奇妙な、証拠
相澤とユメコは、取調室と化している楽屋を抜け出し、廊下に出た。
とてもではないが、ずっと詰めているには息苦しい場所だったのだ。部屋を出て行った刑事も帰ってこないまま、二時間近く経過しているのだ。
時計を見ると、時刻はとっくに夕方を過ぎていた。
「ユメコ。こっちへ」
相澤に呼ばれ、ユメコは彼の傍に寄り添った。
コンサートホールの各入り口には警官が立っている。
そのうちのひとりの警官が持ち場を離れた隙を狙って、ユメコの腰に手を回した相澤は素早く扉の中に身を滑り込ませた。
ホールの舞台上はすでに片づけられていて、広かった。
相澤は入ってきた入り口から壁沿いに進み、少し奥に移動した。そして、さきほど香奈子から預かった脅迫文が書かれている紙を取り出した。
「いいか、よく見ていろ」
そう言い置いて、畳まれたままの紙を手のひらの上に置く。ふぅ、と息を吹きかけると、ゆらりと煙のようなものが立ち昇った。
驚きに声をあげそうになって、ユメコは慌てて口を手で押さえた。
「何これ? 顔みたいなものが見える……」
はじめふわふわとした塊にしかならなかったものが、徐々にはっきりとした形を成してくる。
相澤が腕に力を込めた。その煙が、ふいにはっきりとした形を取る。
「これって……」
ユメコの反応を見て、相澤ははっきりと頷いた。
「これが、脅迫文の送り主だ」
愕然としていたユメコが口を開きかけた、そのとき。
「こら! こんなところで何をしている!?」
突然の声に、ユメコは飛び上がった。
振り返ると、そこには例の刑事がいた。ホールの重い扉を開けて中を覗き込むようにして立っている。
相澤は素早く紙をポケットに突っ込んだ。
「相澤の御曹司――ちょっとこっちへ来てくれないか」
「いいぜ」
相澤は刑事に向かって頷き、長身をかがめてユメコの額に素早く唇を寄せた。
「すまない、ちょっと行ってくる。すぐ戻るから、ユメコは先に楽屋のほうに戻っているんだ」
「は、はい」
思わず頬を押さえたユメコとニヤニヤ笑う相澤に、刑事があきれたような視線を送ってくる。
「……おまえ、援助交際とかではないだろうな」
「法に触れることはやっていないぜ」
半眼になった刑事に相澤はさらりと答え、扉を出るときにユメコに向かって片目を閉じてみせた。
扉が閉まったが、ユメコは少しの間その場に立ったまま動きを止めていた。
これから楽屋に戻ろうとしても、さきほどの映像が頭から離れない。
「香奈子さんに、何て言ったらいいのだろう……」
相澤はすぐ戻ると言った。ならば、戻ってから話をするのかもしれない。自分が先に動いては悪い方向に行きそうで怖かった。
ぐるぐると考えながら扉に手をかけたとき、扉のほうが勝手に開いた。
「ユメコさん」
「か、香奈子さん」
――心底驚いた。
ドキドキとうるさい音を立てて鼓動が早まった心臓の上を、手でぎゅっと押さえるようにしてユメコは笑顔を作った。
「ど、どうしてここに?」
香奈子は気弱そうな笑みを浮かべて、言った。
「わたし、コンサートの後、ヴァイオリンを置いたまま外に出てしまって……トイレに。そのあとすぐに事件でしょう。取りに行きそびれてしまったんです」
それで、舞台の裾に楽器をまとめてあるらしいので、そこにあるのではないかと来てみたのだと語った。
「大切な楽器なのに……携えずに出ていってしまったんですか?」
ユメコの問いに、香奈子は目を伏せた。
「そうなんです。わたし……昔からなんですけど、何か別のことをしようすると直前までやっていたことを忘れてしまうみたいで記憶が飛んでしまうんです。隆一さんがついていてくれるようになってからは、私生活ではずいぶんそういうことが減ったんですけど」
「宗谷くんとは、いつからお付き合いを?」
香奈子はほんわりした笑顔になって答えた。
「はい。わたしが自宅でやっている音楽教室に通ってくださっていて、三ヶ月ほど前に告白してくれて……嬉しかったです。お付き合いはそこからですね」
