突然の電話
突然、携帯電話が鳴った。
バイブレーションもフローリングに響いて、着信があることを力いっぱい主張している。
いや、電話は鳴ることでその存在価値に繋がるのだが、深夜に着信音全開でブルブル振動されると、まさにそんな表現をしたくなってしまう心情なのであった。
「あぅ~……でんわでんわ」
暗い部屋の中、ベッドから手を伸ばしたユメコは、床に置いたと思われる携帯電話を探った。
「どこ……わりょっ!?」
ドスン!
一回転するようにベッドから落ちた。おかげで完全に目が覚める。
瞳のすぐ傍に着信を知らせる七色のイルミネーションが輝いて、ユメコの起きぬけの目を射ていた。
半端に起き上がったユメコは、携帯電話を手に取った。片目に近づけて相手番号を確認する。着信番号は覚えのない数字の羅列だった。
「はい……もしもし?」
ちょっぴり警戒しながら電話に出る。ひとり暮らしなのだ――用心深くなって当然といえる。
「――夜分に恐れ入ります。都内中央病院なのですが」
『病院』の言葉に、ぼんやりとしていた頭が一気にクリアになった。
「は、はい」
遠くの家族に何かあったのだろうか。いやでも、待てよ……都内の病院とか言ったような――そう考えてユメコは首をひねる。
「携帯にあなたのお名前しかなくて、こちらにかけさせていただきました」
「はい?」
「事故に遭われて、意識がないのです。二十歳代の男性なのですが、心当たりはありませんか?」
どくん、と心臓が鳴った。
知り合いにも親戚にも、当てはまる者はいなかったが――ひとりだけ、そういえば。
「……相澤所長、ですか?」
「身元がわからないのです。こんな時間で申し訳ないのですが、病院に来ていただければ助かります」
有無を言わさない口調だった。事務的な声が一方的に内容を伝えている。
時計があるとおぼしき部屋の一角に目をやるが、就寝時にはコンタクトレンズを装着していないので、何時なのかわからない。
「わかりました。すぐ行きます」
病院の場所と病室を確認して、ユメコは携帯電話を切った。画面に表示してある時刻は、三時だった。
「滅多に出歩かない所長が、事故……?」
とりあえず、行くしかない。
コンタクトレンズの箱を引っ掴み、ユメコはキッチンのシンクに向かった。
病院に着いたのは、それから三十分後だった。
幸い、住んでいる学生アパートの徒歩圏内だった。
深夜に電車やバスは走っていないし、タクシーを拾うほどお財布に余裕もなかったので、ほとんどの距離を走ってきたのである。
「うぅ、暑いぃ……」
病院の手前で一度立ち止まり、はぁはぁと息をつく。深夜で人通りも少ないので、ユメコはシャツの胸元を手で掴んでぱふぱふと動かし、風を送った。
まとめる余裕のなかった長い髪が首すじにはりついていたので、一度手でまとめて背中側に放る。そうして呼吸を整えながら、通用門をくぐり抜けた。
「……深夜の病院って、なんか怖いなぁ……」
正面玄関は閉まっていたので、裏の通用口に向かい、警備員の詰め所で事情を説明して中に入れてもらった。
きちんと人間がいたことで、少しだけホッとした気分になる。
教えられた階段を上がり、ナースセンターに丁度ひとがいなかったので、そのまま病室に向かった。
病室に着くと、部屋の前に看護師の女性がいた。すぐに先生を呼んできますからと言い置き、女性は急ぎ足でその場を離れた。ユメコはひとり、ぽつんと残されてしまう。
暗い廊下は、不気味だった。
あまり新しい病院ではない。どこからかピッピッと規則正しい電子音が複数響いてくる。
ユメコは腕をさすりながら、おそるおそる明るい病室を覗きこんだ。
「……所長?」
一応、声をかける。
個室になっていて、ベッドがひとつ置かれている。
そこに横たわっていたのは――。
「所長!」
ユメコは叫び、ベッドの傍に急いで歩み寄った。
確かにそこにいたのは相澤翔太――ユメコがバイトをしている私立探偵事務所の所長であった。
ぱっと見たところ外傷はないようだが、何度か呼びかけても目を覚ます気配はなかった。
今は顔にメガネはなく、何だか別人のような気がしてしまうが、間違いなく本人だ。
まつげが長いことにあらためて気づかされる。
「整った顔立ち……だよね」
静かな病室で、間近に一方的に観察する機会に遭遇したというわけだ。
「でも、何があったんだろう」
外傷はなさそうだが、眠っているわけではないような気がして、何だか急に心配になってきた。
「息……してる、よね?」
こわごわと上体をかがめ、ユメコはそっと顔を寄せた。
そのとき、バタバタと足音がして、医者の先生と看護師が病室に到着した。
「すまないね、お待たせして」
掛けられた声に、ベッドにかがみこむようにして相澤を見つめていたユメコが慌てて身を起こす。
「私が脳外科担当の医師、長谷川です。目立った外傷はないのですが、意識が戻らないようなので」
ベッドの上の相澤に視線を向けて、長谷川医師が語った。
「商店街の裏通りに倒れていたところを、近所のひとが見つけて119番通報したようです。運び込まれたときには持ち物はなく、すぐ傍に転がっていたという携帯電話がありましたので、その中に唯一登録してあったあなたに連絡させていただいた、というわけです」
「このひとの名前は、わかりますか?」
看護師が口を挟んだ。
「えと、相澤翔太さんです」
「失礼ですが、君とはどういう?」
「はい、バイト先の所長さんなんです」
なるほど、と長谷川医師は頷いた。
状況からは、事故か、何か犯罪に巻き込まれたのかまではわからないということだった。
親類を訊かれ、あまり詳しくは知らないんですと前置きをして、ユメコは知っていることを話した。
「相澤翔太さん、二十三歳だったと思います。経歴や家の住所は知りません。私立探偵事務所の所長さんです」
そういえば、家系とか実家とか、家族のことはあまり詳しくは聞いたことがない。
「父は相澤コンツェルンの統括をやっているよ」
いつだったか、一度だけ所長が話してくれた。
ため息とともに吐き出されたその名前を聞いたのは、後にも先にもそれ一度きりだ。兄がいるという話も聞いたが、どんなときの話だったかよく覚えていない。
考えてみると、バイト先の雇い主のことなのに、ほとんど知らないのだった。同じ事務所内で、同じ部屋で、かなり長い時間を過ごしてきたというのに。
毎日話すこともなく、受験生だからという理由もあって、ノートや単語帳を開いたりすることが容認されていたので、頭の中が忙しかったせいもある。
医師と話していると、警察官が到着した。
現場の近くの茂みに落ちていた、と所長のものらしいカバンを渡される。
手提げタイプの革のカバンだった。
警察官からの事務的な質問に答えを返していると、空の色が闇色から青みを帯びたものに変わってきた。
幸い、今日は日曜だ。
――学校が休みでよかった、と黎明の空を見上げたユメコは思ったのだった。
日常が変わってしまう、事件のはじまりです。