ふたつのメッセージ
別館に入ると、静けさが増し、近くの渓流の音がいっそう響いて聞こえてくる。
こちらの建物にも客室が並んでいたが、どれも空いているようだ。個々の部屋の明かりは落とされている。
「節電のためなのかな。新館のほうも部屋はかなり空いているみたいだったし」
「だろうな」
相澤とユメコは、静かな廊下を進んだ。
「確かに……ここは妙なにおいがする」
相澤が低く言った。何か通常とは違う気配を感じたとき、相澤がよく口にする言葉だ。
そのとき、足湯があるほうへ曲がる角から賑やかな声が聞こえ、五人ほどの高校生の女の子たちが現れた。
角を曲がった時点で、廊下を歩いてくる相澤に気づき、近づいてきた。
「キャー!」
「すごい格好いいひと! どこから来たの?」
相澤を取り囲んだのは、さきほどの女の子たちだった。
「すまないね、連れとふたりきりになれる場所を探していて」
相澤がいけしゃあしゃあとそう言った。霊を追ってきた、とはさすがに言えない。
その言葉に、女の子たちは相澤の背後に回り込んでいたユメコに気づいた。
「残念、彼女連れだったかぁ」
「いいなぁ、イケメン捕まえて」
悪びれもなく今度はユメコに群がる女の子たちに、「え、あの」と言葉を詰まらせるユメコだった。
「あなたたち、ここに来た目的を忘れてない?」
リーダー格の女の子が声を大きくして言った。
「はぁい、忘れてなんかいませぇん」
「いこいこ、中の写真は撮ったし、出ないし」
「次は、外だね」
女の子たちはコンパクトカメラを手に、今ユメコたちが入ってきたばかりの別館の玄関に向かって歩きはじめた。
「失礼しました」
と、リーダー格の子だけが、相澤とユメコに一礼して仲間たちの後を追った。
「しかし、人数が集まると霊より騒々しいな……」
相澤のつぶやきに、ユメコは思わず吹き出してしまう。
少女たちの後姿が、真っ直ぐに続く玄関から外へ完全に見えなくなったので、相澤とユメコは進もうと前方に視線を戻した。
途端に、
「キャッ」
とユメコは悲鳴をあげてしまった。
相澤は、片方の眉を上げ、忽然と現れた白い影を見つめた。
ユメコは、相澤の腕に無意識にすがりついた。今まで遭遇したどの霊より、はっきりとした姿を保った霊体だった。
「ショウ……力、使ったの?」
「いや」
相澤は短く答えた。
それは、五歳ほどの女の子だった。
やわらかそうな髪が肩に自然に流され、瞳が大きく目鼻立ちがはっきりした、かなり可愛らしい姿だった。
両手を広げて、まるで通せんぼするように通路を塞いでいる。
ちいさな口をぱくぱくさせていた。何か言っているのかもしれない。
だが、声は音として伝わってはこなかった。
相澤は長身をかがめ、少女と目線を合わせた。
そして、女の子に向かってゆっくり手を差し出した。
怪訝そうな表情になった女の子は、相澤の瞳を見つめ、その傍らに立つユメコの顔を見た。
ユメコが女の子に頷いてみせたので、女の子はおずおずと手を伸ばし、相澤の手に触れた。
《……ちゃ、だめ》
触れた瞬間から、女の子の声が響いた。
「声が」
ユメコは思わず口走ったが、それは声ではなかった。思念のようなものだ。
相澤の力で、霊の持つ想いがより強く具現化され、周囲に伝わるように増幅されたのだ。
そのとき。
ゴゴゴゴゴ、という地鳴りが響いた。
「な、何?」
本能的な恐怖に、ユメコが目を見開いて周囲に視線を走らせた。
「これは――地震だ!」
相澤はユメコの体を引き寄せ、抱きしめるようにかばった。
だが幸い、がたがたと数秒揺れただけですぐに治まった。
ホッとして視線を戻すと、女の子の霊はまだそこにいた。
さきほどと変わらず、廊下の真ん中に両手を広げた姿勢だが、その目には涙がたまっていた。
《……来ちゃだめ……》
最後に一言伝えると、そのまま、すぅっと溶けるように宙に掻き消えてしまった。
通路を塞いでいた女の子が消えたので、相澤とユメコは廊下を進み、足湯がある場所に行ってみた。
そこには別段、何も変わったものはなかったが……。