本当に嬉しそうな笑顔で語っていた。香奈子は舞台の上に向かって歩きながら話し続けている。
「宗谷くんも、香奈子さんを大切に思っているみたいですね」
ユメコも歩きながら、つられるように微笑んでいた。さっき見たばかりの、紙の上に浮かび上がった顔は……きっと何かの間違いなんだろうと思いながら。
――だって、こんなに想い想われていて、幸せそうなのに……それをかき乱すようなことを起こすはず、ないよね。
「それにしても」
香奈子は、ふふ、と笑いながら言った。
「可愛らしい探偵さんですよね、ユメコさんって。それに、隆一さんとは小学校も同じで、今はクラスメイトだとか」
「はい。今は同じクラスです。小学校は一緒だったらしいけれど……実はよく覚えていなくて」
ユメコは申し訳なさそうに肩を縮めた。ひとの名前と顔を一致させるのが昔から苦手だった。
「隆一さんにとって初恋のひとなんですってね」
楽しそうに笑いながら、香奈子が言葉を続ける。
「えっ」
突然の言葉に驚く。ユメコにとっては初耳だった。
「お付き合いする前に、隆一さんと普通にいろいろお話していた頃に聞いたことがあったわ、あなたの名前。でも、今はわたしが一番だと信じています」
「そうだと思います」
胸を撫で下ろし、ユメコが微笑んで頷いた。お互いに大切にし、大切にされて、とても素適なカップルだと思った。
「恋をしたら、ヴァイオリンは素適な音色になるというわ」
香奈子は笑顔をみせた。光が屈折したような、印象的な笑顔だった。
「わたし、本当は隆一さんの初恋のひとが気になっていて。お話できて嬉しかったです。じゃあ、わたし、ヴァイオリンを見つけてきます」
そう言って、少し顔を染めた。
「隆一くんに心配させるわけにいかないから、早く楽屋に戻らないと」
「あ、はい」
香奈子の後姿が横に垂れている幕向こうに消えるのを見送り、ユメコはつぶやいた。
「あたしたちの勘違いだよね、きっと」
さて、自分も戻らなくてはと思ったとき、ガタン、という奇妙な音が響いた。何かなと周囲に視線を走らせたユメコに、何者かがタックルしてきた。
勢いもそのままに、床を滑るように転がる。
同時に、すぐ傍で耳をつんざく物凄い音が響き渡った。
目を開いたユメコは驚いた。
「ショウ」
相澤はユメコの体をしっかりと胸に抱きしめ、自分が下になって床に倒れていたのである。
「痛てて。くそッ……間に合ってよかったぜ。だが、俺様としたことが、すまない。危機一髪の状況におまえを置いてしまった」
「……え?」
かすれた声でユメコは訊き返し、背後の舞台中央に目をやると、そこには照明がまるまる一列、落ちていた。
舞台上に四列並んであるうちの二列目た。
粉々に砕けた照明の破片、太い鉄パイプ、割れた木の床……ユメコが立っていた位置だった。
「うそ……」
あのまま立っていたら、頭を割られて間違いなく――死んでいた。
「ユメコさん!」
ヴァイオリンを抱えた香奈子が駆けてくる。物音に驚いたのか、ホールの入り口からもわらわらとひとが集まりつつあった。
「うわ、ひでぇ……」
「なんだこれはっ! おい、照明係を呼べ!」
その声を背後に、香奈子が涙を浮かべて言った。
「ごめんなさい、わたしがユメコさんを残して行ったばかりに、こんな恐ろしいことに」
そう言って身を震わせる香奈子の足元に、何か落ちていた。
「これは……?」
ユメコが拾い上げる。それは折りたたんだ紙だった。
相澤が受け取り、慎重に開く。
「脅迫文だ」
素早く目を走らせ、短く告げた。
「『おまえはもう終わりだ』とあるな。例の脅迫文と同じ書体だ」
香奈子が青ざめた。
「……もしかして、ユメコさんはわたしと間違われて殺されかけたんですか?」
「それはわからない」
相澤は、香奈子の伸ばした手が紙に届かないうちに、その紙を駆けつけた刑事に手渡した。ポケットにあった例の紙も一緒に渡す。
「この手紙の指紋を調べてくれないか」
「わかった」
刑事は頷き、すぐに鑑識の担当者を呼んだ。