新たな脅威
闇の中、白く浮き上がる女性は、ユメコと同じ歳に見えたが、表情はずいぶん大人びたものだった。髪は肩をふわりと覆う長さで、肌は白かった。
首元までシーツがかけられており、チューブが刺された左の腕だけが見えていた。
女性は眉を寄せて苦しげな様子で微かに身をよじっていた。だが、やがてぐったりと弛緩してしまった。体力が尽きた、というように。
ユメコが傍に立つと、ゆっくりと目を開いた。黒い瞳が、今にも泣き出しそうなユメコの姿を捉えた。その瞳が一瞬、優しく微笑んだようにユメコには感じられた。
「せ、先輩。あたし、ユメコです。恵美先輩ですよね、いったい何があったんですか……!」
苦しげに開かれた口が動くが、言葉は出てこなかった。ユメコは思わず胸に押し付けていた自分の手を伸ばしたが、恵美の体に触れることはできず、すぅっと突き抜けてしまっただけだ。
ユメコはその事実にたまらなくなって、顔をくしゃりと歪めた。その目から、大粒の涙がこぼれる。
相澤は眉を寄せ、内なる傷みを感じているかのような表情で、その光景を見つめていた。そして、ゆっくりとユメコの傍らに歩み寄り、女性と視線を合わせた。
少しの間見つめ合い、相澤が頷くと、恵美がふっと微笑んだ。同時に、宙に溶けるように消えた。
「先輩!」
再び闇に沈んだ室内に、ユメコが声を上げた。相澤がユメコを抱きしめると、ユメコは相澤の胸にしがみついた。
「……ショウ、先輩は……どうしてこんな場所に、生きたまま運ばれたんですか」
押し殺したような嗚咽のなかで、ユメコが問うた。
「――彼女の腕に刺されていたチューブ、その先に繋がれていたのは、採血機だった」
ユメコの体を抱く腕に力を込めて、相澤は言葉を続けた。
「彼女のファイルを見たとき、表記されていた血液型は……バーディーバーだ」
ユメコが顔を上げ、相澤を見つめた。見開かれた瞳が、震えている。
「死亡診断書にあった表記と、事故報告書にあった事柄が一致しなかったが、これで説明がつきそうだ」
相澤ははっきりとした口調で静かに言った。奥歯をギリ、と噛み締める。
「あの長谷川って野郎、気が弱いクセにやることがひどすぎる。奴の裏に、こんなことを指示した別の存在がいるんだろう」
「ショウ……あの医者が、先輩の血を抜き取って殺したってことですか……?」
「そういうことになるな」
「そんな……!」
「――俺も同じ思いだ、ユメコ」
全身を震わせるユメコを抱きしめ、相澤はその背中を擦った。感じていた怒りに、眼光が鋭くなる。
彼の目には、今でもなお、採血チューブに繋がれたままの恵美の姿が見えている。歯を食いしばり、相澤は口の中で呟いた。
「……彼女を解き放つには、あの男の贖罪が必要だ」
相澤はポケットから携帯端末を取り出した。電話をかけようとしたが、手を止めた。
「ここはさすがに圏外か。ユメコ、いったん外に出よう」
ユメコの肩を抱くようにして、相澤は廊下に出た。暗いままの霊安室のフロアを静かに歩き、周囲を窺いながら、ロックが外れたままの扉から地下1階の廊下に出た。
ひんやりと身にまとわりつくような雰囲気が、通常の現実のものに戻ったようで、ユメコはホッと息をついた。
「――む」
ふいに相澤がユメコを抱き上げて風のように動いた。降りてきたエレベーターとは逆の角を曲がり、息を潜めて気配を押し殺す。
ユメコは驚いたが、抵抗しなかった。相澤の緊迫した様子は只事ではないと感じたからだ。早鐘のように鳴りはじめた胸が静まるように祈りながら、相澤の胸で動きを止める。
コツン。
足音が響いた。
ユメコからは見えないが、霊安室への扉の前で立ち止まったような気がした。
コツ。
――こちらへ、来る?
ユメコの心臓の鼓動が、さらに早くなる。……苦しい。
カツ。コツコツコツ……。
踵を返したのだろう。足音が離れていった。
相澤の腕の中で、ユメコは音を立てないように息を吐いた。緊張のあまり、呼吸を止めていたようだ。
極度に緊張したユメコを気遣い、相澤は少女の髪に唇を寄せた。聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声で言う。
「今の相手の気配は――普通じゃなかった。何者かは分からないが、俺たちを探しているのだろう」
相澤は頭の中で建物の案内板を思い出していた。
「この先に、ボイラー室があったはずだ」
相澤はユメコを抱いたまま、音を立てずに廊下を走った。途中に剖検室の札が見えたので、ユメコが目を閉じて相澤の胸にしっかりと頬を寄せる。
その先の金属の重たい扉を開け、相澤は中へ体を滑り込ませた。ユメコを安心させるように一度腕に力を込め、ゆっくりと降ろして真っ直ぐに立たせた。
そこでは、巨大な吸収型冷却機が2台稼動していた。配管をすり抜け、相澤はユメコの手をひいて奥へ進んだ。そこには、相澤の記憶どおり、外へ続く扉があった。ゆっくりと開き、外の様子を窺う。
そこは、地下へ続くスロープの途中に設けられた出入り口だった。
「大丈夫だ」
相澤が言い、ユメコの腰に手を回して外に出た。配達のトラックだろうか、車が地下へ入るのをやり過ごし、スロープの端を駆け上がる。緑の並木が見え、地上の駐車場の一角に出た。
ユメコはようやくホッと胸を撫で下ろした。
「さっきの足音の相手……あたしたちを探してどうするつもりだったのかな?」
ユメコの問いに、相澤がニヤリと笑った。
「さあ――口封じかもな」
目を剥くユメコの頭に手を置き、相澤は言葉を続けた。
「心配ない。おまえは俺様が必ず護る」
自分を見つめる少女の淡色の瞳から目を離さず、相澤は微笑んでみせた。……ようやくユメコが笑った。
それを見て、相澤はポケットから携帯端末を取り出し、画面に指を滑らせて耳に当てた。
「――ああ、例の事件は黒だ。その他にもいくつか、気になる点がある。悪いがすぐにこちらへ合流できないか」
電話の相手は、おそらく逢坂刑事だろうと、ユメコにも予想がついた。




