殺意と、愛情と
楽屋にはユメコたちの他に、ソファーに座る刑事ひとりと、入り口のそばにふたりの警官が立っていた。
刑事と向かい合うソファーに座って心細そうにしていた香奈子は、立ち上がってホッとした表情で宗谷隆一を迎えた。
その気弱な表情はとても演技だとは思えない。殺人とは全く無縁の人間に見えた。
部屋に戻った三人がソファーに落ち着いたのを見て、おもむろに刑事が口を開いた。
「……このコンサートホールで、二年前に死人が出たのをご存知かな?」
問うように、一同を見回した。
話の内容を承知している相澤は無表情だったが、突然の話にユメコ、宗谷は驚いた。香奈子はうつむいている。
「それは事故だったのだ。まぁ……そういうことになっている。不審な点はなかったのだから」
だが問題はそこではない、と刑事は言葉を続けた。
「名前は米沢ヒノキという男性だ。照明係だった。舞台の上の照明を調節中、足を滑らせて落下し、首の骨を折って死亡した」
刑事は一旦言葉を切り、宗谷の隣に座っている女性に視線を向けた。
「そこに座っている小林香奈子の恋人だった」
息を呑む音がふたつ聞こえた。ユメコと宗谷だ。
香奈子はうつむいたまま、動いていない。
「そして、殺された米沢サクラの実の兄だ。米沢サクラは、兄にとてもなついていたという。兄と友人が恋仲になり、嫉妬はしていたらしいが祝福もしていたようだ」
刑事は一冊の手帳のようなものを取り出した。可愛らしい花柄とピンクの表紙の、日記帳のようだ。
「これは被害者、米沢サクラのものだ。最後に書き込まれたページ、昨日の日記を見てほしい」
刑事は、昨日の日付が記されたページを開いた。皆に見えるように、身を乗り出して机の上に置き、くだんのページを開いたまま手で押さえた。静かにその箇所を指し示す。
『殺してやりたい。お兄ちゃんのことをあっけなく忘れて、自分だけ幸せになろうとしている憎いアイツを』
アイツ――香奈子さんのことだ。ユメコは、ぞっとして思わず自分の体を腕で抱え込んだ。
「これって……!」
宗谷も目を剥いてそのページを食い入るように見つめ、そして隣に座る香奈子に視線を向けた。
香奈子が顔を上げ、ソファーから立ち上がった。
「そんな……そんなの、わたし、知りません……ッ」
震える声で訴えた。見開いた目で、日記を見つめている。
「さきほど事故で亡くなったというかたの名前も……わたし初耳です!」
「恋仲のことは、君たちのことを知っているオーケストラのお仲間全員から同じ話を聞いて、すでに確認済みだ。とても仲睦まじいカップルだったと」
相澤が、背を預けていたソファーの背もたれから身を起こし、口を開いた。
「ひとは、あまりにつらい過去を記憶の底に沈め、無意識に忘れ去ろうとすることがある。自分だけに残された時間を……生き続けるために」
香奈子が、ふらりと二歩後退り、ソファーから離れた。
相澤は、よく通る声で言葉を続けた。
「そのために、あんたのなかに生まれた別人格があるはずだ――男の人格、ヒノキが。このコンサートホールを熟知し、作業着を一着盗んで調達することができる人格が」
香奈子の様子が変わった。足を開き、上体を斜めにかがめるような姿勢になった。嘲笑うように口の端を歪める。
「妹が――最愛の女性を殺そうとしていたんだ。阻止するのに――他の理由が要るというのか?」
香奈子ののどから出た声は、本人のものとはかけ離れていた。しわがれたような、低い、男のものだった。
驚いた宗谷が立ち上がった。覚悟はしていたが、相当にショックを受けたようだ。
「か、香奈子さん……まるで霊に取り憑かれているみたいだ」
同時に、相澤も立ち上がっていた。
「霊に取り憑かれているというのはありえない。心の中に残っている、死んだ男性への深い愛が――自分がいま幸せに出逢ってしまったことへの罪悪感が、その人格を生み出したのだ」
相澤の言葉に、香奈子だった人物は弾けるように哄笑した。乾いた笑い声はすぐに消え、苦しそうな声が言葉を続ける。
「愛する女性のためさ。できればヴァイオリンから――この業界から離れてほしかった、妹の憎しみの目から」
「それが、あの脅迫文とあくどい悪戯の数々だな」
黙っていた刑事が言った。事前に相澤から別人格の可能性を聞いていたのだろう。それでも、眉ひとつ動かさなかったからたいした度胸だった。
「すでに調べはついている。脅迫文の印刷に使われたインクと、小林香奈子の自宅のプリンターのインクは同じメーカーのものだ」
