仕事の依頼を受けて
「それで、君は……小林香奈子、このヴァイオリニストの何なのだね」
カツカツ、カツ。
警視庁から来たという刑事は、ペンで机を叩くのが癖になっているらしい。
非常に耳に障るが「うるさいです」と言えるほどの度胸をユメコは持ち合わせていなかった。
「え、えと、ぼ、僕は……友人です、といいますか、その……」
実に歯切れも悪くしどろもどろになりながら刑事に応えているのが、宗谷隆一――ユメコの高校のクラスメイトである。
「しっかりしろ。恋人なんだろう?」
横から口を挟んだのは、相澤だった。
「はぁ、は、はい!」
宗谷は真っ赤になってうつむいてしまった。あの、心配していたときの様子といい、ただの友人以上のものだろうとユメコですら感じたほどだ。
「失礼だが、君は?」
刑事は、自分よりひとまわり若い世代の相澤に、鋭い視線を向けた。さっきから睨むような目でソファーにどっかりと座り込む、やたらと態度がデカそうな男が気になっていたようだ。
「俺の名は相澤翔太。――私立探偵だ」
刑事の隣で、後輩の刑事か私服警官らしき男が「相澤コンツェルンの御子息です」と耳打ちしているのがユメコの耳にも聞こえた。
「なるほどな。道楽息子が、いっぱしに私立探偵気取りという訳か」
はっきりとものを言う刑事に、フッと相澤が口もとだけで微笑んだ。だが、細めた目は笑っていない。
端正な顔立ちをしているだけに、相当に迫力があった。
――怖いなぁ、もう。これじゃあ挑発ですよ。
ユメコ自身は見慣れているので特に何とも思わないが、初対面のひとに向ける顔ではないと思っている。
「俺はユメコの保護者としてここにいるだけだ。あとは、現場を見た者として」
――ていうか、後者の理由のほうが明らかに強いですよ、それは。あたしは結局、現場を見せてもらえなかったですけど。けれど血の海だったというから、もし見ていたら小林香奈子という女性のように、卒倒していたかもしれないし……。
「ユメコ……黒川夢子さんは、宗谷くんのクラスメイトで間違いない、そうだな?」
「はい、今日はコンサートを聴きにきていて、帰ろうとしたとき偶然出口付近で会ったんです」
相澤はさりげなく宗谷の身元をユメコに語らせたのだ。そうして、堂々とした態度で刑事に視線を向ける。
カツ、カツ。
刑事は渋面になり、また机を叩きはじめた。彼が考えるときの癖なのだろう。
ユメコは、こっそりため息をつきながら、ぐるりと部屋を見回した。
コンサート会場の楽屋の一室である。鏡と机が並んだ壁が奥にあり、ところどころにきれいな花が飾られている。
部屋の中央にはソファーと机が置いてあった。今ユメコたちが座っている場所だ。
部屋の中には、他にも会場の関係者や刑事、警官たちがいた。
たぶん他の楽屋も使って、事情聴取が行われているに違いない。あのとき、集まっていた人数は相当多かったから。
「殺されていたのは米沢サクラ。顔面損傷、頭蓋陥没、全身打撲の跡、そして多数の切り傷……」
刑事は無造作に写真を数枚、机の上に放った。
「見覚えがある顔かね? まぁ、原形はとどめていないのだが」
相澤は、写真が机に置かれるのと同時に、隣に座ったユメコの頭を抱き寄せていた。
視界が塞がれ、ユメコに見えるのは相澤の胸だけとなる。
「未成年になんてものを見せるんだ」
低い声で、唸るように言う。
写真をしっかり視界に入れてしまった宗谷は、顔色をなくしてふらりと倒れかかった。
だが、そのとき聞こえた声に弾かれたように、宗谷は意識をしっかり取り戻した。
「隆一さん……」
「香奈子さん!」
さきほど宗谷の腕の中で意識を失い、別室で介抱されていた小林香奈子が部屋に入ってきたところだった。血に染まった衣服は着替えてあった。
席を立ち上がった宗谷は、香奈子が机に近づく前に写真を全て裏返しにする。そして、泣きついてきた香奈子をしっかりと抱きしめた。
香奈子は宗谷より十歳ほど年上らしいが、それを感じさせない愛の絆のようなものがあるようだ。
――という状況を、ユメコは全て音と声で判断するしかなかったわけだが。
「あの、ショウ……そろそろ苦しいんですけど……」
控えめな声で、だがきっぱりとユメコは訴えた。顔も体も、しっかり相澤の広い胸に抱きしめられたままなのだ。
