに、何かがあった。シルエットのようなうさぎの放つ光を受けて、きらりと輝いた――金属製の、針のようなものだ。
手を伸ばそうとして、ユメコは逡巡した。一度手を引っ込め、ワンピースのちいさなポケットから、白いハンカチを出した。そのハンカチで包み込むようにして、落ちていたものを拾い上げた。
目の前に持ってきて、うさぎの放つ光の中で覗き込む。
「これって――注射針?」
それは、採血針だった。
――このうさぎさんって、きっと先輩だよね。先輩が指し示したものなら、きっと証拠になるものに違いない。警察に渡して……。
「あっ、そうだ、刑事さん!」
――すっかり忘れていたわけでは……いや、正直忘れていたんだけど――ごめんなさい。
今すぐ戻れば合流できるかもしれない。
ユメコは立ち上がり、ハンカチに包んだ針をポケットに入れ、携帯端末は胸元に入れた。ワンピースのポケットは薄く、飾りのようなもので、そもそも物を入れるようには縫われていないのだった。
車にポシェットを置いてきたのが悔やまれた。
「とりあえず、戻らなきゃ」
ユメコはドアを開いた。廊下に出たところで、誰かとぶつかった。
「キャアァ!」
思わずあげた悲鳴に、相手も驚いたようだ。一瞬相澤かと思ったが……やっぱり違う!
黒いスーツ、黒い覆面で顔の下半分を隠した男が、ユメコの右腕をガッチリと掴んだ。
「いやッ!」
ユメコは思わず左手を相手の顔に突き出した。そこには、サンダルが握られたままだった。
眼球を強かに打ちつけられた男の力が緩み、ユメコは掴まれていた腕から男の手を振りほどいた。サンダルを男に投げつけ、同時に霊安室の扉に向かって駆け出した。
「クッ」
男は瞳に力を込め、少女の背を睨みつけた。
だが、ユメコは立ち止まらず、扉を押し開けて地下の廊下に飛び出した。
「なッ……効かぬだと」
男が焦ったように呟き、すぐに少女の後を追って走りはじめた。
ユメコは来た道を戻っていた。つまり、ボイラー室の扉を目指して。
うさぎはいつの間にか足元から消えていた。
それに気づいたユメコが背後を振り返ると、後方にあった扉の前で止まっているのが目に入った。
「あっ。ボイラー室、通り過ぎちゃったんだ……」
ユメコは戻ろうとしたが、剖検室のある角から黒ずくめの男が駆けてくるのを目にして、慌ててさらに前に向かって走った。
だが。
「い、行き止まり! そんな……」
廊下は終わっていた。ユメコの胸はどきどきとうるさいくらいに鳴っている。
――ど、どうしよう……ショウ!
視線を彷徨わせたユメコは、左の壁に別の金属製のドアがあることに気づいた。上にあるのは、『非常口』と書かれた緑と白のピクトグラム。
ユメコはドアを引き開けた。照明の灯った、階段があった。
背後に迫る足音に、慌てて中に入り、上へと続いていた階段を必死で駆け上がる。一階の表示の横で、同じような扉を見つけて引いてみたが、開かなかった。
ユメコは追いかけてくる足音に震えながら、さらに階段を必死で駆け上っていった……。
相澤は六階でエレベーターを降りた。
フロアの表示の一部に『脳外科』とある。
あの追っ手はおそらく、長谷川という医師がどこかへ連絡したから現れたに違いない。相澤はそう考えていた。
血液を必要としていたのならば、必ず受け取る側の存在があるはずだ。かなり珍しい血液型だから、調べれば分かりそうだが、とりあえず今やらなければならないことは――長谷川の身の確保だ。
「ああいう気の弱そうな者は、口封じとして殺される可能性もあるからな」
どんな相手でも、死を見過ごす訳にはいかない。それに、ユメコの先輩である恵美の魂のこともある。このまま実行犯だけが消されてしまったら……永遠に浮かばれないままになってしまう。
事故に遭ったというその状況すら、仕組まれたものかもしれない。事実を突き止めなければならなかった。
とにかく長谷川は警察に引き渡し、保護してもらう必要がある。ユメコは――もう逢坂刑事に合流できたのだろうか。連絡手段がないので、状況を見極めつつ行動するしかない。
長谷川はすぐに見つかった。廊下に急ぎ足で出てきたところに出くわしたのだ。
「なッ」
相澤の姿を見た長谷川が、びくりと動きを止める。口を開き、ぱくぱくさせた。
「――生きていて驚いた、か?」
相澤は周囲の待合廊下で座っている患者たちを気にせず、長谷川が言いたかったであろう言葉をストレートに代弁してやった。
患者たちが目を丸くしてふたりに注目した。
「な、何を言い出すんだね君は。け、警察を呼ぶぞ」
「呼んでくれて構わない。むしろ、呼んでくれたほうがいい」
平然と言い放った相澤に、長谷川は明らかに動揺した態度を隠せなかった。
「ぐっ……こ、こっちへ来てくれないか」
長谷川は上擦った声で言い、診察室が並ぶ廊下の奥へ相澤を案内した。
そこは、医療関係者たちが使う階段や販売機があるホールになっていた。