「違和感というか――ここは何だか落ち着かない気配がする」
相澤が言った。
「建物のなかにいるのに、浮遊感のようなものを感じるんだ。エレベータに乗っている時の感覚に似ているな」
「さっきの子は、何を伝えたかったのかな」
ユメコは『来ちゃだめ』の意味を考えていた。
別館は足湯として解放されている建物だから、普通にひとも従業員も来る。
何か危険だというなら、放ってはおけない。――何かがあってからでは遅いのだ。
だが、具体的に何が危険なのかがはっきりとわからない以上、旅館側に知らせることもできない。ただの営業妨害になる恐れもある。
「ここで命を落とした、という可能性は高いな。霊となってもなおここにいるのだから」
相澤は何かを思いついたのか、携帯端末を取り出した。
「最近、警視庁の刑事から、事件解決の相談を受けていたんだ。そのお返しとはいわないが、こちらから、この場所で過去に何があったか教えてもらってもバチは当たらないだろう」
相澤は電話をかけた。
「ああ、相澤だ。――悪いが、至急調べてもらいたいことがある」
――電話の相手って、誰だろう。刑事というひとで知っている相手といえば、ひとりくらいしか浮かばないが……。
相澤は、旅館の名前と場所、今の状況をざっと説明し、過去に女の子が命を落とすような事件がなかったかを調べてもらいたいと伝えている。
「もしかして、逢坂刑事?」
電話をいったん切った相澤に訊くと、「ご明察」と返事が返ってきた。
「心霊事件というか、通常の捜査でお手上げになった事件のいくつかを、依頼されて解決したんだ」
相澤が電話の返答を待ちながら、ユメコに語った。
「ユメコが高校へ通っている間とかにな。言っていなかったなら、すまなかった」
「ううん、気にしてないよ。ただ、心霊探偵らしいことしているんだなぁって思って」
素直に感心して言ったのに、額をぺしっと弾かれてしまった。
「ちゃんと仕事、していないとな。おまえの両親にも合わす顔はなかっただろうさ」
「そっか……ごめんね」
ユメコはしょんぼりした顔になっていた。
「何故あやまる?」
「――今回、ショウは物凄ぉ~く無理している気がするから」
「正直、疲れてはいるが……何故無理をしていると思うんだ?」
「だって、ショウは、いつも自信に溢れていて、傍若無人に振舞っているし、尊敬語とか謙譲語とかとは無縁なのに今回は――」
「待て待て待て」
相澤はユメコの言葉を制した。
「おまえ、俺をどんな目で見ているんだ……」
「うーん……『俺様』?」
「良いのか悪いのかわからんな」
やくたいもない会話をしていると、相澤の携帯端末が鳴った。
「ああ――わかったか。……やはりそうか。そんなことが……」
相澤は電話に集中していた。
――傍で一方の会話だけを聞いていても、さっぱりわからないや。
ユメコは廊下の窓から外を眺めた。
小規模だが、日本庭園が作られている。
別館が建て直されたときに作られたのだろう。きれいに整ってはいたが、年月を感じない真新しさが返って趣を損なってしまっている気がする。
そこに、白い犬がいた。
夕陽はとうに沈み、暗闇に沈んだ庭園の一角に、ぼんやりと光を放つ白い犬がたたずんでいた。
ワン!
声は聞こえなかったが、白い犬はユメコに向かって確かに吠えていた。
ワンワン!
何度か吠えて、前足で地面を掘ろうとしてみせた。
実体がないので、実際には掘れてはいないが……。
その動作を、何度も繰り返していた。
「ユメコ、待たせたな。過去に何があったかわかったぜ」
相澤は電話を切り、ユメコに声をかけたが、ユメコは側の窓から外を眺めていて、こちらの声が届いていないようだった。
「ユメコ……?」
相澤はユメコに歩み寄り、その視線を追った。
そして、庭に白い犬がいるのに気づいた。
「ショウ……何かを伝えようとしているみたいなの、あのコ」
あのコ、とは、白い犬のことだろう。
「確かに、そうみたいだな」
相澤も白い犬の行動を見て、頷いた。
「あの場所に何か埋まっているのか……?」




