クリスマス前の奇跡
相澤は、ユメコの待つ教室に向かった。
「――ショウ!」
ユメコは扉が開くと真っ直ぐに走ってきて、相澤が濡れているのも構わずその胸にしがみついた。
「心配かけたな」
少女の背をぽんぽんと叩き、相澤はユメコがあまり濡れないうちに体を離した。
そして、ノートとペンに視線を向ける。
「お手柄だった、彼女は無事だ。いま病院に行っている」
ペンがふわりと浮いた。
『ありがとう。もっと早くに思い出していれば……』
「今だからこそ、思い出したんだろう。そう都合よくはいかないものさ。けれど――ちゃんと間に合った」
相澤は言葉を続けた。
「あの抜け道を彼女に教えたのは、あんただな」
『――そうだ』
「それであんた自身が事故に遭い、危険だと思って、伝えたくてここに来た」
『その通り。彼女に同じ目に遭ってほしくなかった……』
「――どういうことなの。わかるように説明してほしい、です」
ユメコは眉を寄せ、両手を胸に押し付けて、相澤の顔と、宙に浮いたペンとを、交互に見つめた。
「このメッセージの書き手は、生きている。事故に遭って、衝撃で魂が体から離脱してしまったんだ」
幽体離脱とも呼ばれる現象だ。
ただ、それがあまりに突然すぎた。衝撃に吹き飛ばされ、自分の身に何が起こったのか彼には認識できなかったのだ。
彼女の身を案じる思いだけが、彼をこの場所に導いたのである。
「琴峰鈴菜の、結婚を約束していた相手だよ」
相澤は語りながら机に持ってきたバッグを乗せ、中から着替えを出した。ここに戻る途中、自宅に寄って取ってきたものだ。
濡れた衣服を手早く脱ぎながら、言葉を続ける。
ユメコは慌てて視線を逸らした。
「仕事を辞めないという彼女に、彼氏の家族が反対して、ふたりは駆け落ち同然の覚悟をした」
ペンが動いた。
『そう、僕たちは待ち合わせ場所と時間を決め、ふたりとも家族には内緒で家を出た。そして……僕は事故に遭ってしまった』
「助かるには助かったが、体のほうは意識不明の重体で病院に担ぎ込まれた。魂がないんだから――仕方なかったな」
『そうだ。僕が落ち着いていれば……でもあのときは、死んだと思ったんだ。だから、何としても彼女に伝えたかった。そして何より最期に彼女に――会いたかった』
無理をして体を置いてきたせいで危篤寸前の状態になり、やるべきこと、そして記憶が失われてしまった。
そのまま今日まで、ここで過ごしてきたというわけだった。
「そうだったの……。でも間に合って、本当に良かった」
ユメコが心からそう言った。
相澤の着替えから、律儀に目を逸らしたままノートを見つめている。
「車っていうのは、ドアなんかが丁寧にシーリングされて密閉性が高いから、水に落ちたからといってすぐには沈まないんだ」
相澤が説明した。
「ただ、ユメコにも分かっていると思うが、内部に空気がある状態では、水圧でドアは開かない。落ち着いて窓を割るか、浸水を待ってドアを開くか」
水没しても開くパワーウィンドウはあるが、実際に使えるとは限らない、ハンマーくらいは用意するべきだと相澤は付け足した。
――心配なことを全て指摘するのは、あたしに注意を促している意図もあるのかな……?
