ふたつの心、ひとつの思い
「そんな……あたしには信じられません!」
激昂したユメコは、声が大きくなっていた。
「ユメコ」
相澤はそんな彼女の顔を、大きな手でやんわりと包んで優しげな瞳で見つめ、なだめるように言った。
「落ち着け、何もおまえがそんなに心を痛めることはない」
楽屋の外の廊下である。少し広くなっている場所に、観葉植物の鉢がいくつかあり、それらで囲むように休憩スペースが設けられていた。
人通りはほとんどなく、残っている関係者と警官がたまに通り過ぎるくらいである。
廊下の奥に、例の血の海となっていた女性用トイレの前には黄色のテープが張り巡らさせている。その向こうには真っ青なシートが見えていた。
死体はすでに運び出されているが、ユメコはその方向に視線を向けると痛ましそうに目を伏せていた。
鑑識の結果を待っている間、相澤がユメコを廊下に連れ出し、事件のことを説明しておこうとしたのだが……。
「犯人が……小林香奈子さんだというの? でも、彼女も被害者なんですよ」
ユメコは声のトーンを落としたが、その声は震えていた。
「これから、それを説明する」
相澤は静かな目でユメコを見つめ、その小さな両手を自分の大きな手で包み込んだ。
「……聞きます」
「いい子だ」
安堵した相澤はフッと微笑んだ。この上もなく穏やかな表情になる。
――このひとは、あたしのことを本当に大切にしてくれているんだ……。
ユメコは頭にのぼっていた血が、すぅっと引いていくのを感じた。
「俺がさっき刑事に呼ばれて席をはずしたとき、現場であるトイレに行っていたんだ。そのせいで……ユメコに怖い思いをさせて本当に悪かった……」
「ショウはきちんと間に合ったから……助けてくれて無事だったんだから、もう気にしないで」
話を続けて、とユメコは相澤の顔を見上げて先を促した。
「殺された女性は、小林香奈子と同じヴァイオリニストだ。友人の付き合いはあったらしいが、どちらかというと香奈子のほうを一方的にライバル視して、日常的にもかなりきつい言葉を吐いていたらしい」
相澤は顔をしかめた。相手の女性は、香奈子に相当な嫌がらせを続けていたらしい。
――ショウは、そういうのが嫌いだもんね……。
「新しい恋人相手が高校生、というのを知ったその女性は、小林香奈子に対して毎日罵っていたという。今日もそうだったようだ。居合わせた仲間が、慌てて仲裁に入っている」
相澤は声を低くして言葉を続けた。
「殺された相手……その女性を鏡に何度も打ちつけ、鏡もろとも叩き割り、体を床に叩きつけたんだ。凄まじい力で、容赦のないものだった。それで、あの刑事は男が犯人だと思ったらしい」
「血の海、だったのよね……」
ユメコの言葉に、そうだ、と相澤は頷いた。
「男だと考えた理由は他にもある。盗まれた清掃作業員の制服が、かなり大きめの男性のものだったことだ。犯行当時に返り血がつくのを防ぐために犯人が着用していたのだが、その制服がトイレの換気口から見つかった」
「大きな男性の制服……」
「ああ。犯人像を男に変え、捜査の目を狂わせようとしたんだろうな。でも、それが災いした。――ズボンの裾が長すぎたんだ。俺が刑事に呼ばれて意見を訊かれたのも、そのことを検証していたからなんだ。部下たちではよい意見が聞けなかったらしいから」
「一応、ショウの肩書きは探偵だものね」
ユメコは強張っていた表情を僅かに緩めた。
「床は血まみれだ。通常はありえない膝下のところまで、床に擦った血の跡が残っていた。だから、実際にはそんなに背が高くない小柄な人物が着ていたことが、容易に想像できたよ」
相澤は、自分の足を示しながら説明した。
「そして浮かんだのが、第一発見者の小林香奈子だ。中で作業着を脱いで換気口に押し込んで隠し、そのあと床を歩いたので衣服が血に汚れたんだ」
ユメコは、宗谷が腕に抱えていた、事件後すぐの香奈子の状態を脳裏に思い出した。返り血らしき跡はなかったが、確かにスカートや手がどす黒くなった血で汚れていた記憶がある。
「驚いて転んだということだが……ショックで意識を失ったことも含めて『彼女』には事実だったのだろう、何も知らなかったということが」
「それは、どういうことなの?」
ユメコの声は、恐ろしい話が語られる予感に少し震えていた。
「彼女の中の、『別人格』がやったことだからだ。おそらく、作業着を始末したところで、本来の人格と交代したのだろう。殺人については、おそらく『本人』にそのつもりはなかったのであろうな」
「でも――でも、相当な荒業だったのでしょう? 刑事さんが、男の犯行だと思ってしまうくらいに」
「別人格が男だったら、十分に考えられることだ」
相澤は、自分の細いが筋肉質な腕を動かしながら言葉を続けた。
「人間は『火事場の馬鹿力』と呼ばれているような現象を起こすこともある。一時的なものだがな。つまり、潜在的に誰でも普段より力は出せるものなんだ。ただ――その力は継続するものじゃない。続けていたら、身体のほうが耐え切れず壊れてしまうだろう。だから、普段はそうは見えなくても、人格が変われば出せることもある。過去にもそんな事件はあったんだ」
相澤はそこまで語って、言葉を切った。
「それでどうする? 君は」
相澤が突然、背後に向けて声をかけた。
驚いたユメコが視線を相澤の見る先に向けると、大きな鉢植えの陰から宗谷が歩み出てきた。
「そこで聞いていたのは、とっくに気づいていた」
「それでもなお、気づかぬふりで話し続けていたんですね――僕にも聞かせるために……」
相澤は真剣な表情で、目の前の青年を見つめた。
「――愛しい相手のことだ。知らないで済むことではないと思ってな」
「でも……信じがたいです、そんな事実……」
宗谷は握った拳を震わせて低く言い、下唇を噛みしめた。
「無理もないさ」
相澤は目もとを緩め、宗谷の肩を叩いた。
「だが事実なのだ。――これから対峙することに、動揺しないよう覚悟しておくんだ」