雨と風の不協和音
「霊柩車を暴く、なんて嫌ですよ」
外はすでに、暴風といえる勢いで一方向に吹く風に支配されつつあった。
夏なのに、外気温もかなり下がっている。風が吹いているので、体感温度はなおさらだ。
半袖から出ている腕には、鳥肌が立っていた。
そんな震えるユメコの肩に手を乗せ、相澤が微笑んだ。
「心配ない、棺を開くわけじゃない」
「はあ……」
相澤はそれでも不安そうにしているユメコに、気が進まないなら軒下で待っているように言い置き、借りてきたレインコートを着こんで雨の中に出た。
「この風だ。外は危険だし、そこで待っていてくれたほうが俺も安心だ」
「うぅ――平気です、あたしも行きますっ」
ユメコもレインコートを羽織り、胸元をしっかりと手で握った。そして、意を決して雨と風の中に踏み出し、相澤の後姿を追いかける。
相澤はユメコの行動を予想していたらしく、立ち止まって待っていた。
強い風に足元をすくわれそうになるユメコの腰に手を回し、薄闇の中を慎重に歩いていく。
駐車場の地面は泥の海と化していた。公民館が建っている側の山から水が流れ込み、小さな川のような流れが行く筋も形成されていた。
流れは駐車場を横切り、崖のようになっている斜面を流れ落ちていた。暗い闇に沈む斜面のほうは木々が生い茂り、先がどうなっているのかは見通せなくなっている。
相澤とユメコは霊柩車を見つけた。死者には申し訳ないが、この状況ではどこにも動かせないのだろう。雨と風のなか、置き去りになったままだった。
――なんだか可哀想、ひとりぼっちでこんな場所に……死んでも寂しかったりするのかなぁ。
昼間なのに、そこだけ闇に沈んでいるように思えた。雨に濡れた車両に、時折風のかたまりが衝突して、ドン、と揺れている。
相澤が支えていてくれなかったら、ユメコも風にあおられて転んでいただろう。
全く風に翻弄されないで真っ直ぐに立っている相澤が不思議なくらいだ。
ふたりは、公民館からは死角になる位置に回りこんだ。
「ユメコ、俺の肩でも腰でもいい、しっかり掴まっていろ」
相澤はユメコの腰から手を離し、手を取って自分の腰に回すように導き、背中にまわったユメコの様子を肩越しに確認して、車に向き直った。
後部の黒ガラスに、ゆっくりと両手をかざす。
相澤が目を閉じ、開くと、サイドウィンドウに何かぼんやりと像が浮かび上がってきた。
「ヒッ」
覗き込むように様子を窺っていたユメコは、危うく悲鳴をあげるところだった。
それが、人の顔だったからだ。
「中に納められているのは、この男だ。どうやら強い思念が残っているらしい」
相澤が短く説明する。
《タスケテ……クレ》
思念のようなものが、ふたりに届いた。声なき声だ。
「助ける? あなたを?」
思わずユメコが訊いた。
《タスケテクレ……妻ヲ……娘ヲ、奴カラ……》
「娘さん?」
ユメコは思わず相澤の顔を斜めに見上げた。
相澤はガラスに浮かび上がる顔から視線を逸らさず、口を開いた。
「こちらからの質問には、具体的に応えることはできない。だが、伝えることはできる」
そして、霊に語りかけるようにゆっくりと言葉を発する。
「わかった、安心してくれ。奥さんと娘さんは、必ず助ける」
顔の映像はぼやけ、窓の内側に戻ったかのようにふっと消えた。
「娘さんは生きているようだな。そうなると奴が怪しい……」
『奴』というのは、娘は死んでいると説明していた例の黒スーツの男のことだ。
確か、金原と名乗っていた。
「そういえば、霊柩車の運転手のひとはどこなの? 事情を聞けば、娘さんがいたかどうかなんて一発でわかるんじゃないかな」
ユメコの言葉に、相澤は首を振り、渋面になった。
「それが、妙なんだ。公民館には、それらしい人物はいなかった」
「消えた運転手さんと、娘さん……」
「妙なにおいがするな」
相澤が厳しい表情でつぶやいた。
相澤は公民館には戻らず、自分のセダンに歩み寄り、後方のドアを開けて何やら工具のようなものを取り出した。