「忘れていた。あまりに抱き心地が良くてね」
いけしゃあしゃあと言いながら、相澤はユメコを解放した。ようやく顔を上げたユメコは、耳まで真っ赤になっている。
「それで、君たち――この殺された女性との関係を聞きたいのだが」
刑事が話を戻そうとしたときだった。新たにひとり、部屋に駆け込んできた警官が、刑事に向かって言った。
「このホールの清掃作業を行っているという下請け業者の者から、連絡がありました。男性作業者の制服が一着、消えているそうです」
「まさか、それを着て犯人は現場から脱出したのではないか?」
なるほど男の力ならば、鏡と人間の頭を叩き割ることはできるだろう。そう刑事は思ったようだ。
「本部へ連絡、至急だ。監視カメラの確認に加えて、周辺の捜索を。ああ――君たちはまだ訊きたいことがある。そこで待っていろ」
部下に指示を出し、ユメコたちに言葉を投げながら部屋を出て行った。
残されたユメコたちは、お互いに自己紹介するしかやることがなくなってしまった。
「わたし、ヴァイオリニストの小林香奈子です」
控えめな笑顔で名乗り、傍に座る宗谷の手をぎゅっと握った。
小柄で華奢な体の線、年上だとは言っても宗谷と比べてそんなに離れているとは思えない容姿だった。加えていえば、なかなかの美人である。
「怖い思いをしましたね……。あたしは黒川夢子といいます。こちらが私立探偵の相澤所長です」
紹介された相澤が頷いた。一応、頭を下げたようだ。
「私立探偵さん……?」
伏せがちだった香奈子の目が、相澤に向けられた。
「良かった。わたし、頼みたいことがあるんです」
「俺に?」
訝る相澤に、香奈子は「はい」と何度も頷いた。
「実は、最近身の回りでおかしなことばかり起こっていて、助けて欲しいんです」
「ぼ、僕からもお願いします。最近の香奈子は、本当に悩んでいて、気の休まる時間もなくて」
相澤は素早くふたりに視線を走らせた。
「――仕事の依頼、というわけだな」
「そうです! お願いできますか?」
「……いいだろう」
「やったぁ!」
嬉しそうな声は意外な場所からあがった。ユメコである。相澤と宗谷、そして香奈子からの視線が自分に集まっていることに気づき、ユメコは思わず自分の口を押さえた。
「す、すみません、つい」
相澤がこらえきれずに吹き出した。
「え、えっと、困っている友だちのために、何かできるのが嬉しいんです。お任せくださいね」
ユメコは取り繕うように言った。
――本当は、はじめての『私立探偵』としての仕事の依頼だったから。とは、正直に言えないよね……穴があったら入りたい。
「とりあえず、話を聞かせていただこうか」
相澤はにっこり笑った。体の持ち主だった『相澤翔太』を彷彿とさせる人好きのする微笑みだった。
――バリバリの営業スマイルですけど。
ユメコは横目で相澤の顔を眺めた。
「はい」
ソファーに座った香奈子が背筋を伸ばす。
そして、座る前に壁側にあるロッカーから取っていた自分のカバンを開け、中から折りたたんである紙を取り出して相澤に手渡した。
受け取った相澤は、一度香奈子に視線を向け、彼女が頷くのを確認してから紙を開いた。
それは、脅迫文だった。
耳障りな音楽をやめろ、とある。恋を知らないヴァイオリンの音色には、ひとを惹き付ける力がないとか、何とか。プリンタで出力したような文字だ。
「こういうものが、他にも?」
「はい」と香奈子は頷いた。
「それだけではないんです。あるときには、ヴァイオリンのケースに針が仕掛けられていまして」
宗谷が続けた言葉の意味に、ユメコが思わず息を呑む。そのあとは香奈子が語った。
「……幸い、毒も塗られておらず、刺したのが右手の指でしたので、演奏に響くことはありませんでしたが……」
「確かに、悪戯や嫌がらせにしては、あくどいな」
目をすがめて、相澤はつぶやいた。
「そして、今回の殺人事件ですからね……」
宗谷も言った。
「誰かに怨まれる覚えはあるのか?」
視線を向けられた香奈子は、しばし動きを止めて考え込んだ。
「ヴァイオリニストの世界も、厳しい競争社会です。知らないうちに怨まれることは、いくらでもあると思いますので……」
ため息のように言葉を吐かれては、何も言えなかった。
「わかった。調べてみることにしよう」
相澤は仕事を引き受けたのだった。