白い影の誘い
宿泊先の温泉があるこの土地には、他にも旅館やホテルが並んでいた。その中でも大きな旅館で、風呂の種類と数も豊富にある。
一年前に、老朽化した旧館のほうは建て直したのだという。全体的に、明るくてきれいな印象だった。
「ひさしぶりにユメコとお風呂に入れるわ」
母親の律子は嬉しそうだ。
ユメコも、父親が相澤のことを認めてくれたのでホッと安堵して、温泉を楽しもうという気分になっていた。
「露天風呂があるんだぁ」
「さぁさ、行きましょ行きましょ!」
女性ふたりは楽しそうに連れ立ってお風呂に向かった。
脱衣所で、他の客が話している内容がユメコの耳に飛び込んできた。
「白い犬の幽霊がでるんですって」
服を脱いでいた手が止まる。
「えぇ? イヤだ……どこに出るの?」
どうやら、高校生の女の子たちのようだ。ユメコのひとつ下の二年生だろうか、五人組の仲良さそうな集団。
おそらく現地の生徒たちだろうと思われた。ここは日帰り湯もできるから。
「何のんきなことをいってんの。わたしたち、それを見に来たんでしょ?」
「学校新聞、なんとしてもみんなに読まれるような内容にしないと、新聞部は解散になっちゃうよ」
「お風呂はいってるときに出てこられても、カメラはないけど」
ひとりが冗談めかして言い、「やだぁ」とふたりが笑う。
「ここじゃないから安心して」
幽霊が出る、と最初に言っていたリーダー格の子が言った。
「別館のほうの、足湯があるほうだって。あとで行ってみよう、カメラ持って」
キャー、とかいう複数の甲高い声があがる。
ユメコは、タオルや洗顔料を入れた籠を持った。
「お母さん、先に行ってるね」
声をかけて、浴室に向かって歩いた。ガラリとガラスの引き戸を開けると、ふわっとした湯気がユメコを包み込んだ。
露天風呂の周囲に置かれた灯火のオレンジ色の光が、あたたかい雰囲気を惹きたてていた。
柵の向こうにある緑の連なりは、上から照らされる蒼い月の光に浮かび上がっている。
「すごぉい」
思わずユメコは感嘆のため息をついた。
後ろから律子が来て、
「何やってんの、風邪引くわよ」
とユメコに声をかけた。そして、露天風呂を目の前にして、ユメコと同じように一瞬動きを止めた。
「あら、素適ねぇ。ね、ユメコ」
久しぶりの温泉にユメコは嬉しかった。
だが、それよりもさきほど聞いてしまった幽霊が出るという話が気になってしまい、母親の話にもどこか上の空で相槌を打っていたのだった。
「その腕と脇腹の傷……それは、弾痕か?」
ユメコたちが女同士でゆっくり露天風呂に浸かっている頃、男湯ではそんな会話が交わされていた。
泰三が言ったのは、相澤の右腕と脇腹に残る真新しい傷のことだった。
「そうです」
今さら隠すわけにもいかず、相澤は頷いた。
「……探偵というものは、銃を向けられたりする危険に遭遇することもあるのかね」
一緒にいるだろう娘の身を案じての言葉だと、すぐに察した。
「そんなに危ない仕事も入ってくるのかね」
「この件は特殊でした」
相澤は言った。その言葉は嘘ではない。
「それに、これは俺の力不足から受けた傷です。このようなことはもうありませんから」
「そうか」
あまり納得してはない様子だったが、泰三は頷き、それ以上は訊いてこなかった。
相澤は湯に浸かりながら、頭上の木造りの屋根を見上げた。そして、視線を周囲の森に向けて驚いた。
「……白い犬?」
明らかに、普通の犬ではないのが、相澤には分かった。
つぶやきが聞こえたのか、泰三が振り返った。
「どうかしたのかね?」
「あ、いえ。白い犬がそこの森の中を駆け抜けていったように見えたので」
「そうか。この旅館か近くで飼われているのかもしれんな」
それきり、ふたりの会話も静かになり、湯が流れ落ちる音と、近くを流れる渓流の音だけが響いていた。
「白い犬の幽霊の話?」
ユメコが聞いた話に、相澤は自分が見た犬の影を思い出し、少し考え込んだ。
「確かに、生きている気配がしなかったが。……駆けていった方向は、別館のほうだったな」
両親は部屋に戻っている。
相澤とユメコのふたりは、土産物を見に行くと言って旅館のロビーまで降りてきていた。
「従業員のひとに、白い犬を飼っているんですかって訊いてみたら、ちょっと驚かれてしまって」
ふたりの近くを人が通ったので、ユメコはいったん言葉を切った。声を低くして続ける。
「『見たんですか?』って恐ろしそうに、逆に訊かれてしまいました」
「なるほど」
相澤はロビーを見回した。旧館は建て直したばかりで新しいが、正面玄関とロビーのあるところは、古きよき趣を残していた。
柔らかな照明、木をたっぷり使った天井や壁と柱、床には絨毯が敷き詰められている。
従業員も細やかな配慮が行き届いていて、もっと流行っていても良さそうな旅館だった。それにしては客が少ないとも思う。
「地元の生徒たちがカメラを持って取材に来るというのも、それだけ頻繁に目撃されていて、近所ではメジャーな現象なのだろうな」
相澤は言い、ユメコに視線を向けた。
「ユメコも、気になっているのだろう?」
「うん。なんだかわからないけど、調べたほうがいい気がして」
「直感、というものは、無視しないほうがいい」
相澤は頷いた。
「よし、別館に行ってみよう。――寒くはないか?」
ユメコは、旅館に置いてあった色浴衣を着ていた。桜色ともいえる、薄いピンクの色に、赤や白の花が描かれている。
もっとも、いまは時期的に夜はすこし冷えるので、浴衣の上に防寒の為の羽織を着ていた。
「ううん、平気」
思わずそう返事した後に、ユメコは相澤を見上げた。
「あ、着替えてきたほうがいい?」
「いや、そんなことはない」
相澤は微笑んで、ユメコの姿を見つめる目を細めた。
「とてもよく似合っている。ユメコは桜色も合うのだな」
「――こんなときに誉められても。……ありがとう、ショウ」
いつものように赤くなり突っ込んだユメコだったが、素直に言葉を足した。
相澤はユメコの肩に手を回し、歩きはじめた。
「行こう」