そうして再び霊柩車に近づき、ドアの施錠を解除した。
ユメコは目をまん丸に見開いた。
「――驚きました。鍵って、そんなに簡単に開けられるものなんですか」
「この車は骨董品だし、かるいかるい。中を調べる必要があるんだ」相澤はドアを開いた。
ふたりは素早く中に入って、ドアを閉めた。開け放していては、車の中まで水浸しになってしまいそうな雨の勢いだった。
車内は結構広かった。
相澤の所有する車と違い、外国メーカーの車であるので幅が広く、しかも年式が古いので天井が高いのだ。
霊柩車の内部は、最前列が運転席と助手席、次の列が三人座れるシート、そして仕切りで隔てられた後方が、棺を入れるスペースとなっている。
仕切りはあったが、ユメコはさきほどの映像を見たこともあって、ドキドキ鼓動が高鳴りっぱなしだった。
――突然起き上がってこられたりして、こう、ドンっと仕切りに手を突かれて……。
「ユメコ」
相澤の声に、思わず「ヒッ」と声にならない悲鳴をあげる。
「傷つく反応だな、それは」
その言葉に、ユメコは慌てて首を振った。
「――別に、ショウに驚いたわけではないです」
「わかっている」
相澤はニヤリと楽しそうに笑った。
――こっちの反応、面白がってる!
文句を言いたかったが、恐怖が少し和らいだことに気づき、それ以上は言わないでおいた。
シートの下や隙間を丁寧に見て、ドアにあるポケットも確認する。
「荷物も何も、残っていないですね」
女の子がいたという証拠でも残っていたら話は早いのだが。
後部座席を調べていたユメコはため息をついた。
前の座席から、ガバッとばかりに相澤が身を乗り出してきて、ユメコはまたも心臓の鼓動が早くなってしまう。
「そういえば、狭い車内にふたりきりか。ロマンチックな状況だと思うがな」
「今の状況で語る言葉じゃない気がします」
また驚かされてしまった。意図してやっているのだろうか、とユメコは頬を膨らませる。
そのとき、誰かが近づいてきた。咄嗟にふたりは身を伏せる。
だが、この車の持ち主ではなかったようで、そのまま足音と気配は通り過ぎていった。
一旦自宅に戻ろうしている、村の住人のようだ。
「何か見つかれば良かったんだがな……さて、長く居ないままだと怪しまれるかもしれない。そろそろ戻るぞ」
ふたりが車から降りようとしたときだった。
「――あれ、見て」
ユメコが指差した先に、何か絵のようなものがあった。
ふたりが車内にいたので、篭った水蒸気が内ガラスを曇らせ、子どもの細い指で線を引いたと思われる落書きが現れたのだ。
おそらくこの車がここへ着いて放置される前に、描かれたのだろう。
にっこり笑顔の男女。稚拙な絵だが、ほんわりと心があたたかくなるような、愛情が込められた絵だった。
その子の父親と母親だ、と容易に想像がついた。そして、母親の顔には、メガネも一緒に描かれている。
絵のなかの夫婦、そのそばに、描きかけたもうひとつのちいさな笑顔……。
「パパとママと、自分を描いていた途中みたいですね」
おそらく完成前に描くのを中断され、そのまま残されたのだろう。
「これ……あの女のひとの乗ってきた車だよね?」
「ああ」
ユメコと一緒に、その絵を見つめていた相澤は、厳しい表情で頷いた。
「女の子は、ちゃんといたんだ。嘘をついていたのは、あの精神科医のほうだ」
――連れ去られたんだ。
ユメコは描きかけの絵を見て、確信した。
女の子の持ち物は全て持っていかれ、まるで最初から居なかったかのように偽装されたのだ。
存在していた女の子――その事実を、母親の幻想だと周囲に説明して回り、隠蔽した。
ユメコはポケットにあった自分の携帯電話を取り出し、カメラ機能を使って絵の写真を撮った。
暗い車内で一瞬閃いたそのストロボを、一対の目が……暗い決意を湛えて駐車場の端から見ていた。
ひと組の男女が車内から出てくるのを見て、その者は静かにその場を離れていった。