「そして、指紋も?」
「鋭い指摘だ、ユメコさんだったか――お察しの通り、最後の脅迫文には、君たちの他には小林香奈子当人の指紋が検出された。あのときには紙に触れてもいないはずなのに」
香奈子は顔を伏せた。両手で頭を抱え込むようにして唸った。
「香奈子さん!」
ユメコが苦悶する香奈子に駆け寄った。
「香奈子さん、病院へ行きましょう! 多重人格になっても、統合できれば治るって聞いたことがあります。ちゃんと治しましょう。宗谷くんだってそれを望んで――」
ガバッと顔を上げた香奈子は、ユメコの喉を両手で締め上げた。
「うッ……!」
突然のことに、ユメコは反応できなかった。女の力ではない、強い力でぎりぎりと首が絞められた。
「やめるんだ、香奈子さん!」
動転した宗谷の叫びが発せられると同時に、相澤が動いた。
踏み込んだ相澤は香奈子の腕をひねり上げ、ユメコの喉から振り解くと、香奈子の体を後方の壁に叩きつけた。
「ユメコに手を出すな」
それ以上の力をなんとか自制している相澤が、香奈子の襟元を掴んだまま唸るように告げた。
「香奈子の為なら、何でもやるさ。初恋の相手とかいう不安材料も要らない。消し去ってやるさ」
香奈子の口で『別人格』が語った。
相澤は、一瞬目を閉じ、開いた。その瞳と目が合った香奈子の体がぐったりと弛緩する。
相澤は手を離し、香奈子の体を駆け寄った宗谷に預けた。
「気を失ったようだ。首に気をつけて、ソファーに寝かせてやれ。――刑事さん、救急車を呼んでやってくれ」
「私の名前、現場検証に付き合ってもらったとき、逢坂と名乗っただろう。いい加減覚えてくれ」
逢坂刑事が苦笑しつつも、背広のポケットから携帯端末を取り出した。
「大丈夫か、ユメコ……苦しかっただろう」
相澤は振り返り、床に座り込んだまま呆然としていたユメコの体を抱きしめ、抱え上げた。
ゆっくり力を取り戻した瞳が、間近にある相澤の瞳に向けられ……その唇が開いた。
「だから……抱っこは、禁止です」
弱々しいがはっきりと発せられた言葉に安堵し、相澤は声を立てずに笑った。
救急車が到着し、小林香奈子は担架に乗せられて運ばれていく。
「僕は、彼女の傍についていきますね」
宗谷が、相澤とユメコに向けてしっかりとした声で言った。
「彼女の再起には、かなりの長い時間を必要とするだろうな」
相澤の言葉に、宗谷は頷いた。
「それでも、僕は支えていきたいんです」
「真っ直ぐなことは、いいことだと思うぞ」
行ってやれ、と顎でしゃくると、宗谷は何かふっきれたような、爽やかな笑顔で一礼して歩いていった。
まるで、急におとなの男に成長したように、実に堂々とした態度だった。
その背を見送り、ユメコはつぶやくように言った。
「あたし、わかりません……本当に二重人格のなせる業なのか、それとも、霊に取り憑かれていたというのか」
「そうだな……ただ、確実にいえることは」
相澤はユメコの肩を抱き寄せながら言った。
「どちらにせよ、そのふたつは外側から見れば同一に映るということだ」
コンサートホールの外で帰りのタクシーを待ちながら、ユメコは相澤を見上げた。
「でも、意外でした。どうしてだったの?」
「なにがだ?」
「ショウが、霊に取り憑かれているとかありえないって言ったこと」
ふむ、と相澤は頷いた。夜の街を流れる車のライトに目を向け、静かに言葉を続けた。
「多重人格なら説明がつくだろう。この現状に、霊を持ち出した説明は通らない。もし仮にも、そんなものがまかり通ったとしたら……世間は大混乱だろうな」
「確かに……そうですね」
ユメコは視線を足元に落としながら相槌をうった。
「悪魔憑き、憑霊による殺人など、今までにも似たような事件は世界にいくつもあった……だが、まだ解明されずに残ったものがほとんどだ」
そこまで語って、相澤はユメコに真っ直ぐ向き直り、顔を上げた少女の瞳を見つめた。
「何故おまえは、俺が一度死んで、この体に入り込んだことを信じた?」
「それは……あたしにも説明できません」
そうか……、と視線を逸らした相澤は小さく呟き、今度は微笑みながらユメコに視線を戻した。
優しい表情だ。
「信じてくれて、よかったと思っている。こうして、ともに時間を過ごすことができているのだから」
相澤はユメコの顎に手をかけ、僅かに持ち上げた。
そして――唇を重ねた。
短いキスだったが、相澤の想いがこめられたキスだった。
そのまま、ユメコの瞳を見つめてて囁くように言った。
「――ありがとう」
と。