災難と、奇跡と
ふたりは窓から目を細めるようにして、犬が立っている位置を確認した。
側に松の木があり、飛び石を敷いた小道のすぐ横だ。その向こうには、赤い彼岸花が咲いている。
庭園は電灯もなく、闇に没していた。光を放っている白い犬がいなければ、庭の様子は詳しくわからなかっただろう。
「……調べてみるか。そのためには、旅館の協力も要るから、明日にならないとできないが……」
犬は、そう言った相澤を見て、ひと吠えすると、宙に溶けるように消えた。
「なんだか、頼まれたみたいだったね、いまの様子」
「……そうだな」
「なんだか不思議。ショウの力って、皆を繋いでいくんだね」
ふと口から出た言葉なのに、相澤は動きを止め、まじまじとユメコを見た。
「え、何……? 何かあたし変なこと言った?」
きょとんとして、ユメコが相澤を見上げた。
「いや」
目を閉じ、開いて、ひとつ呼吸をした相澤は言葉を続けた。
「そうだ、ユメコ。――さっきの電話の話だが、ここは建て直される前に、地震で崩れていたことがわかった」
「え、そ、そうなの?」
ユメコは思わず天井や床を見回した。
「そのとき、旅館のひとり娘が行方不明になったという――当時、五歳だ」
そのとき、ユメコの右手がひんやりと冷たくなったのを感じた。
「ひゃあぁぁ!」
ユメコは飛び上がらんばかりに驚いた。
見ると、さきほどの女の子の霊が、ユメコ右の手に自分の手を伸ばしていた。素っ頓狂な悲鳴をあげられて、きょとんとしてユメコを見上げている。
「あ、へ、変な声出してごめんね、突然でお姉ちゃんびっくりしちゃって」
あはははは、と笑って後ろ頭に手をやるユメコだった。
相澤はかがみこんで、女の子に目線を合わせた。
「君の名前は『月子』ちゃんだね」
女の子はコクンと頷き、口を開いた。
《来ちゃ、だめ》
「一番強い思念しか、伝えられないんだ。そういう霊は多い」
自在に会話ができればいいんだが、と相澤は言った。
女の子が申し訳なさそうな表情になったので、ユメコは慌てた。
「ううん、いいんだよ、気にしないで」
にっこり微笑む。次いで、「でも、アレ?」と首をひねる。
「それにしても、一番伝えたい思念が『来ちゃだめ』って、何のことだろう」
「ふむ……」
相澤は腕を組んだ。
「言葉通りなら、この場所、別館に来てはいけない、という意味になるな」
そのとき、女の子の目が見開かれた。口を開け、ぱくぱく動かしている。
相澤とユメコに、必死で何かを伝えようとしているようだが、言葉にならないようだ。
「はわわ、な、泣かないで」
伝えられないことが悲しかったらしく、女の子はくしゃりと泣き顔になった。
その女の子を抱きしめてなだめようとして、ユメコの腕が空振りする。
――相手が霊体なのを忘れていた。
「ユメコ」
相澤が、珍しく緊迫したような声を出した。
「ざわざわとした、何だか得体の知れない感触がある。急いでここを離れたほうがいい」
「えっ、でも……この女の子を、月子ちゃんを置いていけないよ!」
思わずそう叫んだ。
「ユメコ」
相澤は、有無を言わさずユメコを抱き上げた。
「その子が伝えようとしていたのは――!」
ゴゴゴゴゴゴゴ……。
遠くから、ぞっとするような低い音が聞こえてきた。耳へ、というより、足もとから腹へ響いてくる感じだ。
ズズズズズ……ガガン!
激しい衝撃に、さすがの相澤も体勢が一瞬ぐらりと崩れた。
「地震だ!」
だが、地震それ自体は、建物が崩れるほどの揺れではなかったはずだった。
しかし、次の瞬間、恐ろしいことが起こった。
《うぉぉぉぉぉおおおおぉん……!》
凄まじい衝撃が、建物の中心の地面から放出された。
たくさんの悲鳴のような、呻き声のような、恐ろしい音を伴い、建物中を吹き荒れ、蹂躙した……!
壁や天井に一瞬にしてひびが走り、空間が歪んだ。
「崩れるッ」
相澤は叫ぶと同時に、ユメコの体を胸に抱え込み、身を伏せた。ユメコの視界が真っ暗になる。
轟音が全ての音を圧し、そして何も聞こえなくなった――。
ユメコは目を開いた。
「し、ショウ……」
「ユメコ……気がついたか。良かった……」
暗くてよく見えなかったが、床に倒れているユメコに覆いかぶさるようにして、相澤も無事でいることがわかった。
「動けないんだ。そのままじっとしているんだ、ユメコ」
相澤の声に、ユメコは少しずつ周囲の状況を理解しつつあった。
ユメコをかばった相澤の上に、壁なのか天井なのか、大量の瓦礫があった。
それを見て取ったユメコが、思わず息を呑む。
ポタッ。
ユメコの頬に、あたたかいものが落ちた。それは涙ではない。
「ショウ、血が……?」
震える声でユメコは言い、泣きそうな顔になった。
抱え込まれているので腕すら動かせない。相澤のことが心配だった。
「ショウ……あたし、ショウを失いたくないよ」
その言葉に、ユメコの不安を悟った相澤は、しっかりした声で応えた。
「いや、これは本当にかすり傷だ。それに、おまえが無事なのは俺だけの力だけじゃない。俺も助けられた――」
その言葉に、ふっと気持ちが落ち着いた。周囲を包み込むような感触……。
「月子ちゃん――」
「ああ。俺たちがいる場所に落ちた瓦礫を、逸らしてくれたんだ。おかげでここだけ、体を動かせるほどの余裕はないが、ぽっかり空洞として残っているんだ」
本当に奇跡だな……、と相澤の声がした。




