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受験JKと心霊探偵の事件変奏曲  作者: 星乃紅茶
序章 Introduction
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序章 Introduction

「今日もお仕事ないやぁ……」

 黒川夢子はそっとつぶやいた。

 目を上げて夕方七時を示す時計を見る。そして再び手元の単語帳に視線を落とす――。

 暇、だった。

 一応受験生であるのだから「暇」という言い方はまずいのかもしれない。しかし、それでも本当に暇なのだから――仕方ないよね、とも思う。

「ユメコさん」

 静かな室内に声が響く。発音は洗練されているが声量的には弱々しい、おっとりした男の声。

 窓の外に広がるのは都心のビル群。そして夏を前にして遅い夕暮れの空だ。

大きな窓いっぱいに広がる透明なオレンジ色に目を向けたユメコは、まぶしそうに目を細くした。

「今日も暑かったですね」

 ピクチュア・ウィンドウを背にした青年が、気遣わしげに声を掛けている。巨大な窓の前に設えてある机の主――所長だ。

 壊れかけたクーラーが、カラカラと音を立てはじめる。

「そうですね」

 ユメコはちょっと笑って、席から立ち上がった。

「所長、コーヒーお淹れしましょうか? いつものでよろしければ」

「ああ、ありがとう。それをいただいたら、今日はもう閉めてしまおうか」

 閉める、とは事務所のことだ。今日もお仕事の依頼はないから営業終了、これで帰ってもいいよ、という意味なのだ。

 ユメコは椅子を丁寧に席へ押し戻してから、キッチンスペースへ向かった。

 ふうわりとした絨毯が足音を吸収する。とはいっても、ユメコの靴はかかとが低いローファーだ。カツカツ、という小気味よい音は立てられっこないのである。

 加えていえば、地味な色合いのスカートに、白いブラウス。ぴったりの、ではなく、ちょっぴりダブついた感じの。

 髪の色は薄い茶色。ただし――染めたものではない。

 生まれつきのコンプレックスのもとである薄い髪と瞳の色は、日本人なのにどうして、と嘆きたくなるような淡色であった。それでもさらりとした髪質は気に入っているので、長くのばしている。

 もっとも今は、飾り気のないお団子状にひっつめてあるのだった。

 都内の高層ビルの事務所には、相応しくないくらいの地味っ子だと自分でも思っている。

「まあ……バイトだから、ね」

 いつか社会人になったら、こんなオフィスビルに似合いそうな、スーツを着込んだキャリアウーマンになれるのかなぁと思い描き、ユメコはひとり照れたような笑顔を浮かべた。

 キッチンスペースはすっきりとしている。余計なものはない。冷蔵庫を開け、冷やしてあったアイスコーヒーのピッチャーを取り出した。

 フィルターで丁寧に漉し、氷と一緒にグラスに入れる。仕上げに薄くスライスしたライムを乗せれば完成だ。

「すっかり手馴れちゃったなぁ……」

 一応事務、というか秘書というか、コーヒー淹れ担当というか――仕事が入らないのだから仕方がない。パソコンも机に置いてあるが、日常ではあまり役に立っていなかった。

 ほとんど依頼も仕事もないのに、こんな立派なオフィスビルに事務所を維持できているのは何故なのか。

 理由はいたって簡単――所長である相澤翔太が、お金持ちの次男坊だからである。

 親に独り立ちをしろと言われたらしく、自分にできることを考えて「私立探偵」なるものをはじめたとユメコは聞いている。

 だが、道楽ではじめたような仕事に、依頼がくるはずもなく……。バイトのユメコは、日々コーヒーの豆を挽き、軟水のミネラルウォーターとともにピッチャーに入れて冷蔵庫で冷やす、という作業を繰り返すことになっているわけだ。

「よっ、とと、と」

 寄木細工のトレーに乗せて所長の机まで運び、置いた。氷がグラスに当たり、涼しげな音を響かせる。

「ありがとう」

 相澤が微笑んで礼を言い、ユメコに視線を向けた。

「あ、は、はい」

 その優しげな目もとに、ユメコの鼓動が跳ねる。いつも穏やかな態度で接してくれる相澤は、はっきりいって美男子なのだ。

 上の縁がない華奢なメガネをかけ、首を傾けるとさらりとした髪が流れる。黒く細い髪は見苦しくない長さに整えられている。

 手は大きく、指はまるで芸術家のように繊細で長い。その手を伸ばし、グラスをゆっくりと持ち上げて口に運ぶ。

「うん、おいしいね」

 ひと口味わい、相澤はユメコの顔を見てほんわりと微笑んだ。アイスコーヒーのふた口目を飲んでから、ふと思いついたように口を開く。

「クーラー、もしかして調子悪い?」

 今さらですか、所長――とはいえないユメコが、こくんと頷いた。

「そうみたいです」

「そうか。明日にでも業者のひとに来てもらおう」

 所長の言葉に、秘書を兼ねているユメコは電話に手を伸ばした。

「あぁ、いいよ。僕がしておくから」

「所長――」

 できるんですか――と、喉もとまで出かかった言葉を、危ういところでごくんと飲み下したユメコだった。

 はっきりいって、自分では何も出来そうではない印象しかないので、その発言自体がユメコにとってちょっと……いや、かなり、意外だったのである。

「でも、バイトですから、お仕事なんですよ」

 気遣ったユメコが声を掛けると、相澤は微笑んだ。

「ありがとう。でも今日はもういいんだ」

「はい、所長」

 ユメコは素直に返事をして、自分のカバンを手に持った。

「では、お先に失礼します」

 ぺこり、と頭を下げてオフィスを出る。分厚い扉を閉めるとき、ふと誰かの話し声が聞こえた気がした。

「ん……気のせいかな?」

 動きを止めていたユメコは首を振り、扉をそっと閉めた。所長が、さっそく業者に電話でもしたのかもしれない。

 それでも何か釈然としなかったが、ユメコは伸びをひとつしてエレベーターホールに向かって歩き出した。

「――さぁて、帰ったら勉強、勉強」

 つぶやいた瞬間、ぞわり、と背筋を駆けのぼる感覚があった。ユメコは思わず悲鳴をあげそうになった。

 おそるおそる振り返ると、そこにあるのは静かな内廊下と扉が並ぶだけの、いつもの光景。敷かれているのは高そうなカーペットだが、それ以外は特に何も気になるところはない。

「風邪のひきかけ、かな」

 エレベーターを呼ぶボタンを押し、ユメコは肩をすくめたのだった。



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