降って沸いた、災難
「ぽつ、ぽつ、と、かぁ……」
助手席に座るユメコのつぶやきに、ハンドルを握る相澤は「ん?」と訊き返した。
「雨のことか? あえて言えばザーザーという土砂降り、という表現が当てはまりそうだが」
「ううん。お仕事が、です」
ユメコは手元の参考書から顔を上げ、相澤の横顔を見た。
「以前はぜんっぜん、もうまぁったく、来なかったのに、最近はぽつぽつ入るようになったじゃありませんか」
「そうだな」
「喜ばしいことですよね?」
ユメコの問いに、相澤は苦笑した。
「寒くないか? こんな夏の雨は冷たいからな。暖房がいるならつけるぞ。むろん俺様が直に温めてもよいが」
「運転中ですよ」
ユメコは釣れない態度で応対した。それでも頬が赤くなっていたが、相澤は土砂降りの雨の中で車を運転しているので、視線を送る余裕もなさそうだった。
相澤の反応に、なぜかちょっぴり寂しそうに、ユメコは別の話題を重ねた。
「今回のは、雨台風みたいです」
「そうか……。まだ近づいてきている段階だというのに。仕事が終わった帰りでよかったな」
まだ昼間だというのに、外は暗かった。山間を抜ける国道を走っているのだが、行きかう車はどれもヘッドライトをつけている。
周囲の景色は雨で煙り、視界は狭い。
今日中に帰り着きたかったが、無理かもしれないな……。ユメコは腕の時計を見た。
それは突然だった。
「マズい!」
前触れもなく車内に響いた、相澤の声。同時に踏み込まれるブレーキ。
咄嗟に、ユメコは頭を抱え込むように身を伏せた。そうしないと、横のドアウィンドウに頭をぶつけてしまいそうだ。
ギュギュギュギュギュ……ガコン!!
車は激しくスピンして、停まった。幸い、引っくり返ったわけではなさそうだ。
「大丈夫か? ユメコ、怪我はないか!?」
「……何、どうしたの?」
目を見開いて震えるユメコを、シートベルトを外した相澤が抱きしめる。
「土砂崩れだ……目の前で雪崩れてきたんだ。危うく巻き込まれるところだった」
窓の外を見ると、車のサイド寸前に黒い土の山がうずたかく積もり、まるで壁のようにすぐ傍まで迫っていた。
何台か、他の車が土砂の壁に突っ込んでいる。
ユメコたちの乗ったセダンが激突を避けられたのは、相澤の並外れたドライビングテクニックの賜物だった。
「まずは人命救助だ」
相澤がドアを開けて雨の中に出て行く。ユメコもそれに続いた。
ちょうど、車が途切れていたタイミングに土砂が崩れたらしく、突っ込んだ車以外に、下敷きになった車がいなかったのは幸いだった。
道路が直線になる地点に差し掛かっていたので、前方を見ていた相澤には、状況が見て取れたらしい。
突っ込んでいたのは後続の車だ。こちらも幸い、重症の怪我人はいなかった。
「……携帯電話も携帯端末も繋がりません」
助けを呼ぼうとふたつの電話を手にしていたユメコは、相澤に首を振った。ひとつは相澤のものだ。
相澤が車に搭載してあるカーナビを見る。
「近くに村があるな。電話を貸してもらおう。怪我人の手当ても必要だ」
無事な車を動かし、動かない車の分は動くほうに乗り合って、計五台が近くの村に向かって移動した。向かう途中わかったことだが、来た方向も土砂崩れで寸断されていた。
『陸の孤島』、というわけだ。
人家を見つけ、相澤が車から降りて玄関に向かう。同乗していた夫婦に「待っていてくださいね」と声をかけ、ユメコも相澤を追った。
ユメコが近づくと、事情を説明する相澤に、村長らしい中年の男が応えているのが耳に入った。
「電話も駄目だ。土砂崩れで寸断されたらしい」
「そうですか……」
「村長!」
そこへ、村の自警団のマークが入った上着を着た男が雨のなかを駆けてきた。
そろそろ風も出はじめていた。台風がいよいよ近づいているのだろう。
「公民館へ向かってもらってくれ。他にも、土砂崩れで帰れなくなった人たちがいる。そこを避難所に解放したから使ってくれ」
「ありがたい」
相澤は礼を言って、村長たちとともに公民館へ皆を誘導した。
公民館は、村長の家より少し山を登った場所にあった。
それほど大きな建物ではない。ちょっとした集会所という感じだった。それでも設備はいろいろ整っているようだ。
広い畳敷きの部屋があり、炊事ができるスペースもある。
隣接した駐車場は舗装されておらず、ざあざあと振り続ける雨でところどころ海のような水溜りができていた。
