ふたりの危機
十歩ほど先に立つ園子から注意を逸らさず、相澤は周囲に視線を走らせた。
「ユメコ」
姿がないことに、気づく。
相澤の狼狽した表情を見て、園子がクスリと笑った。
「大切な彼女なのに、離れたのはまずかったわね」
「僅かな時間で、連れ去ることができるとは思えないな」
相澤は拳を握りしめながら唸った。
「そうかしら」
園子は言った。相澤の反応を楽しみながら。
「背を押して、下に落とすくらいはできるんじゃない?」
「イヤァッ!」
ユメコの悲鳴が聞こえた。
「この下か!」
ユメコが隠れていた柱のすぐ側の床に、足場が渡されていない箇所があった。
まさか、そこから下に……相澤は思わず一歩踏み出した瞬間。
ビシッ、という衝撃を体に感じた。
ユメコの声に思わず動こうとした相澤の腕が血に染まり、相澤の動きが止まる。
「なんてやつだ……!」
「動かないでいただきたいわ」
生温かいものが流れる右腕を押さえ、相澤は燃えるような瞳で、自分に銃口を向けた姉を睨んだ。
「どうせこの世から消してしまうんですもの。その前に少しくらい楽しんでもいいわよね?」
園子は綺麗な顔をほころばせ、極上の微笑みをみせた。
しまった、ユメコがそう思ったときには落ちていた。
相澤が、柱の影から男たちに突っ込んだところは見ていた。
そのとき、何者かの影が自分にかかり、背後に人の気配を感じて振り返った。
そこに立つ人物――相澤園子に、思わず悲鳴を上げようとした。
だが、口を押さえられ、襟元をぐいと引かれて……すぐそばにあった足場の切れ目から下に投げ落とされたのだ。下の床までは四メートルか五メートルほどあった。
視界が回転し、全身に衝撃が駆け抜ける。背中を強かに打ちつけたらしい。激痛にユメコは呻いた。
息が詰まり、とっさに声が出せない。
「……う……」
必死で息を吸い、むせるように呼吸を繰り返して目を開いた。
そして、すぐ傍に誰かが立っていることに気づいた。
その人物が誰なのか見て取り、ユメコはゾッとした。
「……相澤……雅紀……!」
「覚えていてくれたんですね、夢子さん」
雅紀が、嬉しそうに頷きながら言って、一歩、床に倒れたままのユメコの体に近づいてくる。
暗い影から、真横から差し込んでくる夕陽の光のなかへ入ってきた。
夕陽に照らされた横顔に浮かぶ表情は、尋常ではなかった。
まるで、おもちゃでも与えられた捕食動物……いや、獲物を前にした欲望の目だ。
――こわい……逃げなきゃ……。ショウがどうなったのかも、心配だった。
ユメコは這うようにして、迫る雅紀から離れようとした。落ちたときに打ったかひねったか、足が痺れて思うように動かないのだ。
雅紀が、楽しげな足どりで、ユメコとの距離を詰めた。
かがみこみ、ユメコの顎を掴んで自分に向けた。顔を近づけてくる。
「イヤァッ!」
ユメコは咄嗟に腕を突き出して、雅紀を押しのけた。
「……僕を拒否するなんて、信じられない」
意外そうに目を見開いた。そして、不快そうな表情になる。
「あなたなんか、大ッ嫌いです!」
ユメコははっきりと言い放った。
カッとなった雅紀は、体をぶつけるようにしてユメコに覆いかぶさった。
雅紀の勢いに突かれて後頭部を打ち、僅かに力が抜けたユメコの両手首を、雅紀が掴んで押さえつけた。自分の体重をかけ、ユメコの動きを完全に封じる。
「……い……ゃッ」
ユメコは必死で身をよじった。だが、がっちりとした筋肉の男の腕は強く、容易に離れそうになかった。
「ククッ――婚約者だというが、こんなに幼い娘のどこに翔太が惹かれたのか……じっくり調べてやろうじゃないか」
雅紀はユメコの細い首筋に唇を寄せた。
触れられた瞬間、ユメコは嫌悪感にビクンと震えた。
「きれいな肌だな……穢れを知らない肌だ」
恍惚とつぶやいた雅紀の唇が、首から顔へ這うように移動し、ユメコの唇に触れようとした。
そのとき。
「この、変態ヤロウッ!」
目を閉じて顔を背けていたユメコに覆いかぶさっていた雅紀の体が、横に吹っ飛ばされた。
「大丈夫か、ユメコ!」
馴染んだ力強い腕に抱き上げられ、そのなかでユメコは目を開いた。
「し……ショウ……」
安堵したように微笑むユメコだったが、全身の震えは治まらないまま、カタカタと細かく揺れていた。
相澤は怒りを込めた目で雅紀に向き直った。
「俺様の女に手を出すなッ!」
相澤は裂帛の気合いとともに叫ぶ。
自然のものとはいえない風が、その場を吹きぬける。
「相澤の血は恐ろしいな……」
雅紀が、皮肉っぽく口もとを歪める。自分には、決して持ち得ない力。
しかし、ユメコの体を抱いたまま雅紀と対峙する相澤は、息を切らし、呼吸を乱していた。
珍しいことだった。
「ショウ、怪我を!」
見れば、右の上腕と左の脇腹から血が流れている。
「このくらいはかすり傷だ」
相澤は言い、ユメコの瞳を真っ直ぐに見つめた。
そして口の端を持ち上げ、ニヤリと笑ってみせた。
相澤は、ユメコの声で下の状況を悟り、撃たれるのを覚悟で園子に踏み出したのだ。
足もとに転がっていた鉄線を蹴り上げ、驚いた園子の隙を突いて下の階に飛び込んだのである。
園子が撃った銃弾は急所からは外れたが、脇腹に命中していた。
体に二発の弾を受け、さすがの相澤も焦りを感じていた。だが、それでも表情には出さなかった。
――あたしに心配かけまいと、無理しているんだ。どうしよう、どうすればいいのだろう……。
「見上げた根性の持ち主ね、我が弟ながら尊敬するわ」
上階から園子が降りてきて、ふたりに笑いかけた。そして、銃口を相澤の心臓にピタリと向けた。