相澤は着替えを終えた。
「いいぜ、ユメコ。――おまえなら、俺のはだけた姿くらい見慣れていても良さそうなのに」
軽口を叩いた相澤は、真っ赤になったユメコに睨まれてしまった。
苦笑しつつ、膨れた頬に触れて言う。
「さて、行こうか。すべてを元に戻しに。――ユメコ、そのノートとペンも一緒に連れてきてくれ」
『戻れるのか――怖いんだ』
手を伸ばしたユメコが、止まる。
「戻れるのか、じゃない。戻すんだ」
相澤はきっぱりと言った。
ユメコの手が、ノートとペンをすくい上げる。しっかりと胸に抱いた。
相澤とユメコは、夜の闇に沈むキャンパスへ出た。
向かったのは、キャンパス内の医学部附属病院だ。
面会時間の終了までは、三十分もなかった。
相澤とユメコは総合案内に向かい、そこで琴峰鈴菜と落ち合った。
この病院に搬送されてきた鈴菜は、入院棟のほうに移動してきたのだ。
「事情がよくわからないけれど、きちんと来たわよ。あら、そのノートとペン……」
鈴菜は、ユメコがしっかり抱えているものに気づいた。
「はい、必要みたいです」
「そう」
腑に落ちない表情だった鈴菜だが、頷いた。
ユメコと鈴菜は、相澤について歩いた。
病院内を移動し、着いた先は一般病棟の個室だったが、機械の立てる規則正しい音しか聞こえてこなかった。
部屋に一歩踏み入った鈴菜は――顔色を変えてベッドに駆け寄った。
「……真治さん……真治さん!?」
鈴菜は信じられないものをみたという形相で、ベッドの上に寝かされた男性の傍で口に手を押し当て、身を震わせていた。
相澤とユメコは、静かに部屋に入った。
「――ショウ、これはいったい……?」
「あなたの婚約者――風間真治が、約束の時間、約束の場所に現れなかったのは、あなたを捨てたからではない」
相澤は、静かに、よく通る声で鈴菜に、そしてベッドの上に横たわっている男性に聞こえるように話しはじめた。
「途中、さきほどあなたが事故に遭ったのと同じ場所で、橋の欄干に激突、意識不明の重体となってここに運び込まれていたんだ」
「そんな……あぁ……私がちゃんと、あなたに会って確認していたら……」
鈴菜の双眸から涙が溢れた。
「あなたのご両親が来て、一方的に別れを納得させられてしまったの。私が……ちゃんとあなたのことを」
「――泣くのは、まだ早いぜ」
相澤が鈴菜の言葉を遮った。
ユメコからノートとペンを受け取り、ゆっくりとベッドに歩み寄る。
真治という名前の男性は、生命維持のための管につながれ、ゆっくりと呼吸していた。
伏せられたまぶたは、ピクリとも動かなかった。
「いつだったか、ユメコは俺の力のことを、皆を繋ぐ力だと言ってくれた。――実は俺自身、感じたり増幅したりというのは、力の片鱗に過ぎない、という気がしていたんだ」
相澤は静かに語り、そして力強く言葉を続けた。
「ユメコが言ってくれた言葉で、俺はこの力に気づくことができたんだ。『結合』という力に」
相澤は鈴菜と真治を順に見つめ、そしてユメコの瞳を見つめた。
「俺を信じろ」
ユメコは、相澤の瞳から目を逸らさず、しっかりと見つめ合い、頷いた。
「――うん。ショウなら、できるよ、ゼッタイ」
相澤は微笑んだ。ニヤリと、いつものように、自信たっぷりに。
そして、相澤は真治にノートとペンをかざした。目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
ひた、とそのふたつを凝視する。
「これだけたくさん思いを綴れるんだ。あんたはまだ、生きる力がある。魂と肉体を――ひとつに結合させるんだ!」
手の中のノートとペンから、あたたかく白い光が溢れ、ユメコと鈴菜は息を呑んだ。
その光は、すぅっと風に乗って流されるように一筋の糸となって、宙を渡った。
眠り続ける真治の額に、吸い込まれていく。
鈴菜は間近にいて、その奇跡に目を見開いていた。きらきらした光がその瞳に映りこみ、揺れた。
光の筋が全て真治の額に吸い込まれると、部屋にはもとの明るさが戻った。
伏せられたままだった真治のまぶたが、おずおずと開く。
まぶしいのかすぐに閉じられ、開き、何度かそれを繰り返して、ゆっくりと首を巡らせた。
「……やあ」
かすれた声だが、はっきりと部屋に響いた。
鈴菜が目を見開き、次いでくしゃりと顔を歪める。悲しみとは違う涙が溢れ、とめどなく零れ落ちた。
「なか……ないで」
真治が上手く動かない手を引き上げるように移動させ、鈴菜に向かって伸ばした。
「真治さん」
彼女がその手を握った。
互いの瞳を見つめ、再び逢えたことに、生きている安堵に笑顔になった。
「――生きているってことは大変なことだが、それでも愛する者と一緒にいられる喜びは、何ものにも代えがたいものだ」
相澤は真治にそう言って、数歩後ろによろめいた。
背後の壁に背をぶつけるようにして、ズルリ、と床に座った。
さすがに、力の放出に疲れきり、立っていることに耐えきれなくなったようだ。
「ショウ!」
ユメコが相澤に駆け寄り、かがみこんだ。相澤の頬に手を添えて、心配そうに瞳を覗き込む。
そのひんやりとしたやわらかい手を握り、相澤はユメコの体を抱きしめた。
「こうしていると元気が戻ってくるよ」
そう言って、相澤の胸のなかで顔を上げたユメコの唇に、自分の唇を重ねた。
「お疲れさま、ショウ」
ユメコはやわらかく微笑んで、もう一度、自分からそっと唇を重ねた。
「……最高の褒美だな。おまえのためなら俺は何でもできそうだ」
床に落ちたノートからは、全ての文字が消えていた。
こうして、十二月のクリスマス・イブを前にして、ふた組の男女は幸せな時間を過ごしたのだった。