すでに、他にも避難したひとたちがいるようだ。四台の車が停まっていた。
「あれって、もしかして霊柩車?」
ユメコが一台の車に視線を向けた。黒塗りのリムジン型のキャデラックが停まっている。
長い車体の後部は、黒く塗られたガラスで中が見えないようになっている。それは、確かに霊柩車だった。
「そうみたいだな」
相澤は頷き、空いていた駐車場の一角にセダンを停めた。
相澤に続いて車から降りたユメコは、ふと、女の子の声を聞いたような気がした。
公民館に入る前に立ち止まっている彼女の様子に気づき、相澤が振り返り「どうした?」と声をかける。
ユメコは再び耳を澄ましてみたが、その声はすでに聞こえなくなっていた。
「ううん、気のせいかな。女の子の声が聞こえた気がして……」
相澤は注意深く周囲を見回したが、はねる雨粒と広がるぬかるみの他には、濡れている木々ばかりだ。
駐車場にも、今しがた上ってきた坂道にも、女の子はおろか人の気配すらなかった。
「……とりあえず、中に入って体を乾かそう。風邪をひく」
冷たくなっているユメコの肩を抱き、相澤が公民館のなかへ入るよううながした。
村のひとからタオルをもらい、公民館の入り口でふたりがずぶ濡れになった体を拭いていると、
「誰か、誰かわたしの娘を見掛けませんでしたか? アイナという名前の、四歳の女の子なんです」
母親らしき女性が、公民館に避難している人々に訊いている声が聞こえた。
タオルを手にしたまま、ユメコは部屋の中を覗き込んだ。
黒い喪服に、銀縁の細いメガネをかけている、二十代後半の知的な印象を受ける女性がいた。長い髪を後頭部でひとつにまとめて、化粧も控えめだったが、きれいな女性だった。
だが、いまは憔悴したような様子で、見える横顔の目の周囲が少し窪んでいた。
「霊柩車に同乗していた親族さんなのかな……」
新たに外から入ってきたふたりに気づいたのだろう、女性はこちらに目を向け、歩み寄ってきた。
「あの、すみません。外で見かけませんでしたか? 娘が急にいなくなってしまって」
細い声で言いながら、女性が相澤とユメコに交互に視線を向けた。不安そうに、焦りに、瞳が揺れていた。
「あなたの娘さんが行方不明なんですか? この雨の中では心配です。すぐに男たちで手分けして探しましょう」
相澤が、まだ濡れているユメコの肩にタオルをかけて包み込みながら、その女性に声をかけた。
「いえ……どうかお構いなく」
女性が答えるより早く、そう言って進み出たのは、どこといって特徴のない、三十代と思われる黒いスーツ姿の男だった。
「え、いま何て? 一刻を争う状況なのでしょう!?」
訝るユメコに、その男はひとつため息をつき、女性の耳には届かないよう小声になって、ゆっくりと応えた。
「あの女性に娘などいません。娘さんは何週間か前に交通事故で亡くなっているのです」
「え、でも」
「次いで、夫を亡くし、あの女性は孤独になってしまった――精神的ショックは計り知れないでしょう。それで私が、精神科医として付き添っているのです」
男は、金原と名乗った。とある薬品会社の開発研究員で、精神科医の資格も持っているとふたりに説明した。
「あの霊柩車のなかに、女性の夫が積まれています。これから山の向こうの実家に向かうところだったのです」
金原はそう言い、女性の肩を抱くようにして向こうへ歩いていってしまった。懸命になだめている言葉がユメコたちにも届く。
そんなやりとりが、何度も繰り返されたのだろうか。
部屋に集まっている人々の数は二十人ほどいたが、その誰もが目を逸らすようにして押し黙るように座り続けていた。
「可哀想に……」
誰かのつぶやくき声が、ユメコの耳にも届いた。
「いま皆さんに手伝ってもらって、探していますから」
金原は、すすり泣く女性に虚偽を口にしていた。精神安定剤だという薬を女性に渡し、「誰か水を」と周囲のひとに頼んでいる。
「……そういうものなのかな」
すっかりドロだらけになってしまった自分のローファーを見つめながら、いまいち納得できないユメコがつぶやいた。
「あの女のひとの話、もしかして……本当だったりしませんか?」
異常な状況――土砂崩れで道路はおろか通信手段まで外部と遮断され、外は風が勢いを増し、公民館の建物も時折ゴウという音ともに揺れている。
「直感だが」
相澤は言った。
「これは、何かあるな。調べてみよう」